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第64話 信じて……くださるのですか?

「あの……」


 しばらく夕暮れの景色を眺めたあと。

 隣に立つ少女が、少し遠慮がちに口を開いた。


「私、セシリアと申します」


 胸の前でそっと両手を重ね、上品に頭を下げる。


「あっ……!」


 そういえば、まだ互いに名乗ってすらいなかった。


「し、失礼しました! 私はフィオナです」


 フィオナも慌ててドレスの裾を摘まむ。


 一か月間、何度も練習した礼。


 ──のはずなのだが。


 焦ったせいか、どうにもぎこちない。


「フィオナさん」


 セシリアが嬉しそうに、その名を口にする。


「はい」


「フィオナさんは、どちらからいらしたのですか?」


「…………」


 一瞬、フィオナの言葉が止まった。


(どう、答えよう……)


 自分は貴族の令嬢ではない。

 ジーク様に使えるメイドだ。けれど、それを正直に話す訳にもいかない。


 この無垢な少女に嘘をつく事を一瞬躊躇い、そして口を開いた。


「……ローゼンベルク領から、です」


 慎重に言葉を選ぶ。


「今日は、領主であるスカーレット様の……付き添いで来ました」


「まあ!」


 セシリアの瞳が、大きく見開かれた。


「ローゼンベルク領から?」


「はい」


「ということは……」


 何かを思い出したらしい。

 セシリアの表情に、僅かな曇りが差した。


「ヴァルト領の、お隣ですよね」


「……そう、です」


「確か……」


 一度、躊躇う。


 そして周囲に誰もいないことを確認してから、声を落とした。


「〝ヴァルト領の悪魔〟に支配されてしまった土地だと、聞いたことがあります」


「…………」


 フィオナの眉が、ぴくりと動いた。


 まただ。

 会場へ入ったときにも耳にした。


 ジークが領民を支配している。

 人々を奴隷のように扱っている。


 そんな、事実とはまるで違う噂。


「あの……」


 セシリアが心配そうにフィオナを見る。


「もし、本当にお困りなのでしたら……」


 胸元で手を握りしめ。

 少し緊張しながらも、真っ直ぐフィオナを見つめた。


「私に、何かできることはありませんか?」


「……え?」


「大したことはできないかもしれません。でも……もし皆さんが苦しい思いをしているのなら、何かお力になれたらと」


「…………」


 フィオナは目を瞬いた。


 悪意などない。

 目の前の少女は、本気で心配してくれている。


 それが分かるからこそ。

 余計に──黙ってはいられなかった。


「違うんです!」


「えっ?」


 思わず、声が大きくなる。


「あっ……す、すみません」


 慌てて声量を落とす。


 それでも。


「でも……違うんです」


 もう一度。

 今度ははっきりと言った。


「町は、とても平和です」


「…………」


「皆さん、本当にいい方ばかりで。市場へ行けばいつも声をかけてくれますし、ご飯も美味しくて……お祭りだって、すっごく楽しいんです」


 話し始めると、次から次へと言葉が溢れてきた。


「子供たちも元気いっぱいですし、みんなよく笑っていて……困っている人がいれば、誰かが当たり前みたいに手を貸してくれて」


「フィオナさん……」


「だから、支配されてるなんて……そんなこと、絶対にありません」


 胸元へ、ぎゅっと手を添える。


「それに……」


 一瞬だけ、言葉に詰まった。


「ジーク──」


「……?」


「ヴ、ヴァルト侯も!」


 危うく、いつもの呼び方をしそうになった。


「とても、お優しい方なんです」


 言葉にすると、何故か胸の奥が少しだけ熱くなった。


「普段は無愛想ですし……何を考えているのか分からないこともありますし、説明も全然してくださらないですし……」


「…………」


「あと、朝も弱いですし」


「ふふっ」


「あっ、いえ! そうじゃなくて!」


 フィオナは慌てて首を振った。


「でも……本当に、優しい方なんです」


 声が、自然と柔らかくなる。


「私たちが困っていたとき、何も聞かずに助けてくださいました」


 雪の日。

 あの屋敷へ辿り着いた日のことを思い出す。


「何の見返りを求めることもなくて……」


「…………」


「いつも面倒そうな顔をするのに、本当に困っているときには、絶対に見捨てないんです」


 フィオナは、ほんの少しだけ笑った。


「町の皆さんのことだって……ちゃんと考えてくださっています」


 尊敬。

 感謝。

 信頼。


 そして。

 まだ本人さえ名前を知らない──もう一つの感情。


 それらが入り混じり。

 フィオナの声は、いつしか熱を帯びていた。


「だから……」


 真っ直ぐ、セシリアを見る。


「あの方は、噂で言われているような怖い人なんかじゃありません」


「…………」


 そこでようやく、自分が随分熱くなっていたことに気づいた。


「す、すみません……」


 頬が熱い。


「つい……」


「いいえ」


 セシリアは首を振った。


