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第68話 そんなに、分かりやすいですか?

会場の喧騒を抜け、二人は再びあのバルコニーへ出ていた。


「…………」


 先ほどまで夕焼けの名残を残していた空は、もうすっかり夜の色へ変わっている。


 深い藍色の空に、一つ、また一つと、小さな星々が瞬いていた。


 白い石造りの床には月光が柔らかく降り注ぎ、涼やかな夜風が二人のドレスの裾を静かに揺らしている。


 遠くから聞こえてくるのは、楽団の演奏と大広間で交わされる人々の笑い声。


 ほんの少し前までの騒ぎがまるで嘘だったかのようだった。


「…………」


 フィオナは、しばらく黙っていた。


 そして。


 意を決したようにセシリアへ向き直る。


「……セシリア様」


「はい」


 すっ、と。


 その場に膝をついた。


「えっ?」


「先ほどは……大変失礼いたしました」


 頭を深く垂れる。


「王女殿下とは露知らず、あのような馴れ馴れしい態度を……数々のご無礼、どうかお許しください」


「えっ!? ちょ、ちょっと待ってください!」


 セシリアが慌てた。


「やめてください、フィオナさん!」


 自分までしゃがみ込み。


 フィオナの両肩へ手を添える。


「どうか、顔を上げてください!」


「でも……」


「お願いします」


「…………」


 困ったような、それでいて真剣な顔。


 フィオナは恐る恐る顔を上げた。


「私は」


 セシリアは、少しだけ寂しそうに笑った。


「先ほど、とても嬉しかったのです」


「……嬉しかった?」


「はい」


 フィオナを立たせながら、頷く。


「誰なのかも知らない私と、普通に話してくださって」


「…………」


「一緒に夕日を見て。町のお話をして。ヴァルト侯のお話もたくさん聞かせていただいて」


「あ……」


 それを言われ、フィオナの頬が僅かに赤くなる。


「ですから」


 セシリアが微笑んだ。


「王女だと知った途端に、そんなふうに畏まられてしまうほうが……私は寂しいです」


「セシリア様……」


「それに」


 今度は、セシリアのほうがフィオナへ頭を下げた。


「先ほどは、本当にありがとうございました」


「えっ!?」


 フィオナが目を見開く。


「お、おやめください!」


 今度はフィオナが慌てる番だった。


「王女様が私なんかに頭を下げるなんて……!」


「でも」


 セシリアは頭を上げる。


「助けていただいたのは、私のほうですから」


「…………」


「あのときフィオナさんが出てきてくださらなかったら、私は……どうなっていたか」


 言葉の最後がほんの少しだけ震えた。


「だから、本当に」


 胸元で両手を重ねる。


「ありがとうございました」


「…………」


 フィオナは何も言えなくなる。


 王女。


 この国でも、ほんの一握りしかいない、最も高貴な身分の人間。


 なのに。


 目の前の王女は、自分のような者にこんなにも素直に頭を下げている。


「……はい」


 フィオナは少し照れくさそうに微笑んだ。


「お役に立てたなら、よかったです」


「…………!」


 セシリアの顔が明るくなる。


「ふふっ」


 つられて、フィオナも笑う。


 また少し、距離が縮まったような気がした。


 夜風が吹く。


 フィオナの栗色の髪と。


 セシリアの白金の髪が。


 月明かりの下で、静かに揺れた。


 しばらく。


 二人は言葉を交わすこともなく、夜の王都を眺めていた。


 やがて。


「あの……」


「はい?」


 セシリアが、少し遠慮がちに口を開く。


「一つ、伺ってもいいでしょうか?」


「なんでしょう?」


「先ほどのワインなのですが……」


「…………っ」


 フィオナの表情が固まった。


「〝ラ・ソリテュード・デュ・ディアブル〟」


「…………」


「あれほどの品を……一体どこで?」


「え、ええと……」


 フィオナの目が泳ぐ。


「その……」


 どう答えるべきだろう。


(ジーク様がいつも飲んでいるものです、なんて……)


 絶対に言えない。


 いや、言ってはいけないという決まりがあるわけではない。


 けれど。


 一本で屋敷が建つ。


 先ほどそんな話まで聞いてしまった今となっては──


(毎晩どぼどぼ飲んでますなんて、とてもじゃないけど言えない……!)


