第66話 私は本当に、お姉様をお祝いしたくて
「…………」
フィオナの胸は、未だ落ち着かなかった。
壇上へ進んでいくセシリア。
白金の髪を揺らし、慎ましやかな笑みを浮かべるその姿は──間違いなく、先ほどまで自分と並んで夕日を眺めていた少女だった。
(セシリアさんが……王女様……)
何度考えても、現実味がない。
人が多いのは苦手だと笑って。
町の話を楽しそうに聞いてくれて。
ジークについて熱く語る自分を、優しく見守ってくれた。
あんなにも気さくに接してくれた少女が。
まさか、この国の王女だったなんて。
「…………」
驚き、戸惑い。
そして、先ほど感じた妙な違和感。
それらが頭の中をぐるぐると巡っていると──
「……フィオナ」
「え?」
隣に立つスカーレットが、声を潜めた。
「先ほどから様子がおかしいぞ」
「…………」
「セシリア殿下と、何かあったのか?」
「あ……」
一瞬。
言うべきか迷った。
隠すようなことでもない。
「実は……」
フィオナは周囲へ聞こえない程度の小さな声で、先ほどの出来事を話した。
人混みに酔って、二階のテラスへ逃げたこと。
そこで偶然、セシリアと出会ったこと。
互いに素性を知らないまま、夕日を眺めながら話をしたこと。
そして──
「私、町のこととか……ジーク様のこととか、色々お話ししちゃって……」
「ほう」
「セシリアさん──じゃなくて、セシリア殿下は、それを本当に楽しそうに聞いてくださったんです」
「…………なるほど」
最後まで聞くと、スカーレットはどこか納得したように小さく頷いた。
「実に、あの方らしい」
「……セシリア様らしい?」
「ああ」
フィオナが首を傾げる。
スカーレットは壇上へ視線を向けたまま、静かに続けた。
「セシリア殿下は、王族の中でも特に温厚で慈悲深いお方だ」
「…………」
「身分を笠に着ることもない。各地の孤児院へ自ら足を運び、貧民街で炊き出しを行ったことも一度や二度ではない」
「王女様が……自分で?」
「ああ」
スカーレットが小さく笑う。
「だから、平民からの人気はすこぶる高い。特に生活の苦しい者たちからは、半ば聖女のように慕われているほどだ」
「……やっぱり」
フィオナの表情が、ふっと和らいだ。
ほんの僅かな時間。
それでも。
セシリアが優しい人だということは、十分すぎるほど伝わってきた。
「すごく……分かる気がします」
「だろうな」
「はい」
フィオナは嬉しそうに頷く。
けれど──
「…………」
スカーレットの表情は晴れなかった。
「スカーレット様?」
「……ただな」
声が、低くなる。
「それこそが、あの方の立場を危うくしている」
「え?」
フィオナが瞬きをする。
「どういうことですか?」
「民に寄り添いすぎる、と考える連中がいるということだ」
「…………」
「王族自ら孤児院を訪ね、物乞いへ食事を与える。本人にとっては善意でも──それを〝王族の品位を落とす行為〟だと見る貴族は少なくない」
「そんな……」
フィオナの眉が寄る。
「困っている人を助けているだけじゃないですか」
「私もそう思う」
だが、と。
スカーレットは続けた。
「この場所では、正しいことが必ずしも歓迎されるとは限らない」
「…………」
「王族は王族らしく、庶民とは一線を引くべきだ。そう考える者は多い。ましてセシリア殿下は、王女という立場にありながら、そうした慣習をほとんど気にされない」
ほんの少し、スカーレットの瞳が険しくなる。
「だから──同じ王族や貴族の中には、あの方を疎ましく思っている者もいる」
「…………」
フィオナは壇上へ視線を戻した。
穏やかに微笑むセシリア。
その白金の髪が、シャンデリアの光を受けて淡く輝いている。
(あんなに優しい方なのに……)
胸の奥が、少しだけ痛んだ。
その間にも。
セシリアは第二王女カトリーナの前へ進み出ていた。
そして。
ドレスの裾を摘まみ、恭しく礼をする。
