第67話 まさに至高にして悪魔的な一杯
「それは──」
フィオナは、人々の視線を浴びながら壇上へ進んだ。
足が震え、喉が渇く。
今すぐ逃げ出したいほど怖い。
それでも。
俯いたままのセシリアを見ると、足を止めることはできなかった。
「……私がお持ちしたものです」
「…………え?」
セシリアが顔を上げる。
フィオナはその隣まで進むと、ドレスの裾を整え、その場へ跪いた。
ざわっ──
会場が大きくどよめく。
『誰だ、あの娘は』
『見ない顔だな』
『王族の御前に、勝手に……』
『何を考えている』
冷たい声。
嘲るような笑い。
不快感を隠そうともしない視線。
それらすべてが、肌へ突き刺さる。
「…………」
フィオナは頭を深く垂れたまま、必死に声を絞り出した。
「先ほど殿下へお出ししたワインは……本来、私が持参した品にございます」
「な……」
セシリアが何かを言いかける。
だが。
フィオナは僅かに顔を上げ、その目を見た。
(……合わせてください)
「…………!」
言葉にはしない。
けれど。
セシリアは、その眼差しから何かを感じ取ったらしい。
開きかけた口を、そっと閉じた。
「私の不心得ゆえ、保存状態が悪く……中身を損ねてしまったのかもしれません」
もちろん、嘘だ。
けれど今、犯人を名指しする証拠はない。
ここで陰謀だと叫んだところで、信じてもらえる保証などなかった。
ならば。
(……セシリア様を助けないと)
真相を暴くのは、そのあとだ。
「……何だ、貴様は」
低い声が降ってきた。
「…………っ」
フィオナの背筋が震える。
顔を上げれば、カトリーナの冷たい瞳が、真っ直ぐこちらへ向けられていた。
「どこの者だ」
「……第二王女殿下のお耳には届かぬような、小領地の貴族の娘にございます」
練習してきた言葉遣いを、必死に思い出す。
「ふん」
カトリーナが鼻を鳴らす。
「それで?」
「はい」
フィオナは一度、息を吸った。
「おそらく……受付で、品が取り違えられたのではないかと」
「取り違え?」
「はい」
そして立ち上がる。
護衛の兵士がすぐさま前へ出ようとした。
「止まれ」
だが、カトリーナが片手を上げる。
「……続けなさい」
「ありがとうございます」
フィオナは深く一礼すると。
自分たちがクロークから受け取ってきた、もう一つの包みへ手を伸ばした。
丁寧に布で包まれた細長い瓶。
それを両手で抱え、再びカトリーナの前へ進み出る。
「こちらが──」
緊張に震えそうになる声を、ぐっと押さえる。
「本来、セシリア殿下がお持ちになった品にございます」
「…………」
「何らかの手違いで、私のものと入れ替わってしまったのでしょう」
セシリアが、驚いたようにフィオナを見る。
当然だ。
これは、セシリアが用意したワインではない。
ジークがフィオナたちに持たせた一本なのだから。
(……ごめんなさい)
心の中で謝る。
(でも、今だけは……)
フィオナはその瓶を、恭しく差し出した。
「名を──」
一拍。
「〝ラ・ソリテュード・デュ・ディアブル〟と申します」
会場のざわめきが──ぴたりと止まった。
「…………」
そして。
「…………は?」
誰かが、間の抜けた声を漏らした。
次の瞬間。
『なっ……!?』
『今、なんと言った!?』
『ラ・ソリテュード・デュ・ディアブル(孤高の悪魔)だと!?』
『おい、どけ! 見えんだろう!』
どっと。
会場中が沸いた。
「え……?」
予想外の反応に、今度はフィオナのほうが目を瞬く。
『〝孤高の悪魔〟だぞ……!』
『現存しているものがあったのか!?』
『ヴァルト領の最高級酒……いや、もはや市場には出回らぬ幻の銘酒だ!』
『一本あれば屋敷が建つとまで言われているぞ!』
「…………え?」
フィオナの頬が引きつった。
(や、屋敷……?)
そんな馬鹿な。
だって。
(ジーク様……これ、普通に飲んでますよね……?)
夜な夜な。
暖炉の前で。
グラスにどぼどぼ注いで。
『やっぱり今年のは少し酸味が強いな』
などと、平然と飲んでいる。
(…………)
思い返す。
そういえば。
以前、ジークが何気なく言っていた。
『出来のいい樽は市場には出さんぞ』
『え?』
『勿体ないだろ。自分で飲む』
それから。
『まぁ、町の祭りや祝い事ならば多少分けてはやるが』
「…………」
(あれ……)
嫌な汗が流れる。
(もしかして……私、とんでもない物を持ってきちゃった……?)
