第77話 こんな煌びやかな場所、私には似合わなかった
は貴族たちの名残惜しげな視線を背中に受けながら、フィオナはようやく大広間の出口へと歩き始めた。
(もう少し……!)
扉までは、あと僅か。
ここを抜ければ人目も減る。あとは急いで王宮を出て、馬車へ戻ればいい。
そう胸を撫で下ろしかけた、その瞬間だった。
「──お待ちを、フィオナ嬢!」
「……え?」
朗々とした声とともに、一人の青年が行く手へ躍り出た。
濃紺の髪を華麗にかき上げ、羽飾りを揺らしながら胸を張る。
ルッツ・エルベール・ドゥラン。
最初にフィオナへ声を掛けてきた、あの青年だった。
「本日、この会場で最初にフィオナ嬢を見出したのは、この私!」
「え、えと」
「そしてエスコートを申し出たのも、この私です!」
「それは……そうでしたけど」
フィオナの頬が引きつる。
嫌な予感しかしない。
ルッツはそんな様子など意にも介さず、芝居がかった仕草で片手を胸へ当てた。
「にもかかわらず、未だ一曲たりとも踊っていただいていない!」
「えっ」
「これはあまりにも悲しい!」
「いえ、あの……」
フィオナはちらりと時計を見た。
残された時間は、もうほとんどない。
「申し訳ありません。私、もう帰らないと──」
「せめて一曲!」
ばっ、と手を差し出される。
「このルッツ、一生のお願いです!」
「そ、そんな大袈裟な」
「ご安心を! ダンスには些か覚えがあります。この私へ身を委ねていただければ、フィオナ嬢を今宵もっとも美しい姫君として──」
「ルッツ様」
すっ、と。
セシリアが二人の間へ入った。
「フィオナさんはお疲れなのです。今日はもう、お帰りになるところです」
「第五王女殿下」
さすがのルッツも一瞬姿勢を正したものの。
「しかし、一曲だけでございます!」
「ですから──」
「おお、エルベール伯だけ抜け駆けとは感心しませんな!」
別の声が飛んできた。
「……え?」
フィオナが振り返る。
先ほどまで話していた若い貴族たちが、また集まり始めていた。
「声を掛けた順番など関係あるまい!」
「そうだ! それなら私にも一曲お願いしたい!」
「お前たち、フィオナ嬢がお疲れだと言っているだろう!」
そう言いながら、その男もちゃっかり輪へ加わっている。
「えっ、ちょっ……!」
あっという間に出口の前が、再び人の壁で塞がれた。
「皆さま、本当に──」
セシリアが制止しようとする。
スカーレットも人垣を掻き分けて近づいてくる。
けれど。
フィオナの耳には、それよりも先に。
別の音が届いた。
──ゴォォン……。
「…………っ」
重い鐘の音が。
王宮全体を震わせた。
一つ。
深く。
長く。
大広間に響き渡る。
(……零時)
フィオナの顔から、さっと血の気が引いた。
間に合わなかった。
胸の奥に刻まれていた魔力が、すっと抜けていく感覚がする。
続いて。
身体を包んでいた何かが、静かにほどけていった。
「……?」
ルッツが瞬きをする。
フィオナの周囲に、淡い光の粒が浮かび始めていた。
「フィオナ……さん……?」
セシリアも目を見開く。
ぱきり、と。
硝子へ亀裂が走るように、空間が僅かに揺らいだ。
そして、栗色の髪の間から。
隠されていた二つの獣耳が、ふわりと姿を現す。
「…………」
さらに、ドレスの背後。
それまで何もなかった場所から、豊かな毛並みの尻尾が現れた。
「…………え?」
ルッツの声が、妙に大きく響いた。
一瞬。
誰も何も言わなかった。
音楽さえ。
人々の呼吸さえ。
止まったように感じられた。
「……獣人?」
誰かが呟いた。
その一言が。
凍りついた水面へ落ちた石のように、広間全体へ波紋を広げる。
『獣人……?』
『どういう事だ? あの娘が?』
『嘘だろう』
『さっきまで耳など……』
『魔法で隠していたのか!?』
『では最初から、我々を欺いて……?』
ざわめきが一気に膨れ上がった。
「…………」
フィオナの獣耳が、不安そうに伏せられる。
尻尾も無意識に身体へ寄った。
(やってしまった……)
最悪だ。
よりにもよって、これほど大勢の目の前で。
「フィオナ嬢……」
目の前では、ルッツが呆然としていた。
先ほどまでの勢いは完全に消えている。
「あなたは……獣人、だったのですか?」
「……はい」
フィオナは小さく答えた。
「申し訳ありません。事情があって……隠していました」
「事情……?」
どう説明すればいい。
自分が奴隷だったこと。
ヴァルト領から来たこと。
ジークがこの魔法を掛けてくれたこと。
何一つ、この場で話せることではない。
「それは──」
フィオナが口を開きかけた。
そのとき。
パシャンッ!
