第69話 私の──〝騎士さま〟
夜の王宮。
星明かりが白い石床を淡く照らし、バルコニーに立つ四人の影を長く伸ばしていた。
大広間から微かに届く楽団の旋律。
それとは対照的に、四人の間にはしばし静かな時間が流れていた。
「…………」
やがて。
その沈黙を破ったのは、スカーレットだった。
「それにしても……」
腕を組み、僅かに眉を寄せる。
「まさか、セシリア殿下が標的にされるとはな」
「ああ」
ハイネルも先ほどまでの豪快な笑みを消し、太い指で顎髭を撫でた。
「儂には近づく隙がないと見て、狙いを変えおったのかもしれんな」
「……え?」
フィオナが小さく声を漏らす。
その隣では。
セシリアもまた、不思議そうに二人を見ていた。
「あの……」
おずおずと問いかける。
「どういうことでしょうか?」
「ああ……」
ハイネルがセシリアを見る。
「そうか。殿下には何もお話ししておりませんでしたな」
「……?」
「実は──」
ハイネルは声を落とし、今回の生誕祭、その裏側で起きていることを語り始めた。
自分を失脚させようとする動きがあること。
その相手が王都の貴族社会の中に潜んでいること。
誰が味方で誰が敵かすら判然としないため、王都の外にいる信頼のおける者へ協力を求めたこと。
そして。
その協力者として選んだのが──
「スカーレット伯と、それから……ヴァルト侯?」
セシリアの目が少し丸くなった。
「ええ」
「…………」
その視線が、ちらりとフィオナへ向く。
「……なるほど」
「な、なんでしょう?」
「いいえ」
セシリアは小さく笑った。
「何でもありません」
「……?」
フィオナは首を傾げる。
ハイネルはそんな二人を気にも留めず、話を続けた。
「儂自身に何かを仕掛けてくると踏んでおったのだが……結果はご覧の通りだ」
「つまり」
セシリアの表情が、少しずつ真剣なものへ変わる。
「ハイネル殿を直接狙うのが難しかったため、私を……?」
「可能性は高いでしょう」
答えたのはスカーレットだった。
「殿下とハイネル公が近しいことは、王都ではよく知られております」
「…………」
「殿下の政治的な影響力を削げば、それだけハイネル公も動きづらくなる。逆もまた然りです」
「……そういうことですか」
セシリアは静かに息を吐いた。
「すまんな、殿下」
ハイネルが申し訳なさそうに頭を掻く。
「儂のせいで、とんだ災難に巻き込んでしまった」
「いいえ」
セシリアはすぐに首を横へ振った。
「お気になさらないでください。元より──」
その声には、先ほどまでフィオナと笑い合っていた少女とは違う、王族としての芯があった。
「政治的な立場において、私はハイネル殿と一心同体に近いところがあります」
「…………」
「私が傷つけば、殿の立場も揺らぐ。反対に、ハイネル殿が失脚すれば──」
ほんの一瞬、その表情に影が差す。
「おそらく、王宮の中で私を支えてくださる方は、ほとんどいなくなります」
「殿下……」
「だから」
セシリアは真っ直ぐハイネルを見た。
「これはハイネル殿だけの問題ではありません」
そして、穏やかに微笑む。
「どうか、ご自分を責めないでください」
「…………」
ハイネルが黙る。
その隣で、スカーレットも僅かに目を見開いていた。
「……やはり」
やがてハイネルが、ふっと笑った。
「殿下はお強くなられた」
「そうでしょうか?」
「ああ」
今度は豪快ではなく、どこか嬉しそうに笑う。
「昔は、儂の後ろへ隠れてばかりだったというのに」
「そ、それは随分昔のお話です!」
セシリアの頬が、少し赤くなった。
「がっはっは! そうでしたな!」
「もう……」
「…………」
フィオナは、その横顔を見つめる。
小柄で。
柔らかな物腰で。
笑えばとても可愛らしい少女。
けれど、その内側には確かな強さがある。
(……やっぱり、すごい方なんだ)
フィオナがそう思った──
そのとき。
「……あの」
「ん?」
フィオナが、おずおずと手を上げた。
「私……一つ、気になることがあります」
三人の視線が、一斉に集まる。
「なんだ?」
「先ほど……セシリア様のワインが偽物だと分かったときなんですけど」
「…………」
フィオナは記憶を辿る。
「あの騒ぎの中で、聞こえたんです」
スカーレットの表情が変わる。
「何が?」
「誰かが──」
一度、息を吸う。
「〝上手くいったぞ〟って」
「──なに?」
ハイネルの目が鋭くなる。
「それだけではありません」
フィオナは続ける。
「〝本当はスタンロード公を狙いたかったけど、人が多すぎて無理だった〟って。それから……」
セシリアを見る。
「〝第五王女なら十分だ〟とも言っていました」
「…………!」
セシリアの顔が強張る。
ハイネルとスカーレットの表情からも完全に笑みが消えた。
