第7話 震えてるよ、お姉ちゃん……
ロッテに案内され、ミオとフィオナは脱衣所へ足を踏み入れた。
居間や食堂とは少し違う、清潔な木の香りがする。棚には布がきちんと畳まれ、壁際には籠がいくつも並んでいた。見慣れないものばかりで、ミオは姉の手を握ったまま、そろそろと視線を巡らせている。
そんな二人の緊張をほぐすように、ロッテがふわりと笑った。
「はい、これを使ってね。ふかふかのタオルと──今はこれしか用意できないんだけど」
差し出された包みの中には、柔らかなタオルと、大きめの白いシャツが入っている。
袖の長いそれは、どうやらジークのものらしい。布地は見たこともないほどなめらかで、指先で触れるだけで、身体の奥がほっと緩むような気がした。
「時間は気にしなくていいから、ゆっくり入ってきてね」
そう言い残し、ロッテは脱衣所の外へ出ていく。
扉が閉まると、姉妹はぽつんとその場に残された。
お風呂。
そう言われても、ミオにはまったく想像がつかない。身体を洗う場所なのだろう、ということくらいはわかる。けれど、何をどうすればいいのかまではわからない。
フィオナも同じだったのか、しばらく困ったように立ち尽くしていた。
やがて、小さく息を吸う。
「……とりあえず、脱ごうか」
「……うん」
ミオはこくんとうなずく。
二人は古びた服を脱ぎ、渡された着替えを端に畳んで置いた。それから、少しだけ身を寄せ合うようにして奥の扉を開く。
その先に広がっていた光景に、ミオは言葉を失った。
「……え?」
白い湯気が、ゆらゆらと立ちのぼっている。
石畳の先には、大きな岩を組み合わせて作られた湯船。天井はなく、薄雲のかかった冬の空が見えた。冷たい外気の下で、広い湯船から絶えず湯気があふれ、あたりの輪郭をやわらかくぼかしている。
温かな湯気の気配。
白く煙る空気の向こうで揺れる水面。
そのすべてが、ミオには夢の中の景色みたいに見えた。
「な、なにこれ……?」
ぽかんと口を開ける。
露天風呂という言葉も、そんな文化も、姉妹は知らない。ただ、見たことのない広い空間に圧倒されるばかりだった。
湯船の手前には洗い場があり、そこには大きな瓶が二つ置かれている。
一方の瓶からは、ちろちろと湯気の立つ湯が流れ出し、もう一方からは澄んだ水が細く溢れている。
フィオナが恐る恐る湯の方へ手を伸ばす。指先に触れたそれは熱すぎず、むしろ肌を包むような心地よい温度だった。
「……お湯、使っていいのかな」
ミオが床へ流れていく湯を見つめる。
「どんどん流れてる。もったいない……」
「だめよ。これは、ご主人様のものだから」
フィオナは小さく首を横へ振る。
「私たちは……こっち」
そう言って、冷水の瓶へ手を伸ばした。
タオルを浸し、ぎゅっと絞る。それを青ざめた腕へ押し当てた瞬間、フィオナの身体がびくりと跳ねる。尻尾の毛が一気に逆立ち、唇がきゅっと結ばれた。
冷たい、というより痛い。
それでもフィオナは声を上げない。顔をしかめながら、冷たいタオルで腕を拭いていく。
ミオも、それにならった。
冷水に浸したタオルを身体に当てるたび、肌がぴりっと痛む。けれど、二人にとってはそれが当たり前だった。
奴隷の生活に、お湯など存在しない。
冬でも、川の水や冷たい桶の水で身体を拭く。
体を洗うとうのは、汚れを落とすための命令であり、作業に他ならない。許されるのは凍えるような水だけだった。
「震えてるよ、お姉ちゃん……」
「ミオこそ……」
二人は小さく笑おうとする。
けれど、声はうまく形にならなかった。
身体を拭き終えたあと、今度は互いの尻尾に冷水をかける。絡んだ毛をほどこうにも、指先がかじかんで思うように動かない。
それでも、二人にとっては幸せな時間だった。
急かす声はどこからも飛んでこない。
早くしろ、と足音が近づいてくることもない。
ただ姉妹だけで、静かに身体を清めていられる。
それだけで、ミオの胸には小さな幸せが灯っていた。
やがて全身を拭き終え、二人は震える手でジークのシャツを羽織る。丈は長く、袖もぶかぶかで、布をすっぽりと被っているようだった。
フィオナがミオを見て、かすかに笑う。
「……ミオはズボン、いらないね。ワンピースみたい」
「うん。ぶかぶかだけど……あったかい」
小さな幸せを抱きしめるように、二人は脱衣所を出て居間へ戻った。
その瞬間。
「……おい、待て」
低い声が飛んでくる。
ミオとフィオナは、揃って肩を跳ねさせた。
ソファに座っていたジークが、いつの間にか立ち上がっている。細められた灰色の瞳が、二人を上から下までまじまじと見た。
そこに浮かんでいるのは怒りというより、理解できないものを見たときの困惑と苛立ちに近い。
「なんで風呂に入って、そうなる」
姉妹の指先は青白い。唇には薄く紫が差し、足元は小刻みに震えている。髪も尻尾もまだ湿ったままで、タオルでこすりすぎた肌には赤みが残っていた。
フィオナは一瞬で顔を青くする。
「も、申し訳ありません。丁寧に洗ったつもりですが……あの、もう一度洗い直します」
ミオの手を取って風呂場へ戻ろうとする。
その背中に、ジークのため息が落ちた。
「違う」
彼はがしがしと乱暴に頭をかく。
「風呂ってのは、温まる場所だ。そんなに凍えて帰ってくるとは……何をしてきた? 馬鹿か」
「……っ」
あまりの剣幕に、姉妹は言葉を失う。
けれど、ミオはすぐに気づいた。
この声は、あの夜と同じだ。
怒っているように聞こえる。責められているようにも聞こえる。けれど本当は、心配しているだけなんだと。
ものすごく、わかりにくい形で。
ルスが静かに立ち上がり、苦笑を浮かべる。
「ジーク様、まずはお二人に温まっていただく必要があるかと。……ロッテさん、お願いできますか?」
「もちろんですとも!」
台所からロッテが飛び出してくる。
その腕には、ふわふわの大きなバスタオルが何枚も抱えられていた。
「もう、わからなかったら聞いてくれればよかったのに。こんなに凍えちゃって」
ロッテは姉妹の前にしゃがみ、やさしく肩を包む。
「ほら、こっちにいらっしゃい。お風呂、もう一度入り直しましょ。今度はちゃんと、湯船に入るのよ」
ミオは小さく目を伏せる。
「……ごめんなさい……」
そのか細い声に、ジークはわずかに顔をしかめた。
そして、ロッテへ向かって吐き捨てるように言う。
「湯冷めしないように、小一時間ほど湯船に沈めておけ」
「ジーク様」
ロッテが、にっこり笑った。
けれど、その目は少しだけ笑っていない。
「言い方」
ジークは面倒くさそうに顔をそむけ、そのまま黙り込む。
ミオはロッテに手を引かれながら、ちらりとジークを見た。
黒髪の青年はもうこちらを見ていない。
背を向けたまま暖炉に薪が足している。
戻ってきたときに、少しでも寒くないように……ということなのか?
それは分からない。けれど、その背中は少し優しそうに見えた。