そんなフィオナの内心など知る由もなく。
カトリーナは。
「…………」
完全に固まっていた。
差し出された瓶を、食い入るように見つめている。
「……貸しなさい」
「は、はい!」
ほとんど奪い取るような勢いで受け取った。
自ら布を解く。
現れたのは、深い色の瓶。
古めかしい意匠のラベル。
そして。
そこへ刻まれた文字。
──La Solitude du Diable.
「…………っ!」
カトリーナの指先が震えた。
「ほ……」
先ほどまでの怒気は、どこへやら。
「本物……」
目が輝く。
「本物じゃない……!」
そして。
勢いよくセシリアを見る。
「凄いじゃない、セシリア!」
「えっ……」
「これ、ずっと探していたのよ!」
「え、ええと……」
「まさか本当に残っていたなんて!」
満面の笑み。
先ほどまで怒り狂っていた人物と、同一人物とは思えないほどの豹変ぶりだった。
「…………」
「…………」
「…………」
会場中が呆気に取られている。
けれど。
本人はまったく気にしていない。
「早く開けなさい!」
係の者へ瓶を突き出す。
「は、はい!」
慌てて栓が抜かれる。
ぽんっ。
小気味いい音。
そして。
グラスへ注がれた深紅の液体が、燭台の光を受けて揺れた。
「…………」
カトリーナはグラスを受け取る。
ゆっくりと回し、鼻先へ寄せる。
瞬間。
「……あぁ」
目を閉じた。
「この香り……」
先ほどのものとは、まるで違う。
芳醇な葡萄の香り。
長い年月を経た樽の香ばしさ。
そして、その奥にある幾重もの甘みと酸味。
「……間違いない」
うっとりと、頬を緩ませた。
「なんという芳醇さ……」
一口。
ゆっくりと含む。
「…………!」
カトリーナの目が見開かれた。
そして。
「素晴らしい……!」
心の底から感嘆したように呟く。
「この重み……この深み……それでいて、舌に残る香りは驚くほど繊細……」
もう一口。
「まさに──至高にして悪魔的な一杯!」
「…………」
フィオナは思った。
(……本当にお酒がお好きなんだ……)
さっきまでの怒りは、一体どこへ消えたのだろう。
カトリーナはすっかり機嫌を直している。
そして。
「セシリア」
「は、はい……」
妹へ視線を向ける。
「あなた、なかなかやるじゃない」
「え……」
「これほどのものを用意していたのなら、最初からそう言いなさいよ」
「…………」
理不尽である。
「せっかくの祝いの席だもの」
カトリーナは、優雅にグラスを傾ける。
「先ほどの件は、忘れてあげるわ」
「…………」
フィオナの眉が僅かに動いた。
違う。
セシリアは何も悪い事はしていない。
本来なら。
忘れてあげる、ではなく、誤解を詫びるべきなのではないか。
けれど。
「……ありがとうございます、お姉様」
セシリアは、それでも静かに頭を下げた。
その声には。
安堵と、僅かな寂しさが混じっていた。
「…………」
フィオナは何も言えなかった。
この場所には、この場所なりの事情があるのだろう。
少なくとも。
これ以上ここでカトリーナへ食ってかかれば、せっかく収まりかけた騒ぎを、再び大きくしてしまう。
(……今は、これでいい)
ぐっと飲み込む。
そして。
隣から。
「あの……フィオナさん」
セシリアが、ほんの僅かに顔を寄せてきた。
「そのワイン……」
「…………」
フィオナは小さく首を振った。
今は言わないでください。
そう伝えるように。
「…………」
セシリアは、一瞬だけ戸惑った。
けれど。
すぐに事情を察したのだろう。
何も言わず、小さく頷いた。
「…………」
二人の視線が重なる。
フィオナは何も知らないふりをして、再び深く頭を下げた。
「殿下の御不興を招きましたこと、改めてお詫び申し上げます」
「もういいわ」
カトリーナは、完全にワインへ夢中だった。
「下がりなさい。私はこれをゆっくり味わいたいの」
「……御意に」
フィオナとセシリアは同時に一礼する。
そして、壇上を降りた。
「…………」
数歩。
人々の輪を抜けたところで。
セシリアがそっと、フィオナを見る。
「…………」
フィオナも見返す。
そして。
二人は言葉を交わさぬまま。
ほんの小さく、互いに頷いた。