「…………」


「…………?」


「…………」


 口を開き、閉じる。


 視線を横へ逃がす。


 あまりにも露骨だったらしい。


「あっ!」


 セシリアが慌てて両手を振った。


「す、すみません!」


「え?」


「詮索するつもりではなかったのです!」


「いえ、その……」


「助けていただいたうえに、入手先まで聞き出そうとするなんて……申し訳ありません」


「そ、そんな!」


「ただ……」


 セシリアが少し言いづらそうに指先を合わせる。


「あのワインを……きちんとお返ししたくて」


「返す?」


「はい」


 真剣に頷く。


「同じ品をご用意するのは、おそらく難しいと思います」


「…………」


「ですから、せめて代金だけでも」


「えっ!?」


 フィオナの目が丸くなる。


「い、いりません!」


「いいえ!」


 意外にも、セシリアは譲らなかった。


「あれほど高価なも、そのままというわけにはいきません」


「でも……!」


「もちろん」


 少しだけ困った顔になる。


「すぐに全額を、というのは……私には少々難しいのですが。……ですが」


 ぐっ、と小さな拳を握る。


「分割でも、必ずお返しします」


「ぶ、分割……?」


「何年かかっても!」


「そ、そこまでして頂かなくても」


 一本の酒で。


 王女が長期返済を決意している。


(やっぱり、とんでもない物だったんだ……)


 今さらながら。


 フィオナの背中に冷たい汗が流れた。


 けれど。


 必死なセシリアを見ていると。


 黙ったままでいるのも、申し訳なくなってきた。


「…………」


 少し迷った末。


「あの」


「はい?」


「これからお話しすること……」


 フィオナは声を潜めた。


「誰にも言わないでいただけますか?」


「…………」


 セシリアの瞳が僅かに大きくなる。


 そして。


「もちろんです」


 胸へ手を添えた。


「私、こう見えて口は固いのですよ」


「……分かりました」


 フィオナは一度だけ深呼吸する。


 それから。


「私……」


 胸元で両手を握る。


「本当は、ローゼンベルク領の人間ではないんです」


「……え?」


「ヴァルト領で暮らしています」


「…………!」


 セシリアの瞳が大きく見開かれた。


「ヴァルト領……?」


「はい」


 もう、ここまで言ったなら隠す必要もない。


「ジーク様──ヴァルト侯のお屋敷で、働かせていただいています」


「…………」


「先ほどは嘘をついてしまって……本当に申し訳ありません」


 頭を下げる。


「事情があって、素性を隠さなければならなくて……」


「フィオナさん」


 すぐに、優しい声が返ってきた。


「顔を上げてください」


「でも……」


「事情がおありだったのでしょう?」


「……はい」


「ならば、それ以上は聞きません」


「…………」


 フィオナが顔を上げる。


 セシリアは怒っていなかった。


 それどころか。


 どこか納得したような顔をしている。


「それに」


 少しだけ、いたずらっぽく笑った。


「なんとなく、そんな気もしていました」


「え?」


「だって」


 セシリアが頬へ指を添える。


「ヴァルト侯のお話をされるときのフィオナさん、とても嬉しそうでしたから」


「…………っ」


 ぼっ、と。


 フィオナの顔が赤くなった。


「そ、それは……!」


「ふふっ」


「そ、そんなに分かりやすいでしょうか……」


「はい」


 即答。


「とっても」


「うぅ……」


 フィオナが俯く。


 恥ずかしい。


 けれど、不思議と嫌ではなかった。


「……でも」


 小さく呟く。


「本当に、ジーク様はお優しい方ですから」


「はい」


 セシリアも優しく頷いた。


「フィオナさんを見ていれば、それも分かります」


「…………」


 今度こそ。


 何も言えなくなった。


 月明かりの下。


 二人の小さな笑い声が、夜風に溶けていった。


 そのとき──


「──やはり、ここにいたか」


「……!」


 聞き覚えのある声。


 二人が振り返る。


 バルコニーの入口。


 そこに、スカーレットが立っていた。


 夜風に赤い髪を揺らし。


 腕を組みながら、呆れたようにこちらを見ている。


「スカーレット様!」


 フィオナが駆け寄る。


「いや、まったく……」


 スカーレットは大きく息を吐いた。


「あの壇上へ突然飛び出したときには、肝が冷えたぞ」


「うっ……」


「第二王女殿下へ正面から割って入ったんだからな」


「……すみません」


 しゅん、と肩を落とす。


 だが。


「まあ」


 スカーレットの表情が、僅かに緩んだ。


「よくやった」


「……え?」


「咄嗟によくあれだけ話を作ったものだ」


 小さく笑う。


「危ういところはあったが……悪く無い判断だったと思う)


