第62話 ただ一輪咲いた可憐なる花
「──さて」
しばらく会場の様子を眺めていたスカーレットが、小さく声を落とした。
「まずは依頼主に顔を出しておこう」
「はい」
フィオナを伴い、大広間の奥へと歩を進める。
目指す相手を探す必要はなかった。
広間の一角。
ひときわ大きな人だかりができている場所から、周囲のざわめきにも負けない豪快な笑い声が響いていたからだ。
「がっはっはっは! そうかそうか! そいつは何よりだ!」
その輪の中心にいたのは、一人の壮年の男だった。
背は高く、体格もいい。
立派な口髭を蓄え、目尻には深い笑い皺。
黒を基調とした礼装には金糸の刺繍が施され、胸元にはいくつもの勲章が並んでいる。
身につけているものだけを見れば、間違いなくこの国でも最上位に位置する貴族。
けれど──
「おお、公爵様! 先日はご助言をいただき、ありがとうございました! おかげさまで街道の物流も、ようやく安定いたしました!」
「なに、儂は口を出しただけだ! 実際に動いたのはお主らだろう! 礼なら部下に言ってやれ!」
「公爵様! またお会いできて光栄ですわ。次はぜひ、我が家の夜会にもお越しくださいませ!」
「おう! 旨い酒は出るのか? 考えておこう!」
「まあ! では、とびきりのものをご用意いたしますわ!」
「がっはっは! 楽しみにしておるぞ!」
次々と声をかけてくる人々へ、分け隔てなく言葉を返す。
肩を叩き。
握手を交わし。
時には大声で笑い飛ばす。
その姿は、権謀術数の頂点に立つ大貴族というより──皆から慕われる豪快な親分、といったほうがしっくりくるほどだった。
(あの方が……)
フィオナは思わず足を止めそうになる。
──ハイネル・スタンロード・アウグスト公爵。
王国政治の中枢を担う大貴族にして、民から〝白鷺公〟と慕われる男。
(もっと……怖い方を想像してた)
ジークが〝声のでかい爺さん〟などと呼んでいた理由は、少し分かった気がした。
その周囲には絶えず人が集まっている。
けれど──。
すべての者が、好意的な目を向けているわけではなかった。
『……相変わらずだな、あの老害め』
「…………」
フィオナの耳が、僅かに反応する。
視線は動かさず、声だけを拾う。
人垣から少し離れた場所。
数人の貴族がグラスを手に、公爵を横目で眺めていた。
『民の機嫌ばかり取って、それで何になるというのだ』
『あまつさえ、ろくな家柄でもない者を次々と取り立て、要職に就けているらしい』
『身分というものを何だと思っているのやら』
『もはや耄碌しておるのではないか? いい加減、若い者に席を譲ればよかろうに』
「…………」
表では笑顔を向けられ、裏では罵られる。
羨望と嫉妬。
尊敬と敵意。
先ほどスカーレットから教えられた言葉の意味を、フィオナは改めて思い知る。
(……本当に、ここは〝戦場〟なんだ)
剣も、魔法もない。血も流れない。
それでも。
目に見えない刃が、そこかしこを飛び交っている。
自然と背筋に力が入った。
そのとき──
「──おおっ!」
ひときわ大きな声が響いた。
人垣の中央にいたハイネルが、こちらを見ている。
「スカーレットではないか!」
ぱっと顔を輝かせる。
「久しいな! また一段と美人になりおって!」
その一声で、周囲の視線が一斉に集まった。
「…………っ」
フィオナの肩が僅かに強張る。
だが。
「ご無沙汰しております、公爵様」
スカーレットはまったく動じない。
優雅にドレスの裾を摘まみ、一礼する。
「公爵様もお変わりないようで安心いたしました」
「がっはっは! 儂がそう簡単にくたばるか!」
「ええ。“彼”も同じようなことを申しておりました」
「ほう? “あやつ”が?」
「〝あの声のでかい爺さんは、まだ生きているのか〟と」
「…………」
ハイネルの笑顔が止まった。
「……あの小僧」
再び豪快な笑い声が響く。
「まったく、昔から口の減らん奴だ!」
そう言いながらも、その表情に本気で腹を立てている様子はない。
むしろ、どこか楽しそうにすら見えた。
(やっぱり……公爵とジーク様、親しいんだ)
フィオナがそんなことを考えていると。
「それで──」
ハイネルの視線が、フィオナへ向いた。
「そちらの娘は?」
「…………っ」
真正面から見られ、身体が固まる。
けれど。
一か月間、何度も練習してきたことを思い出す。
背筋を伸ばし。