「お姉様」
柔らかな声。
「御生誕の日を迎えられましたこと、心よりお祝い申し上げます」
「…………」
カトリーナが、僅かに顎を引く。
「……ありがとう、セシリア」
「本日は、ささやかではございますが──」
セシリアが後ろへ目を向ける。
係の者が、一つの木箱を運んできた。
「かのヴァルト領で造られたワインを、献上させていただきます」
「…………!」
その瞬間。
会場のあちらこちらから、小さなどよめきが起こった。
『ヴァルトのワインだと?』
『あれを手に入れたのか』
『最近は王都でも、ほとんど市場に出ていないぞ』
『第五王女殿下にしては、なかなか良いものを……』
「…………」
フィオナは目を瞬いた。
(そんなに……人気なんだ)
自分にとっては、毎日目にしている葡萄畑から生まれた酒。
けれど。
この王都では、一本を手に入れるだけでも苦労するほどのものらしい。
そして。
それは酒好きで知られるカトリーナにとっても、例外ではなかった。
「ヴァルト領の?」
それまでほとんど表情を変えなかったカトリーナが。
ほんの僅か、初めて興味を示した。
「……あなたにしては、気が利くじゃない」
「あ……ありがとうございます、お姉様」
セシリアがほっとしたように微笑む。
係の者が木箱を開け、中から一本の瓶を取り出した。
濃い色の硝子。
ヴァルト領の紋章が刻まれたラベル。
フィオナも何度となく見た、いつものワインと何も変わらない。
栓が抜かれる。
グラスへ。とく、とく、と、赤い液体が注がれていく。
燭台の火を受け、深紅の酒が宝石のように煌めいた。
「…………」
カトリーナはグラスを手に取る。
軽く揺らし、まず香りを確かめるように、鼻先へ近づけた。
そして。
「…………っ」
ぴたり。
動きが止まった。
「……?」
セシリアが僅かに首を傾げる。
次の瞬間。
カトリーナの目が、鋭く細められた。
「これは……」
低い声。
先ほどまでの静けさとは、明らかに違う。
「お姉様……?」
「…………」
カトリーナはもう一度。
確認するように香りを嗅いだ。
そして──
「ふざけるなッ!」
「──っ!?」
鋭い声が、大広間を切り裂いた。
ぶんっ──!
手にしていたグラスが投げつけられる。
「きゃっ!」
セシリアが反射的に身を捩った。
グラスそのものは避けた。
だが。
飛び散った赤い酒が、白い頬を掠め、淡い空色のドレスにも、赤い染みを作った。
ぱりんっ!
背後の床で、グラスが砕け散る。
「…………」
会場が、一瞬で静まり返った。
「お、お姉様……?」
セシリアが呆然とする。
「一体、何を……」
「何を?」
カトリーナが立ち上がった。
黄金色の髪が大きく揺れる。
「それはこちらの台詞よ!」
怒りに満ちた声が、大広間へ響く。
「私を誰だと思っているの!」
「…………!」
「空き瓶に安酒を詰めて、ヴァルトのワインだと偽れば──この私を騙せるとでも思った!?」
「え……?」
セシリアの顔から、さっと血の気が引いた。
「そ……そんな」
木箱を見る。
瓶を見る。
そして、呆然と首を振った。
「そんなはずはありません!」
「まだ言うの?」
「本物です!」
セシリアが必死に声を上げる。
「私が……自分で用意したものです! 確かにヴァルト領のワインを──」
「私が酒の香りも分からないとでも!?」
「……っ」
カトリーナの怒声に、セシリアの身体が小さく震えた。
会場中が、ざわめき始める。
『まさか……偽物を?』
『第二王女殿下に?』
『いくらなんでも、不敬にもほどがあるぞ』
『第五王女殿下は何を考えて……』
「違います!」
セシリアが振り返る。
「私は、そのようなこと……!」
けれど。
誰も、その声に応えない。
近くにいた者たちは視線を逸らし。
遠巻きにする者は、好奇の目を向けるばかり。
「…………」
フィオナは呆然と、その光景を見つめていた。
(セシリア様……)
何が起きている?
