第71話 私をどうするつもりですか
大広間を出た途端、背後の音楽と笑い声が急速に遠ざかっていった。
先ほどまで人で溢れていた王宮とは思えないほど、廊下は静まり返っている。来賓はもちろん、警備の兵や使用人の多くも生誕祭へ人手を取られているのだろう。こんな時間に宴の会場を離れて歩き回る者など、ほとんどいないらしい。
高い天井から吊るされた燭台だけが、人気のない通路を淡く照らしている。
「……いました」
フィオナが小声で告げると、そのすぐ後ろを歩くセシリアも僅かに身を乗り出した。
少し先、中庭へ続く回廊の向こうに、ドルマン伯爵とスラズール侯爵の後ろ姿が見える。
二人はこちらを振り返ることもなく角を曲がっていった。
「行きます」
「はい」
フィオナは足音をできるだけ殺しながら後を追った。
セシリアには先ほど約束した通り、自分の半歩後ろを歩いてもらう。曲がり角では必ず先にフィオナが顔を出し、安全を確認してから進む。
いくら好奇心旺盛な王女とはいえ、そこは素直に従ってくれていた。
やがて二人の男は回廊を抜け、王宮の端にある建物へ向かっていく。
「……あそこは?」
「宴で使う物品などを保管する倉庫です。食器や酒類も置かれていたはずですが……」
セシリアの説明を聞きながら、フィオナは柱の陰から様子を窺った。
ドルマン伯が倉庫の扉へ手をかける。
その横でスラズール侯爵が一度だけ周囲を見回し、二人はそのまま中へ姿を消した。
「…………」
「…………」
フィオナとセシリアは顔を見合わせる。
「あの……」
フィオナが声を潜めた。
「本当に、入りますか?」
「ここまで来たのですから」
セシリアは迷いなく頷いた。
「深追いはしませんよ?」
「もちろんです。少し様子を見るだけです」
「……本当ですね?」
「はい」
笑顔で返される。
(……ちょっと怪しい)
とは思ったものの、ここまで来て何も確認せず戻るのも惜しい。
フィオナは念のため周囲へ耳を澄ませ、それから慎重に倉庫へ近づいた。
扉は完全には閉じられておらず、僅かな隙間が残されている。
「…………」
フィオナはそっと手を添え、その隙間から中を覗き込んだ。
薄暗い。
天井近くにある小窓から月明かりが差し込み、棚や積み上げられた木箱の輪郭をぼんやりと浮かび上がらせている。
左右には酒樽や食器箱、宴で使うらしい装飾品などが所狭しと並んでいたが──。
「……見えませんね」
後ろからセシリアが囁く。
「はい」
先ほど入ったはずの二人が、どこにもいない。
フィオナは眉を寄せた。
扉の近くにいるだけでは奥まで見通せない。少し迷った末、ほんの数歩だけ中へ入り、物陰からさらに奥を覗き込む。
セシリアも約束通り、ぴたりとその背後についてきた。
「…………」
ひんやりとした空気。
木材と酒の匂い。
宴のために運び込まれたのだろう料理の残り香や、誰かの香水まで微かに漂っている。
その中で。
(……ん?)
フィオナの鼻が、僅かに動いた。
違う匂いがする。
金属、油、革。
そして──人の匂い。
(ドルマン伯爵たちだけじゃない……?)
耳を澄ませる。
倉庫は広く、棚や荷物に音が反響しているせいで位置までは掴みにくい。だが、衣擦れのような微かな音が一つ、二つ──いや、もっとある。
「セシリア様」
「はい?」
フィオナは声を落とした。
「少し……おかしいです」
「おかしい?」
「人が──」
言い終えるより早く。
ガタンッ!
「──っ!?」
背後から、重々しい音が響いた。
フィオナが振り返る。
開いていたはずの扉が、勢いよく閉じていた。
続いて。
ガチャリ。
明らかに金具を掛ける音が、扉の向こうから聞こえる。
「えっ……?」
セシリアが息を呑んだ。
「……っ!」
フィオナはすぐさま彼女を背へ庇い、姿勢を落とした。
(しまった……!)