 そして。

 しばらくフィオナの顔を眺めていたかと思うと──


「……そうですか」


 ふわりと微笑んだ。


「ならば、私も認識を改めなければいけませんね」


「え……?」


 フィオナが目を丸くする。


「信じて……くださるのですか?」


「もちろんです」


「でも、皆さん口を揃えて、悪い噂ばかり」


「そうですね」


 セシリアは少し考えるような仕草をしてから。


「でも──」


 にこりと笑った。


「フィオナさんのお顔を見ていれば、本当のことをおっしゃっているかくらい、すぐに分かりますから」


「…………!」


 どきり。


 胸の奥を直接覗かれたような気がした。


「そ、そんなに……顔に出てました?」


「とても」


「…………」


「特に、ヴァルト侯のお話をされているとき」


「──っ!」


 フィオナの頬が、一気に赤くなる。


「い、いえ! あれは、その……!」


「ふふっ」


「セ、セシリアさん?」


「ごめんなさい」


 そう言いながらも、セシリアはどこか楽しそうだった。


 フィオナは恥ずかしさに耐えきれず、夕暮れの街へ視線を逸らす。


 けれど。

 悪い気は、しなかった。


「……でも」


 小さく、今度は照れくさそうに笑う。


「はい。本当に……そういう方なんです」


 その返事はどこか誇らしげだった。


「素敵な方なのですね」


「……はい!」


 今度は迷わず頷いた。


 セシリアはそんなフィオナを見て、満足そうに目を細める。


「それにしても……」


 少し話題を変えるように、遠くへ視線を向けた。


「ローゼンベルク領といえば、やはりワインですね」


「ワイン……ですか?」


「はい」


 セシリアの顔が明るくなる。


「ヴァルト領で作られているワインは、王都でも大変な人気なのですよ」


「そ、そうなんですか?」


 フィオナが目を丸くする。


「ええ。なかなか手に入らないので、余計に人気が出てしまっているくらいです」


「へぇ……」


 自分たちが暮らす土地で作られたものが。

 この巨大な王都で、それほど求められている。


 不思議な気分だった。


「私も、本日の第二王女殿下への献上品として一本用意したのですが」


「…………?」


 セシリアは少し困ったように笑った。


「どうにか一本を手に入れるのがやっとでした」


「そ、そうだったんですね……」


 フィオナは何故か申し訳なさそうに肩を縮めた。


「すみません……」


「何故フィオナさんが謝るのです?」


「そ、それは……」


 困ったように笑う。


「小さな土地で、少ない人数で作っていますから。たくさんは作れないんです」


 毎日畑に出て葡萄の様子を見て回るジークとルス。

 樽に詰められ、時間をかけて酒へ変わっていく葡萄。


 日々見てきた光景を思い浮かべる。


「本当は……欲しいと言ってくださる皆さんに、飲んでもらえれば一番いいんですけど」


「…………」


 セシリアは、少し驚いたようにフィオナを見る。


 そして、どこか嬉しそうに笑った。


「フィオナさんは、本当にローゼンベルクとヴァルトがお好きなのですね」


「え?」


 言われて、初めて気づく。


「…………」


 そして。


「……はい」


 フィオナは静かに頷いた。


「大好きです」


 今度は。

 少しも照れることなく、そう答えられた。


 そのときだった。


 ぱんっ、ぱんっ、ぱんっ──!


「……?」


 遠くから、大きな拍手が聞こえてきた。


 続いて。

 それまでとは違う、華やかな楽団の演奏。


 大広間から漏れてくるざわめきも、にわかに大きくなっている。


「何でしょう……?」


 フィオナが振り返る。


 すると。


「……そろそろですね」


 セシリアが小さく呟いた。


「え?」


「第二王女殿下がお出ましになられる頃です」


「あっ……!」


 フィオナも思い出す。


 今日の主役。

 第二王女の生誕祭なのだ。


「私たちも戻りましょう」


 セシリアがテラスの入口へ向かう。


「あ、はい!」


 フィオナも、その後を追った。


 数歩進んでから。


 ふと。

 名残惜しくなって振り返る。


 沈みきる寸前の太陽。

 橙から紫へ、少しずつ夜へ染まっていく空。


 つい少し前まで。

 この場所で一人、緊張に押し潰されそうになっていた。


 けれど。


「フィオナさん?」


「あっ、すみません!」


 セシリアに呼ばれ、慌てて駆け寄る。


 二人並んで廊下を歩く。


「…………」


 フィオナは隣を歩く少女を、ちらりと見た。


 白金の髪。

 淡い空色のドレス。

 優しい笑顔。


(……不思議な子)


 

 ほんの少し話しただけなのに。


 もっと話してみたい。

 もっと知りたい。


 そんな気持ちが、自然と湧いてくる。


 フィオナはまだ知らない。


 この偶然の出会いが──

 今宵の宴を、大きく動かすことになるなど。

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