第6話 こんな不衛生なやつらを置いておくつもりはない
朝食が終わると、ロッテは鼻歌まじりに食器を片づけ始めた。
焼き立てのパンとスープの香りは、まだ部屋の中にほのかに残っている。満たされたはずのお腹はあたたかく、指先にも頬にも血が通っているのがわかる。
それでも、フィオナとミオは長椅子の端に座ったまま、身じろぎひとつできずにいた。
膝の上で重ねた手に、自然と力が入る。
美味しい料理を食べた。やさしい声をかけてもらった。あたたかい部屋で眠り、怪我まで治してもらった。
だからこそ、落ち着かない。
こんな穏やかな場所は、自分たちにはあまりにも似合わない。いつ誰に「出ていけ」と告げられるのか。その一言が降ってくるのを待っているようで、胸の奥がずっと重かった。
ロッテが食器を流しへ運び、台所で洗い物を始める。
水の流れる音。食器の触れ合う澄んだ音。木べらが器の縁に当たる、軽い音。
どれもやわらかく、耳に痛くない。
その静かな音の中で、ジークがぼそりと呟いた。
「……いつまでそうしているつもりだ」
姉妹の肩が、同時に跳ねる。
ジークは頬杖をついたまま、面倒くさそうに続ける。
「こんな不衛生な奴らを、いつまでも部屋に置いておくつもりはない」
刺すような言葉だった。
フィオナは反射的に立ち上がる。
視線が、窓へ向かった。
外はもう吹雪ではない。昨夜あれほど荒れ狂っていた雪は弱まり、薄い灰色の空から淡い陽が差し込んでいる。枝葉に積もった雪が光を受け、静かにきらめいて見えた。
──雪が止むまで、ここにいさせてください。
そんな不躾な願いを、この人たちは叶えてくれた。
命を助け、傷を治し、あたたかい布団と食事まで与えてくれた。
それだけで、もう十分すぎる。
「……申し訳ありません」
フィオナの声は震えていた。
けれど、迷いはない。
「命を助けていただいただけでも、感謝しきれません。それなのに、暖かい食事まで……本当にありがとうございました。このご恩は、一生忘れません」
深々と頭を下げる。
それから、そっとミオの手を取った。
「……行きましょう」
「えっ、で、でも……!」
ミオは困惑して姉を見上げる。
まだここにいたい。お姉ちゃんにも、もっと休んでほしい。そんな思いが顔に出ていたのだろう。だがフィオナは、静かに首を横へ振った。
その瞳には、何かを飲み込むような決意が宿っている。
ミオは俯き、口をつぐんだ。
二人は長椅子を離れ、玄関へ向かう。
フィオナの視線が、一度だけ食卓へ落ちた。空になった皿。さっきまで座っていた椅子。そこに残る、まだ消えきらないぬくもり。
もっとここにいたい。
そう思う心を、フィオナは胸の奥へ押し込める。
これ以上、この優しい人たちに迷惑をかけるわけにはいかない。
ドアノブに手をかける。
その瞬間だった。
「……おい」
鋭い声が、背中に飛んでくる。
「どこへ行く気だ」
フィオナの手が止まった。
恐る恐る振り返ると、ジークが立っている。眉間にしわを寄せ、心底理解できないものを見るような顔で、姉妹を見つめていた。
「あ、あの……出ていこうと……」
フィオナは言葉を探しながら答える。
「昨晩、雪が止むまでと、お約束しましたので……」
「……は?」
ジークの声が低くなる。
「この雪の中をか?」
「い、いえ……今は、止んでいますから……」
フィオナが小さく言い添えると、ジークは片手で頭をがしがしとかき、深いため息を吐いた。
「何を言っている。雪が止むのは春になってからだ」
「……え?」
「見てわからないのか。これは降り止んだんじゃない。一時的に弱まっているだけだ。今出ていけば、すぐに吹雪に巻かれて死ぬ」
そこまで言って、ジークはますます不機嫌そうに目を細める。
「せっかく治療したのを無駄にする気か?」
言い方は、やはり乱暴だった。
けれど、そこにあるのは怒りでも軽蔑でもない。どうしてそんな当然のことがわからないのか、という純粋な困惑に近い。
フィオナは目をぱちぱちと瞬かせる。
ミオもまた、姉の手を握ったまま固まっていた。
二人には、ジークが何を言っているのかよくわからない。
出ていけと言われたのでは、なかったのだろうか。
そのとき。
「ああ……」
控えていたルスが、喉の奥で小さく笑う。
「失礼いたしました。少々、わかりにくい言い方でしたね」
穏やかな声が、固まった空気をほどいていく。
「先ほどのジーク様のお言葉は、私に向けられたものですよ」
「……え?」
フィオナとミオが、そろってルスを見る。
ルスは目元にやわらかな笑みを浮かべたまま、静かに説明を続けた。
「今朝、ジーク様より命じられておりました。『あの二人を風呂に入れてやれ。あんな状態のまま屋敷に置くのは不衛生だ』と」
二人は、ぽかんと目を見開いた。
ジークは何も言わない。
ただ、面倒くさそうに顔を背ける。
「つまり――」
ルスは楽しそうに目を細める。
「しばらくここにいていただく前提で、まずは清潔にしていただこう、という意味でございます」
「……えっと……」
フィオナが小さく声を漏らす。
続いて、ミオも恐る恐る口を開いた。
「……いて、いいの? ここに……?」
誰も、はっきりと答えなかった。
けれど、二人にはちゃんと伝わった。
出ていけと言われたわけではない。
フィオナはそっと胸に手を当てる。朝食を食べてからもずっと心の奥に残っていた不安と怯えが、ゆっくりとほどけていくようだった。
「……ここに、居させていただけるのですか?」
「もちろんでございます」
ルスは深く頷く。
「さぁ、当屋敷自慢のお風呂です。お二人とも、まずはゆっくり体を休めてください」
その言葉に、ミオの表情がわずかに緩んだ。
隣に立つフィオナの手を、そっと握る。フィオナの指先はまだ少し震えていたけれど、握り返してくる力は昨夜よりもずっとあたたかい。
姉の瞳には、今にもあふれそうな涙が光っていた。
ミオは、涙というものは悲しいときや苦しいときにだけこぼれるのだと思っていた。
けれど、違う。
胸の奥が痛いくらいあたたかくなったときにも、人は泣きたくなる。
こんな涙があるのだと、ミオは初めて知った。




