第65話 気難しい方なんだ
やがて──
楽団の演奏が、ふっと途切れた。
ざわめいていた大広間に、静寂が落ちる。
次いで。
先ほどまでとは明らかに違う、荘厳な旋律が奏でられ始めた。
その瞬間、会場の空気が一変した。
談笑していた貴族たちは口を閉ざし。
給仕たちも壁際へ下がり。
大広間にいる誰もが、奥にある巨大な扉へと視線を向ける。
「…………」
フィオナも、つられるようにそちらを見る。
やがて。
重厚な扉が、ゆっくりと左右へ開かれた。
眩い光を背負うように──一人の女性が姿を現す。
「…………!」
フィオナは、息を呑んだ。
第二王女──
カトリーナ・リューベンス・アルトラウム。
身に纏うのは、夜空を思わせる深い群青のドレス。
肩口から流れる銀糸の刺繍が、燭台やシャンデリアの光を受けるたびにきらめく。
その姿はまるで、無数の星々を身に散りばめているかのようだった。
腰まで流れる、美しい黄金色の髪。
透き通るような白い肌。
すらりと伸びた肢体。
一歩進むたび、広がった裾が水面のように静かに揺れる。
(……綺麗)
思わず、そう思った。
スカーレットとは、また違う。
あちらが燃え上がる炎のような美しさなら。
目の前の王女は──冷たく輝く月のようだった。
けれど。
「…………」
フィオナは、ほんの僅かに身体を強張らせる。
美しい。
間違いなく。
だが。
その澄み切った瞳には、ほとんど感情が見えない。
整った輪郭。
僅かにも乱れない所作。
広間中から視線を浴びながらも、微塵の動揺すら見せない。
人を寄せつけぬような、ひやりとした空気。
それこそが。
彼女を単なる美しい令嬢ではなく──〝王族〟たらしめているように思えた。
『第二王女──カトリーナ・リューベンス・アルトラウム殿下、御入場──!』
役人の声が、高らかに響き渡る。
直後。
大きな拍手が沸き起こった。
「…………」
カトリーナは、それに軽く頷くだけで応える。
そして広間奥に設けられた主賓席へ向かい、静かに腰を下ろした。
ただ、それだけ。
なのに。
まるで広間そのものが、彼女を中心に作り変えられたようだった。
(これが……王女様……)
フィオナは無意識に唾を飲み込んだ。
スカーレットも。
ハイネル公爵も。
あれほど堂々とした人物なのに。
王族というのは、それともまた違う存在なのだと。
肌で理解させられる。
やがて。
司会役らしき男が、広間の中央へ進み出た。
「皆様、本日はカトリーナ殿下の御生誕を寿ぐため、この場へお集まりいただき、誠にありがとうございます」
一礼。
「これより、皆様よりお持ちいただきました献上の品を、順次ご披露いただきます」
声を張り上げる。
「皆様方の心よりのお祝いが、殿下に届きますよう──」
再び拍手。
だが、その華やかな音の裏で。
『……始まったか』
フィオナの耳に、囁きが届いた。
『やれやれ。今年はどうなることやら』
『第二王女殿下は、贈り物には殊更厳しいからな』
『安物など渡してみろ。どんな顔をされるか分かったものではない』
『かといって、ただ金をかければいいというものでもない。成金趣味だと一蹴されるぞ』
『献上品ひとつで、家の評価まで変わりかねんからな……』
「…………」
どうやら。
先ほどの拍手ほど、皆の心は晴れやかではないらしい。
あちらこちらから。
不安。
緊張。
愚痴。
そんな囁きが聞こえてくる。
(やっぱり……噂通り、気難しい方なんだ)
フィオナも事前に聞いていた。
第二王女カトリーナは、贈り物にも妥協を許さない。過去には、その場で献上品を突き返された貴族すらいるとか。
(こ、怖い……)
祝いの席なのに。
渡す側にとっては、まるで試験のようだ。
フィオナも当然、手ぶらではない。
皆で何を持っていくべきか相談した結果。
最後にジークが、一本のワインを選んでくれた。
『第二王女は無類の酒好きらしい』
そう言って。
酒蔵から無造作に一本を取り出したのだ。
『まあ、これなら文句はあるまい』
(ジーク様がそう仰るなら、大丈夫だとは思うけど……)
今になって、急に不安になってきた。
(もし気に入ってもらえなかったら、どうしよう……)
何しろ。
先ほど聞こえてきた話では、家の評価すら左右されかねないらしい。
スカーレットの顔に泥を塗ったら。
ジークに迷惑をかけたら。
そう考え始めると──
「あの」
「……え?」
隣から、声をかけられた。
セシリアだった。
「フィオナさん。私はここで、一度失礼しますね」
「え……?」
「献上のご挨拶がありますので」
「あ、そうでしたね」
フィオナも思い出す。
先ほど。
セシリアも第二王女への献上品として、ヴァルト領のワインを一本用意したと言っていた。
「しばらくは王家の縁者や、高位の方々からになると思いますので」
セシリアは柔らかく微笑んだ。
「行ってきますね」
「はい!」
フィオナも笑顔で頷く。
「頑張ってください」
「ふふ。ありがとうございます」
軽く会釈すると、セシリアは人混みの向こうへ消えていった。
「…………」
フィオナは、その後ろ姿をしばらく見送る。
そして──
「フィオナ!」
「ひゃっ!?」
突然名前を呼ばれ、肩を跳ねさせた。
振り返れば。
人波を掻き分けるようにして、鮮やかな赤髪がこちらへ近づいてくる。
「ス、スカーレット様!」
「どこへ行っていたのだ!?」
スカーレットはフィオナの前まで来るなり、珍しく声を荒らげた。
「しばらく姿が見えなかったので、心配したぞ。何かあったのか?」
「す、すみません!」