遅かった。
最初から。
この倉庫へ誘い込まれていたのだ。
「くくっ……」
薄暗い倉庫の奥から、低い笑い声が聞こえる。
積み上げられた木箱の陰。
酒樽と棚の間。
それまで息を潜めていた男たちが、ゆっくりと姿を現す。
一人、二人、三人──。
武装した男が数人。
装備からして王宮の正規兵だ。けれど、主人であるはずのセシリアを前にして、顔色の一つも変えない。
そして。
その中央から姿を現したのは──。
「いやはや」
恰幅のいい男が、愉快そうに口髭を撫でる。
ドルマン伯爵。
その横には、細身の身体をしたスラズール侯爵が立っていた。
「まさか、本当について来るとはな」
「…………」
フィオナは周囲を警戒したまま、セシリアの前へ立つ。
一方で当のセシリアは、その背中から顔を覗かせると、驚くほど落ち着いた声で尋ねた。
「……これは、どういう状況でしょうか?」
「セシリア様!」
フィオナは慌てて彼女をもう一度背後へ押し戻した。
「前へ出ないでくださいって言いましたよね!?」
「あっ……すみません」
こんな状況なのに、そこは素直に謝る。
(ほ、本当に肝が据わってる……)
そんな二人の様子を見て、ドルマンが唇の端を吊り上げた。
「所詮は小娘よ。少々餌を撒いてやれば、こうも簡単に罠へ飛び込んでくれる」
「……罠」
セシリアの声から笑みが消える。
するとスラズール侯爵が、細い目をさらに細めた。
「ええ。もっとも──」
薄い笑み。
「我々としても、当初の予定とは随分違う展開になりましたがね」
「…………」
フィオナは相手の数を確認する。
ドルマン。
スラズール。
武装した男が五人ほど。
まだ荷物の陰に隠れている者がいるかもしれない。
(これくらいの数なら……)
ルスとの稽古を思い出す。
普通の兵士が数人程度なら、以前ほど絶望的な相手ではない。
だが。
今はセシリアがいる。
何より、相手がどんな手を隠しているか分からない。
「あなたたちは……」
フィオナは慎重に問いかけた。
「いったい、何を企んでいるのですか?」
「何を?」
スラズール侯爵が一歩前へ出る。
「ほんの数刻前なら、第五王女殿下の失脚──と答えたところでしょう」
「…………」
セシリアの表情が強張る。
「やはり、あのワイン……!」
「その話は、もうどうでもいいのですよ」
「……え?」
予想外の言葉に、フィオナが眉を寄せた。
「今となっては、第五王女一人を失脚させることなど些事に過ぎない」
スラズールの視線が。
ゆっくりと。
セシリアから──フィオナへ移る。
「我々は、もっと大きな獲物を見つけた」
にたり、と。
笑った。
「貴女ですよ、お嬢さん」
「…………」
フィオナの背筋に、嫌なものが走る。
「何を……」
「〝ラ・ソリテュード・デュ・ディアブル〟」
「──!」
その名を聞いた瞬間、心臓が跳ねた。
「孤高の悪魔」
ドルマンが面白そうに続ける。
「ヴァルト領が誇る幻の銘酒。市場へは一切流れず、王侯貴族ですら金を積んだところで手に入らぬ」
「…………」
「そんなものを」
太い指がフィオナへ向けられる。
「名も知らぬ小娘が、当然のように持ってきた」
「…………っ」
「さすがに妙だとは思わんかね?」
言葉が出ない。
ドルマンはそれを肯定と受け取ったらしい。
「調べさせてもらったよ。あの酒は、ヴァルト侯自身が特に気に入った樽からしか造られず、極めて近しい者か、領内の特別な祝い事でもなければ口にできぬそうではないか」
(そんなことまで……)
フィオナの背中を、冷たい汗が伝う。
「つまり」
スラズールが言葉を引き取った。
「貴女はただの地方貴族の娘ではない」
「…………」
「ヴァルト侯の身内か、側近か……少なくとも、あの男のすぐ傍にいる人間だ」
「違い──」
否定しかけ、止まった。
ここで必死に否定すればかえって認めるようなものだ。
フィオナは唇を結ぶ。
「賢明ですね」
スラズールが嗤った。
「それにしても驚きましたよ」
ドルマンも愉快そうに腹を揺らす。
「あの〝悪魔〟が、こんな若い娘を傍に置いているとはな」
「…………」
「まして、これほど貴重な酒を持たせている」
じろじろと値踏みするような視線が向けられ。フィオナは不快感を押し殺した。
「随分と気に入られているようだ」
「……違います」
今度は思わず言い返していた。
「何が?」
「ジーク様は、別に私なんかの事……」
そこまで口にして。
はっとする。
「“ジーク様〟?」
ドルマンの笑みが、さらに深くなった。
「…………っ!」
(しまった……!)
「これはこれは」
スラズールが愉快そうに肩を竦めた。
「思った以上に近しいようですね」
「…………」
フィオナは奥歯を噛んだ。
会話では相手の方が上手だ。
「それで」
背後のセシリアを気にしながら、フィオナは問いかける。
「私をどうするつもりですか」
「話が早くて助かる」
ドルマンが口髭を撫でた。
その顔から先ほどまでの戯けた笑みが消える。
「我々が欲しいのは、ヴァルト侯を支配する力だ」
「…………!」
空気が、冷たくなる。
「正面から挑んだところで勝てぬことくらい、馬鹿でも分かる」
スラズールも冷ややかな声で続けた。
「軍を差し向けようが、暗殺者を送り込もうが、おそらく無駄でしょう。あの男は、そういう次元の存在ではない」
「ならばどうする?」
ドルマンが両手を広げる。
「弱点を押さえればいい」
「…………」
フィオナの顔から、少しずつ血の気が引く。
「まさか……」
「簡単な話だ」
ドルマンは氷のような笑みを浮かべた。
「貴女を人質に取る」
「…………っ!」
「そして」
その目が愉悦に細められる。
「ヴァルト侯を──意のままに操る」
倉庫の中に重い沈黙が落ちた。
フィオナは拳を強く握ったまま、動けなかった。
(ジーク様……)
それだけは。
絶対に。
駄目だ。
背後では、セシリアが小さく息を呑んでいる。
そして前方では。
武装した男たちが一斉に剣へ手をかけた。
鞘と金属の擦れる音が、静まり返った倉庫へ不吉に響いた。