「スカーレット様……」


 フィオナの顔が、ぱっと明るくなる。


「ありがとうございます!」


「ただし」


「はい!」


「次からは飛び出す前に、一度くらい私を見ろ」


「……はい」


「本当に寿命が縮んだ」


「す、すみません……」


 そんなやり取りをしていたスカーレットだったが。


 ふと。


 フィオナの向こうにいる少女へ視線を向け──


「…………!」


 表情が変わった。


 背筋を正す。


「これは……第五王女殿下」


 すぐさま片膝をつき、頭を垂れた。


「御前とは存じ上げず、失礼いたしました」


「いえ」


 セシリアは柔らかく笑う。


「どうか、お顔を上げてください」


「しかし……」


「ここには私たちしかいませんから」


「…………」


 スカーレットは一瞬迷ったものの。


「……では、お言葉に甘えて」


 立ち上がる。


「スカーレット・ローゼンベルク伯爵ですね?」


「はい」


「お噂は、以前から」


「……良い、噂であればいいのですが」


 苦笑する。


「ふふっ」


 セシリアも笑った。


「もちろんです」


 そして、もう一つ。


 大きな影が、バルコニーの入口に現れる。


「おおっ! ここにおったか!」


「ひゃっ!?」


 フィオナが肩を跳ねる。


 静かな夜には、あまりにも大きな声だった。


「公爵様……!」


「いやはや!」


 ハイネル・スタンロード・アウグスト公爵。


 黒を基調とした礼装に金の刺繍を輝かせ、相変わらずの豪快な笑みを浮かべている。


「先ほどは肝を冷やしたぞ!」


「す、すみません……」


「がっはっは! 謝ることではない!」


 大股で近づいてくる。


「しかしまあ、よくもあの状況であんな大嘘を思いついたものだ!」


「ハ、ハイネル様。お声が大きいです!」


「がっはっはっは! 大丈夫だ。会場までは聞こえん!」


 豪快な笑い声が夜のバルコニーへ響く。


 その横で。


「ハイネル殿」


 セシリアが柔らかく微笑んだ。


「ご無沙汰しております」


「おお、セシリア殿下!」


 ハイネルの表情がぱっと明るくなる。


「いやいや、久しいな!」


「はい」


「しかし先ほどは災難でございましたな。あのような茶番を見せられては、儂の心臓がもたん!」


「……申し訳ありません」


「何故殿下が謝るのか!」


 即座に返す。


「悪いのは殿下ではなかろうに!」


「…………」


 セシリアが少しだけ目を細めた。


「ありがとうございます」


「なに。殿下が姉君に嫌がらせをする筈が無い事くらい、誰でも分かっておりますわい」


 フィオナはそんな二人を交互に見る。


 ハイネルもその視線に気づいたらしい。


「なんじゃ?」


 ハイネルがフィオナを見る。


「いや……その」


「儂と殿下が親しそうなのが不思議か?」


「……少し」


「がっはっは!」


 また笑った。


「儂とセシリア殿下は、古い付き合いでな」


「古い……?」


「ああ」


 すると。


 セシリアが代わりに答えた。


「ハイネル様には、昔からとても良くしていただいているのです」


「…………」


「王宮の中で……私は少し、難しい立場にありますから」


 先ほどスカーレットから聞いた話を思い出す。


 民へ寄り添う姿勢を、王族の権威を損なうものだと嫌う者たち。


「そんな私を」


 セシリアはハイネルを見る。


「ずっと支えてくださっているのが、ハイネル様なんです。私の恩人です」


「なにを申される!」


 ハイネルが照れ臭そうに鼻を鳴らした。


「恩人などと大げさな。儂のほうこそ、殿下には何度も助けていただいておりますぞ」


「わ、私が、ですか?」


「もちろん!」


 二人が顔を見合わせ。


 ふっと笑う。


「…………」


 そのやり取りを見て、フィオナは、少しだけ理解した。


 ハイネル公爵が何故、セシリアを支えるのか。


 血筋よりも、実力を。


 身分よりも、その人自身を見る。


 獣人への差別や奴隷制度にまで異を唱える〝白鷺《しらさぎ》公〟。


 そして。


 王女でありながら、身分に関係なく困っている者へ手を差し伸べるセシリア。


(……似ているんだ)


 立場は違っても。


 二人が見ているものは、きっと近い。

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