「間違いないのか?」
ハイネルが問う。
「はい」
フィオナは迷わず頷いた。
「聞き間違いではありません」
「どこからだ?」
スカーレットが即座に問う。
「声のした場所は分かるか?」
「ええと……」
フィオナは目を閉じる。
先ほどの会場。
壇上。
音楽。
人々のざわめき。
その中からあの小さな囁きを思い出す。
「壇上から見て……左側の後ろのほうです」
「左後方……」
「はい。人が少なくなっている、大きな柱があった辺りです」
「…………」
ハイネルが目を細めた。
「かなり離れていたぞ」
「え?」
「あの位置なら、ざっと数十歩はあったはずだ」
ハイネルがフィオナを見る。
「しかも、あの騒ぎの中で囁き声を聞いたというのか?」
「え、ええ……」
「フィオナの耳なら可能です」
横からスカーレットが何でもないことのように答えた。
「ほう?」
「彼女の〝耳〟は、我々とは少々出来が違いますので」
「…………」
ハイネルの眉が動く。
そして。
フィオナを上から下まで、じっと眺め始めた。
「…………」
「…………」
(な、なんだろう……)
落ち着かない。
まるで品定めでもされているような気分だ。
「なるほど……」
やがて、ハイネルが小さく呟いた。
「あの小僧、中々見る目があるわい」
「えっ」
「いや。今はそれよりも」
咳払いをする。
「左後方の大柱か……」
記憶を探るように目を細める。
「となると」
一拍。
「あの時間、あそこにいたのは──ドルマン伯とスラズール侯爵だな」
「…………!」
スカーレットの顔が険しくなる。
「その二人ですか」
「ああ」
ハイネルが低く答える。
「少なくとも、儂が確認していた限りではな」
「どちらも……厄介ですね」
スカーレットが腕を組む。
「古くからの保守派。それも、かなり強硬な部類だ」
「知っているのですか?」
フィオナが尋ねる。
「ああ」
「〝血統こそが国を治める資格そのもの〟という考えを、今でも公然と掲げている連中だ」
「血統……」
「平民を重用するハイネル公とは、正反対だよ」
スカーレットが苦笑する。
「当然、これまでも何度となく衝突している」
「……奴らめ」
ハイネルが髭を撫でながら、低く唸った。
「まだ懲りておらんのか」
すると。
「確かに」
セシリアも、真剣な顔で頷いた。
「お二人とも、ハイネル殿の改革には以前から強く反対されています」
「殿下もご存じでしたか」
「はい」
「特にスラズール侯爵は、地方官への平民登用を決めた際、議会で最後まで反対していたはずです」
「……その通りですな」
「…………」
フィオナは三人を交互に見る。
そして。
「あの……」
「なんだ?」
「どうして、誰がどこにいたかまで分かるんですか?」
「…………」
ハイネルが瞬きをする。
スカーレットも一瞬きょとんとしてから。
「ふっ」
小さく笑った。
「フィオナ」
「はい?」
「社交界とは、そういう場所なんだ」
「……?」
「誰が来ていたか」
指を一本立てる。
「誰と話していたか」
二本。
「いつ席を離れ、どこに立っていたか」
三本。
「それらすべてが情報になる」
「…………」
「まして今日は、自分を狙っている者を探すための宴でもある」
スカーレットがハイネルを見る。
「ハイネル殿なら、ざっと数十人の行動を把握していても、おかしくないだろう」
「ふん!」
ハイネルが胸を張る。
「このジジイを見くびるでないぞ!」
「す、すごいです」
「がっはっはっは!」
ほんの僅か、張り詰めていた空気が緩む。
けれど。
「まあ」
スカーレットの表情は、すぐに真剣なものへ戻った。
「これで、かなり絞れたな」
「ああ」
ハイネルが頷く。
「ただし」
低い声。
「声を聞いたというだけでは証拠にならん」
フィオナが頷く。
「では……」
「ドルマン伯とスラズール侯爵」
スカーレットが静かに告げる。
「現時点での最有力候補──というところだな」
「はい」
バルコニーに再び緊張が戻る。
敵の姿はようやく見え始めた。
だが、捕まえるにはまだ足りない。
そして。
「……フィオナ」
「はい?」
不意に、スカーレットがこちらを向いた。
「君に、もう一つ頼みたい事ができた」
「……!」
フィオナの背筋が自然と伸びる。
「はい!」
「今夜はハイネル公の周囲に、こちらも十分警戒を置いている」
スカーレットは続ける。
「今回の件が失敗した以上、相手もこちらが警戒していることは理解するだろう。公爵本人へ今すぐ直接手を出すのは、かなり難しくなったはずだ」
「…………」
「だが」
その視線がセシリアへ向く。
「一度標的にされた殿下は別だ」
「私……ですか?」
「ええ」
「相手がセシリア殿下を〝ハイネル公を崩すための弱点〟と見ているのなら、これで諦めるとは限りません」