セシリアは嘘をつくような人には見えなかった。
それどころか。
テラスであれほど嬉しそうに、一本だけ手に入れられたと話していたのだ。
(だったら……どうして?)
そのとき。
『……上手くいったぞ』
「…………!」
フィオナの耳が、僅かに動いた。
大広間の喧騒。
その中に紛れた、ごく、ごく、小さな声。
『ああ。どうなることかと思ったがな』
『本来ならスタンロード公を狙いたかったが……あの人だかりでは近づく隙がない』
「…………」
フィオナの目が見開かれる。
『だが第五王女なら十分だ』
『これであの女も終わりだ』
『第二王女の面子を潰したとなれば、いくら民に人気があろうが──』
「…………っ!」
息を呑む。
(今の……)
聞き間違いではない。
(セシリア様が……嵌められた?)
何者かが、ワインをすり替えた。
しかも。本来彼らの狙いだったのは──
(スタンロード公爵……!)
頭の中で、すべてが繋がった。
自分たちがこの場所へ来た理由。
ハイネルを失脚させようとしている者たち。
今の会話。
(この人たちだ……!)
見つけた。
陰謀を企てている犯人たちを。
けれど、今はそれを証明する手立てが無い。
その間にも、壇上では──
「な、何かの間違いです!」
セシリアが必死に訴えていた。
「私は本当に、お姉様をお祝いしたくて……!」
「黙りなさい!」
「──っ!」
カトリーナが一喝する。
「前々から気に入らなかったのよ」
その目には、もう献上品への怒りだけではない。
積もり積もった感情が、露わになっていた。
「王女ともあろう者が、下賤な者どものもとへ自ら出向き」
「…………」
「物乞いに食事を配り、孤児どもに声をかけ──!」
「お姉様……」
「王族が平民に媚びてどうするの!」
カトリーナの声が響く。
「あなたがそんな真似をするたび、王家の権威がどれだけ傷ついていると思っているの!?」
「私は……媚びてなど……」
「なら何のつもり!?」
セシリアの目に、涙が滲む。
「私は……ただ」
声が震えていた。
「困っている方がいるなら……少しでも、お力になれればと……」
「それが余計だと言っているの!」
「…………っ」
誰も止めない。
王女同士の争いに巻き込まれたくないのか、見て見ぬふりをする。
あるいは。
この状況を面白がっている者すらいる。
「…………」
フィオナの手が、ぎゅっと握りしめられる。
(違う)
セシリアは、何もしていない。
(悪いのは、セシリア様じゃない)
知っている。
自分だけは。
何者かが、彼女を嵌めたことを知っている。
「この屈辱……」
カトリーナの声が、冷たく落ちた。
「私は忘れないわよ」
「…………」
セシリアが俯く。
白金の髪が、その表情を隠す。
ぽたり。
小さな涙が床へ落ちた。
「…………っ」
その瞬間。
フィオナの中で何かが切れた。
(駄目……!)
考えるより先に、身体が動いていた。
「──待ってください!」
「……!?」
響き渡った声。
大広間中が一瞬にして静まり返る。
「それは、誤解です!」
ざわっ──
数百もの視線が、一斉に一人の少女へ向けられた。
「…………」
フィオナ自身も。
声を上げてから、ようやく気づいた。
(…………あ)
やってしまった。
ここは王宮。
目の前にいるのは第二王女。
「…………っ」
心臓が、今さらになって激しく脈打ち始める。
けれど、もう。
引き返すことはできなかった。
俯いていたセシリアが、ゆっくりと顔を上げる。
「……フィオナさん?」
驚きに濡れた瞳が、真っ直ぐこちらを見る。
フィオナは一度ぎゅっと拳を握った。
そして──
一歩。
人々の輪の中へ、踏み出した。