「……!」
足元で、硝子の割れる音がした。
赤い液体が白い床へ飛び散る。
ワイン。
フィオナのドレスの裾にも、小さな赤い飛沫が付いた。
「…………」
ゆっくりと顔を上げる。
恐る恐る、上座へと視線を向けると……カトリーナが立っていた。
先ほどまで持っていたグラスはない。
その美しい黄金色の髪を揺らしながら、第二王女はフィオナを鋭く睨み据えていた。
「……どういうこと?」
低い声だった。
先ほどまでの上機嫌が跡形もなく消えている。
「貴女……獣人だったの?」
「…………はい」
フィオナが答えた瞬間。
カトリーナの顔に、露骨な嫌悪が浮かんだ。
「ふざけるな!」
「……っ」
「獣人風情が、人間のふりをして私の宴へ紛れ込んでいたというの?」
広間が静まり返る。
「しかも」
カトリーナの視線が、フィオナの獣耳と尻尾をなぞる。
「私の酒へ近づき、同じ場に立ち……」
唇が歪む。
「酒に毛が入りでもしたら……考えただけで興が削がれるわ!」
「お姉様!」
セシリアがすぐさま前へ出ようとした。
「フィオナさんは──」
「セシリア」
一言。
冷たい声が飛ぶ。
「黙っていなさい」
「ですが!」
「これは私の宴よ」
「…………」
セシリアが悔しそうに唇を噛んだ。
カトリーナは次に、フィオナの後方へ視線を向ける。
「確か、この娘はローゼンベルク伯の連れだったわね」
「……はい」
スカーレットが前へ出た。
「殿下。これには事情がございます。どうか、まずは私の話を──」
「事情?」
カトリーナが鼻で笑う。
「どんな事情があれば、正体を隠した獣人を私の生誕祭へ連れ込むことが許されるの?」
「それは──」
「ローゼンベルク伯」
黄金の瞳が冷たく細められる。
「私を愚弄しているのなら……今後の付き合いを考え直す必要がありそうね」
「…………」
その場にいた何人もの貴族が息を呑んだ。
第二王女の言葉は、単なる個人的な怒りでは済まない。
ローゼンベルク領そのものへ、王家から圧力が掛かる可能性すらある。
「お待ちくだされ、殿下」
今度はハイネルが動いた。
「今回の件には儂も──」
「ハイネル公まで口を挟むつもり?」
「ですがな」
「──やめてください」
「……!」
小さな声だった。
けれど、しっかりと通る声。
「フィオナ?」
スカーレットが振り返る。
フィオナは僅かに一歩前へ出た。
「フィオナさん?」
セシリアも不安そうに見つめる。
「大丈夫です」
フィオナは二人へ、ほんの少しだけ笑ってみせた。
そして。
カトリーナの前まで歩く。
「第二王女殿下」
ドレスの裾を整え、静かに膝をつく。
「すべて……私の我儘でございます」
「……何?」
「私が」
一度、息を吸う。
「一度でいいから、王宮の舞踏会というものを見てみたいと……そう、お願いしたのです」
「フィオナ!」
スカーレットの声が飛ぶ。
けれどフィオナは振り返らなかった。
「スカーレット様は、ただ……私の願いを叶えてくださっただけです」
「違う!」
「スカーレット様」
フィオナは首を横へ振った。
「お願いします」
「…………」
その言葉に、スカーレットが奥歯を噛む。
フィオナは再びカトリーナを見る。
「身分を偽り、宴へ紛れ込んだ責は私にございます」
獣耳を伏せる。
尻尾も、静かに床へ垂れた。
「ですから」
深く頭を下げる。
「罰をお与えになるのであれば、どうか私一人に」
「…………」
「スカーレット様にも、ハイネル様にも、セシリア様にも……何の責もございません」
