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第63話 本当に、綺麗ですね

「はっはっは! 相変わらず威勢がいいな、ルッツ!」


「──っ!?」


 突然。


 三人の間へ、聞き覚えのある豪快な笑い声が割って入った。


 振り返れば、いつの間にやらハイネル公爵がすぐ傍まで来ていた。

 つい先ほどまで別の者たちに囲まれていたはずなのに、今は酒杯を片手に、まるで古い友人へ声をかけるような気安さで笑っている。


「こ、これは……公爵!」


 さすがのルッツも一瞬たじろいだ。


 すぐさま背筋を伸ばし、先ほどまでの芝居がかった調子そのままに深々と頭を下げる。


「このような小物の名まで覚えてくださっていたとは! 感激の至りにございます!」


「なにを申す!」


 ハイネルは豪快に笑い飛ばした。


「お主ほど騒がしい男の名、嫌でも耳に残るわ!」


「は、ははは……それは光栄と受け取ってよろしいのでしょうか!」


「好きに受け取れ!」


 ばん、とルッツの肩を叩く。


「それよりどうだ。一杯付き合わんか!」


「えっ」


「遠慮するな!」


 そう言うや否や、近くを通りかかった給仕から酒杯を一つ取り、半ば強引にルッツへ押しつける。


「さあ、飲め!」


「は、ははっ……! 公爵直々のお誘いとあらば、喜んで!」


 表情こそ笑っているものの、明らかに先ほどまでより勢いがない。

 さすがのルッツも、この豪快な公爵相手では調子を崩されるらしい。


 フィオナが思わず目を瞬いていると──


「……フィオナ」


「……!」


 すぐ耳元へ、小さな声が落ちた。


 スカーレットだ。


 表情は何も変えていない。

 ハイネルとルッツのやり取りを眺めながら、唇だけを僅かに動かす。


「今のうちに、人の少ない場所へ」


「…………」


 一瞬、何を言われたのか分からなかった。


 けれど。

 豪快にルッツを酒宴の輪へ引きずり込んでいくハイネルを見る。


(あ……)


 ようやく気づいた。


(公爵様……助けてくださったんだ)


 ルッツから。


 そして同時に──任務へ戻れるように。


 スカーレットもハイネルも、会場では目立ちすぎる。


 公爵など、歩けば人が集まり。

 スカーレットもまた、先ほどから周囲の視線を浴び続けている。


 自由に動けるのは、誰にも顔を知られていない──自分だけなのだ。


(そうだ。私、何をしてるんだろう)


 ルッツの勢いに押されて、すっかり本来の目的を忘れかけていた。


 フィオナは小さく頷く。


「……はい」


 胸元でそっと手を握る。

 そして、人目を引かぬよう静かにその場を離れた。


「──あっ、フィオナ嬢!」


 一瞬。

 ルッツがその背中に気づく。


「どちらへ──」


「ほれ、ルッツ!」


「うおっ!?」


 間髪入れず、ハイネルが肩を組んだ。


「まだ一口も飲んでおらんではないか!」


「こ、公爵! 少々お待ちを! 今、運命の女性が──」


「運命の女性? そんなもの、星の数ほどおるわい!」


「そ、そいういものでしょうか?」


「がっはっはっは! そうだそうだ! ワシなんかな──」


 背後から聞こえてくる声に、フィオナは少しだけ申し訳なさそうに振り返り──すぐに前を向いた。


(ご、ごめんなさい、ルッツ様……)


 もっとも。


 助けに戻るつもりはなかった。


 ◇ ◇ ◇


「…………ふぅ」


 大広間を離れたフィオナは、長い廊下を抜け。


 やがて、人の姿もまばらな二階のテラスへと辿り着いた。


 大きく開かれた窓から、ひんやりとした風が吹き込んでくる。


「……気持ちいい」


 頬を撫でていく冷たい空気に、思わず目を細めた。


 先ほどまで。


 人、人、人。


 どこへ目を向けても誰かがいて。


 笑い声。

 楽団の演奏。

 グラスの音。

 香水の匂い。


 それらに囲まれていたせいだろう。


 静かな空間へ出た途端、身体から力が抜けていくのを感じた。


 フィオナは手すりへ歩み寄る。


「……わぁ」


 眼下には、夕暮れの王都が広がっていた。


 西の空。

 山の向こうへ沈みかけた太陽が、最後の光を投げかけている。


 鮮やかな橙色。

 その上から少しずつ降りてくる、薄紫の宵闇。

 二つの色が溶け合う境目で、雲の縁だけが金糸のように輝いていた。


 遥か下。

 王都の屋根も夕陽を受けて赤く染まり。

 幾重にも連なる街並みが、まるで柔らかな光の衣を纏っているように見える。


「…………」


 フィオナはしばらく、その景色を眺めていた。


 そして。


「……ふぅ」


 もう一度、大きく息を吐く。


(駄目だな、私……)