フィオナは反射的に頭を下げる。
「少し……人混みに酔ってしまって。二階のテラスで休んでいました」
「テラス?」
「はい……」
申し訳なさそうに肩を縮める。
「大切な任務の途中なのに、本当にすみません」
「…………」
スカーレットは、しばらくフィオナを見つめた。
怪我がないか。
変わったことがないか。
確かめるように。
そして。
「……そうか」
小さく息を吐いた。
「ならばいい」
「でも……」
「事態が事態だ。気を張るのは分かる」
少しだけ表情を和らげる。
「だが、だからといって無理をして倒れたのでは意味がない」
「スカーレット様……」
「休む必要があるなら休め。おかしなことではないさ」
「……ありがとうございます」
フィオナは、ほっとしたように微笑む。
「それより」
スカーレットが会場中央へ目を向けた。
「献上が始まった。私たちも品を取ってこよう」
「あっ……はい!」
二人は一度、大広間を離れる。
受付のクロークへ向かい、預けておいた献上品を受け取った。
そして再び戻ってきた頃には──
『おおー……』
会場から溢れる感嘆の声。
すでに、献上品の披露が始まっていた。
名立たる公爵家。
侯爵家。
王家と縁の深い有力貴族たち。
呼ばれた者が順に前へ進み、第二王女へ品を献上していく。
大粒の宝石をあしらった首飾り。
名工による細工が施された短剣。
何百年も前の巨匠が描いたという絵画。
遠い異国から取り寄せた、珍しい工芸品。
「…………」
どれも、フィオナには値段の想像すらつかない。
(あれ……いくらするんだろう……)
思わず自分たちが持っているワインの木箱へ目を落とす。
急に、ますます不安になってきた。
そして。
肝心のカトリーナ殿下はというと──
「…………」
ほとんど表情を変えない。
「見事な品だ」
「悪く無い」
「気に入った」
そう答え、僅かに頷く。
ただ、それだけ。
だというのに。
会場は、彼女の仕草一つ一つに振り回されていた。
『今のは……お気に召したのか?』
『少し頷きが深かったぞ』
『いや、いつもと変わらんだろう』
『先ほどの宝石より反応は良かったように見えたが……』
(そ、そうかな……?)
遠く壇上から離れて見るフィオナには、もう違いがまったく分からない。
そんな中。
次の名が読み上げられた。
『続きまして──』
係の者が、手元の書状へ目を落とす。
『第五王女──セシリア・ノルデン・アルトラウム殿下!』
「…………」
フィオナは瞬きをした。
「…………え?」
一拍。
意味を理解するまでに時間がかかった。
(セシリア……?)
聞き間違いだろうか。
そう思って。
壇上へ続く人波を見る。
すると。
「…………!」
そこに。
見覚えのある白金の髪があった。
淡い空色のドレス。
小さな花の刺繍。
そして。
先ほどまで、自分と並んで夕日を眺めていた──
「あ……」
セシリアだった。
「…………ええっ!?」
思わず、声が出た。
慌てて口元を手で覆う。
「どうした?」
隣のスカーレットが怪訝そうにこちらを見る。
「い、いえ……その……」
だが。
説明する言葉が見つからない。
フィオナはただ、壇上へ歩いていくセシリアを呆然と見つめていた。
(王女……様?)
あの子が。
さっきまで一緒に。
人が多いのは苦手だとか。
このテラスが好きだとか。
そんな話をして。
自分の話を笑って聞いてくれていた少女が。
──王女。
(う、嘘……)
身体から血の気が引く。
(私……王女様に向かって……)
何を話した?
ジークは優しい。
町のご飯は美味しい。
ワインを皆に飲んでもらいたい。
挙げ句。
本人へ向かって。
(……〝綺麗〟って言っちゃった……!)
「…………っ」
一気に顔が熱くなった。
(わ、私、とんでもないことを……!)
だが。
当のセシリアは、先ほどと何も変わらなかった。
大勢の視線を浴びながらも。
控えめな笑みを浮かべ、静かに壇上へ進んでいく。
その歩みは上品で、立ち振る舞いにも隙がない。
けれど。
第二王女カトリーナのような、近寄りがたい威圧感はなかった。
ただ、柔らかく。
可憐で。
夕暮れの中で淡く輝いていた白金の髪も。
フィオナがテラスで見た少女のまま。
「…………」
それが余計に、不思議だった。
(本当に……王女様なんだ)
身分など知らなかったとはいえ。
あれほど自然に話してくれた。
気取ることも。
偉ぶることもなく。
まるで、普通の友人のように。
「…………」
驚き、恥ずかしさ。
それから。
どこか嬉しいような気持ちまで。
胸の中でごちゃ混ぜになる。
けれど、そのとき。
フィオナは、ふと気づいた。
「……あれ?」
眉を寄せる。
何かがおかしい。
(第五王女……なんだよね?)
王族。
今日の主役である第二王女の、妹。
なら。
(どうして……今なんだろう)
すでに、いくつもの公爵家、侯爵家、貴族たちの献上が済んでいる。
もちろん。
フィオナは王宮の正式な作法など詳しくない。
献上の順番にも、何か自分の知らない決まりがあるのかもしれない。
それでも。
王女であるなら。
少なくとも、もっと早い順番で呼ばれるものではないのだろうか。
「…………」
何より、名前が読み上げられた瞬間……。
会場の空気が、ほんの僅かに──変わった気がした。
歓声でも、敬意でもない。
何か。
微妙なざわめき。
「…………?」
フィオナは周囲へ目を向ける。
だが、その理由までは分からない。
ただ壇上へ進む小さな背中を見つめながら。
胸の中に新たな疑問だけが、静かに残った。