「フィオナさん……」
セシリアの声が震える。
「そんな……」
フィオナは頭を下げたまま小さく笑った。
「大丈夫ですから」
自分でも、不思議なくらい落ち着いていた。
怖くないと言えば嘘になる。
周囲から向けられる視線。
さっきまでとは。
まるで違う。
『獣人だったのか……』
『よくもまあ、あれほど堂々と』
『近くで話してしまったぞ』
『第二王女殿下のお怒りもごもっともだ』
聞こえる。全部。
フィオナの耳だからこそ、聞きたくない声まで。
はっきり聞こえてしまう。
けれど。
フィオナは背中を丸めなかった。
やがてカトリーナが、大きく息を吐いた。
「……もういいわ」
「…………」
「これ以上こんな話を続けて、せっかくの宴を台無しにされる方が不愉快よ」
冷たい声。
「先ほど賊を捕らえた働きもある。その分だけは考慮してあげる」
そして。
フィオナを見下ろす。
「今回は不問にするわ」
「……ありがとうございます」
「ただし」
その瞳に、最後まで温度は戻らなかった。
「今すぐ、私の前から消えなさい」
「…………」
「……獣風情が。身の程を知れ」
「……はい」
フィオナは静かに頭を下げた。
そして、立ち上がる。
「フィオナさん!」
セシリアが駆け寄ろうとする。
「セシリア様」
フィオナは、また小さく首を振った。
「大丈夫ですから」
「でも……!」
「今日は、本当にありがとうございました」
「…………」
その笑顔を見て。
セシリアは、それ以上何も言えなくなった。
フィオナは出口へ向き直る。
すると。
不思議なほど簡単に、道が開いた。
ほんの少し前まで。
名前を知りたいと。
踊ってほしいと。
手紙を送りたいと。
自分を取り囲んでいた男たちが。
誰からともなく、一歩ずつ距離を取っていく。
「…………」
ルッツも、何も言わなかった。
ただ何か言いたげな表情のまま、立ち尽くしている。
フィオナはその間を歩いた。
誰も声を掛けない。
視線だけが追ってくる。
嫌悪、戸惑い、好奇。
そして、ほんの少しの気まずさ。
(……やっぱり)
胸の奥がちくりと痛んだ。
(こんな煌びやかな場所、私には似合わなかった)
光り輝くシャンデリア。
美しい音楽。
豪華な料理。
綺麗なドレス。
少し前までは。
自分もこの中へ入れたような気がしていた。
知らない土地の話を聞いて、笑って、いつか行ってみたいと夢を見て。
けれど。
耳と尻尾が戻っただけで。
世界は。
こんなにも簡単に変わった。
「…………」
それでも……フィオナは俯かなかった。
胸を張る。
真っ直ぐ前を見る。
ここで。
自分まで恥ずかしそうにしてしまったら。
ヴァルトの町で。
自分たち姉妹を当たり前のように受け入れてくれた人たちに失礼な気がした。
獣人だろうと。
元奴隷だろうと。
何も変わらず笑い掛けてくれた人たち。
ロッテ。
ルス。
ミオ。
そして。
何より──。
(ジーク様)
あの人なら、きっと。
『何故、お前が俯く必要がある』
そんなふうに。
面倒そうな顔で言う気がした。
「…………」
それを想像すると。
少しだけ、胸の痛みが和らいだ。
(大丈夫)
今日ここへ来た目的はちゃんと果たした。
ハイネルを狙っていた者も見つけた。
セシリアも守れた。
誰も怪我をせずに済んだ。
(……お仕事は、ちゃんとできました)
それなら、胸を張って帰ればいい。
フィオナは獣耳を伏せることなく。
尻尾を隠そうともせず。
自然と開いた人の道を。
一歩ずつ。
静かに、凛と歩いていった。