 胸元へ手を添える。


(大切なお仕事を任されてるのに、人が多いくらいで疲れちゃうなんて)


 スカーレットは平然としていた。

 ハイネル公爵も。


 先ほどのルッツですら、あの人混みの中を楽しそうに渡り歩いていた。


 それに比べて自分は。


「…………」


 大きく息を吸う。


 ゆっくりと吐く。


 もう一度。


 何度か繰り返しているうちに、早鐘を打っていた心臓も少しずつ落ち着いてきた。


(……よし)


 いつまでも休んではいられない。


 もう少ししたら、会場へ戻ろう。


 そう思った──


 そのときだった。


「あの……」


「……?」


 背後から、柔らかな声が聞こえた。


「大丈夫ですか?」


「え?」


 フィオナが振り返る。


 そこに、一人の少女が立っていた。


「…………」


 まだ幼さの残る、小柄な少女だった。


 白金の髪は肩の辺りで綺麗に切り揃えられ、さらりと風に揺れている。


 身に纏うのは、淡い空色のドレス。

 裾や袖には小さな花の刺繍が散らされていた。


 会場で見てきた貴婦人たちと比べれば、決して派手な装いではない。


 けれど。


 上質な生地。

 丁寧な仕立て。


 そして何より──


 背筋を伸ばして立つ、その姿。


(……綺麗な子)


 思わず、そう思った。


 透き通るような白い肌。

 大きな瞳。

 まだあどけなさの残る顔立ちなのに、不思議と品がある。


 どこか良家の令嬢なのだろうか。


 そんな少女が、心配そうにフィオナを見上げていた。


「あの……ご気分が悪いのでしたら、人を呼んできましょうか?」


「えっ」


 フィオナは慌てて首を振る。


「い、いえ! 大丈夫です!」


「本当ですか?」


「はい。ただ、その……」


 少し恥ずかしくなって、頬を掻く。


「人が多すぎて……ちょっと、人酔いしてしまったみたいで」


「人酔い……」


「す、すみません。こんな場所へ来ておいて、情けないですよね」


 自嘲気味に笑う。


 けれど。


「いいえ」


 少女は、すぐに首を振った。


「私も……あまり人の多いところは得意ではありませんから」


「……そうなんですか?」


「はい」


 少女は小さく笑う。


「だから、私も時々ここへ逃げてくるんです」


「逃げて……」


「……あっ」


 少女が口元を押さえた。


「今のは、内緒にしてください」


「ふふっ」


 思わず笑ってしまった。


「はい。内緒にします」


「ありがとうございます」


 少女も安心したように笑う。


 それから。


 フィオナの隣へ歩み寄ると、同じように手すりの向こうへ目を向けた。


「…………」


「…………」


 二人並んで、夕暮れの王都を眺める。


 風が吹く。


 少女の栗色の髪が、ふわりと頬へかかった。


 それを細い指で耳へ掛ける。


 その何気ない横顔を、フィオナはつい見つめてしまった。


 夕陽を受け。

 白い頬が、淡く朱に染まっている。


 長い睫毛。

 まだ幼さを残した、柔らかな輪郭。


 可憐という言葉が、そのまま形になったような少女だった。


「……綺麗」


「え?」


「──あっ!」


 フィオナの肩が跳ねる。


「い、いえ!」


 慌てて前を向く。


「夕日が! 夕日が綺麗だなって!」


「…………」


 少女が瞬きをする。


 そして。


「ふふっ」


 小さく笑った。


「そうですね」


「…………」


(恥ずかしい……)


 フィオナの頬まで熱くなる。


 そんなフィオナの慌てぶりが面白かったのか、少女は少し楽しそうに笑っていた。


「私」


 やがて。

 少女が再び空へ視線を向けた。


「ここから見る景色が、好きなんです」


「……そうなんですね」


「はい」


 沈みゆく太陽を眺めながら、少女は静かに微笑む。


「お城の中は……少し息が詰まることがありますから」


「…………」


 その言葉に、フィオナは僅かに少女を見た。


 けれど、何故、と聞くことはしなかった。

 誰にだって、話したくないことはある。


「……私も」


「え?」


「ここ、好きになりそうです」


 フィオナが微笑む。


「風も気持ちいいですし……景色も、とっても綺麗ですから」


「…………」


「それに」


 ほんの少し考えて。


「なんだか、落ち着きます」


「……私もです」


 少女が笑う。


 それだけの会話だった。


 名前すら知らない。

 どこの誰なのかも分からない。


 ただ偶然。

 人混みから逃れるように、同じテラスへやって来ただけ。


 それなのに。


「…………」


 フィオナは、不思議に思った。


 つい先ほどまで胸の中を埋めていた緊張が。


 少しずつ。

 本当に少しずつ──解けていく。


 見知らぬ少女と肩を並べ。

 何を話すでもなく。

 ただ同じ夕日を眺めている。


 その静かな時間が、今は妙に心地よかった。

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