「…………」
セシリアの表情が曇る。
そこでスカーレットは再びフィオナを見た。
「だから──フィオナ」
「はい」
「しばらく、セシリア殿下のお傍にいてくれないか?」
「…………え?」
一拍。
「わ、私がですか!?」
「ああ」
フィオナは慌てて自分を指差す。
「でも……私なんかが、王女様の護衛なんて……!」
「君だから頼むんだ」
「…………」
「顔を知られていない。剣も使える。そして何より」
スカーレットが僅かに笑う。
「普通の人間では気づけないものに、君なら気づける」
「…………!」
自分の耳。
それが、今まさに役に立った。
「もちろん」
スカーレットの声が、少しだけ柔らかくなる。
「危険だと判断したら、殿下より先に自分を守れ。これは最初に言った通りだ」
そして殿下を見る。
「殿下、申し訳ありません。彼女はジーク殿より預かった大切な身です。ご無礼をお許しください」
「ええ、それは勿論」
セシリアは小さく頷く。
「その上で」
真っ直ぐフィオナを見る。
「力を貸してほしい」
「…………」
フィオナは隣のセシリアを見る。
セシリアは少し驚いた顔をしていた。
けれど、やがて嬉しそうに微笑む。
「フィオナさんが一緒なら、とても心強いです」
「セシリア様……」
「今日は姉の生誕祭ですから、私自身、大勢の護衛を連れて歩くわけにもいかなくて……」
少し困ったように笑う。
「正直に申し上げると、先ほどのこともあって……少しだけ心細かったのです」
「…………」
「でも」
セシリアが心配そうに眉を下げる。
「そのせいで、フィオナさんが危険な目に遭うのは、私も本意では……」
「大丈夫です!」
言葉を遮るようにフィオナは答えた。
「…………!」
一度、きゅっと拳を握る。
そして真っ直ぐセシリアを見る。
「私にできることなら」
少しだけ緊張しながら、それでもはっきりと告げる。
「精一杯、お護りします! いえ、お護りさせてください!」
「…………」
セシリアの瞳が、僅かに大きくなる。
「ほう……」
ハイネルが面白そうにフィオナを見る。
すると。
「殿下」
スカーレットが、にやりと笑った。
「ご安心を」
「?」
「彼女は──あの〝白獅子〟の一番弟子ですから」
「…………」
数秒。
「ほおおっ!?」
ハイネルが大声を上げた。
「ひゃっ!?」
フィオナが肩を跳ねる。
「ルス殿の弟子だと!?」
「ええ」
「スカーレット様!?」
「毎朝、直々に稽古をつけてもらっているそうです」
「ほぉ、それは本当か!?」
「は、はい……でも!」
フィオナが慌てて両手を振る。
「〝一番弟子〟なんて、そんな大層なものじゃありません!」
「いやいやいや!」
ハイネルが一気に身を乗り出す。
「あの男が自ら剣を教えている時点で、大層なことなのだ!」
「そ、そうなんですか……?」
「白獅子の剣を継ぐ娘か……!」
「そ、そんな大袈裟なっ!」
即座に否定した。
「私なんて、まだルスさんに一度も剣を当てられたことすらないんです!」
「それはそうさ」
スカーレットが真顔で言った。
「えっ」
「あの男に剣を当てられる者など、そもそも世界に何人いると思っている」
「…………」
フィオナは黙った。
考えたこともなかった。
「ふふっ」
その様子を見てセシリアが楽しそうに笑う。
「それなら」
一歩、フィオナへ近づく。
そして。
そっと、その手を取った。
「……!」
白く細い指がフィオナの手を包み込む。
「よろしくお願いしますね」
月明かりの下。
セシリアが柔らかく微笑んだ。
「私の──〝騎士さま〟」
「…………っ」
胸の奥が、どくん、と大きく鳴った。
「き、騎士……」
もちろん、本物の騎士ではない。
そんな資格も、肩書きもない。
それでも。
「…………」
その言葉が、どうしようもなく嬉しかった。
思い出す。
雪の中、逃げることしかできなかった自分。
ミオを守ることもできず、誰かに救ってもらうことしかできなかった自分。
酒精祭でも。
大切な人が危険に晒されたとき、何もできなかった。
だから、剣を取った。
今度こそ。
自分の手で、誰かを守れるようになりたいと。
「…………」
そして今。
初めて、誰かから守ってほしいと頼まれた。
(私が……)
胸の奥に熱いものが込み上げてくる。
(今度は、守る側に……)
フィオナは、握られた手をそっと握り返した。
顔を上げる。
もう、先ほどまでの不安げな少女の顔ではなかった。
「──はい!」
胸を張り、真っ直ぐに、力強く答える。
「お任せください、セシリア様!」
その返事を聞いて、セシリアはとても嬉しそうに笑った。
星空の下。
守られることしか知らなかった少女は。
ほんの少しだけ──
誰かを守る者へと、歩き始めていた。