軽く膝を折り。
視線を伏せる。
その様子を横目で確認しながら、スカーレットが答えた。
「私の連れです。詳しくは、また後ほどご紹介いたします」
「ほう?」
僅かに意味ありげな返答。
だが、公爵はそれ以上踏み込まなかった。
「それより、この度はお声掛けいただき光栄です」
スカーレットは何事もなかったように話を続ける。
「公爵様のお力添えもあり、領地のほうは順調です。街道の物流も、今のところ大きな問題はありません」
「そうかそうか。それは何よりだ」
「ええ。それに──」
ほんの僅か。
スカーレットの声が低くなる。
「先日お話しいただいた件についても、できる限りの準備は整えて参りました」
「……ほう」
ハイネルの目が、ほんの一瞬だけ鋭くなった。
だが。
次の瞬間には、先ほどまでと変わらぬ豪快な笑顔へ戻っている。
「それは助かる!」
ばん、とスカーレットの肩を叩いた。
「何しろ儂も、この通り忙しくてな! 顔を出す先が多すぎて、ろくに身動きも取れん!」
「ええ。存じております」
「では──よろしく頼むぞ」
「承知いたしました」
それだけ。
傍から見れば、ごく普通の領地経営の話。
けれど。
フィオナには分かった。
今の短いやり取りの中で。
──準備はできている。
──予定通り任せる。
二人は、それを確認したのだ。
(すごい……)
周囲には、大勢の人間がいる。
誰が聞き耳を立てているかも分からない。
それなのに。
何ひとつ不自然なところを見せず、本題だけを伝え合っている。
(これが……社交界の会話)
先ほどスカーレットに言われた意味が、少しずつ分かってきた気がした。
一歩下がり。
侍女らしく控えながら、所在なげに周囲へ視線を巡らせる。
煌びやかなシャンデリア。
美しく着飾った人々。
流れる音楽。
飛び交う会話。
まだ、どこか現実感がない。
つい先日まで、屋敷でミオと洗濯物を干していた自分が。今は王宮の大広間にいる。
(……なんだか、夢みたい)
そんなことを思った──
そのときだった。
「──おおぉっ!」
「ひゃっ!?」
突然。
すぐ傍から素っ頓狂な声が響いた。
「なんということだ!」
「……え?」
フィオナが振り返る。
すると。
一人の若い男が、目を見開いたままこちらを凝視していた。
年の頃は、二十代半ばほどだろうか。
濃紺の髪を綺麗に後ろへ撫でつけ。
上質な礼服を身に纏い。
胸元には、妙に立派な羽根飾り。
顔立ちだけを見れば、かなり整っている。
──ただし。
その表情と身振りが、すべてを台無しにしていた。
「まさか、このような場所で出会えるとは!」
ばっ、と両腕を広げる。
「社交界という名の荒野に、ただ一輪咲いた可憐なる花よ!」
「…………」
「今宵、この僕の目は! あなたを見つけるためにあったのですね!」
「…………え?」
フィオナはぽかんとする。
念のため左右を見る。
だが。
自分の近くに、それらしい女性はいない。
「あの……」
恐る恐る自分を指差す。
「私……ですか?」
「もちろんですとも!」
即答だった。
男は胸へ片手を当て、もう片方の腕を大きく横へ広げる。
「あなた以外に誰がいるというのです!」
「え、ええと……」
「申し遅れました!」
こちらが何か言う暇すらない。
「あなたの運命の相手──」
「…………」
「この僕!」
自分の胸を力強く叩く。
「ルッツ・エルベール・ドゥランが、ご挨拶に参りました!」
「う、運命……?」
出会って、まだ十秒も経っていない。
フィオナの頭が追いつかない。
「まずは、どうかお名前を!」
「え……えっと……」
周囲の視線も少し集まり始めている。
何と答えるべきか迷いながら、
「……フィオナ、です」
と、小さく名乗った。
途端。
「フィオナ!」
ルッツが胸を押さえて仰け反った。
「おお……なんという美しい響き!」
「…………」
「まるで春の風が花々を揺らすような!」
「…………?」
「清らかにして可憐! あなたにこれほど相応しい名が、この世に他にあるでしょうか!」
「は、はぁ……」
フィオナは完全に気圧されていた。
「して、どちらのご令嬢でしょう!」
さらに一歩近づいてくる。
「伯爵家? いや、この気品ならば公爵家か!」
「えっ」
「もしや、遠き異国より来訪された姫君!?」
「い、いえ……!」
違う。
何もかも違う。
だが、どう説明したものか分からない。
「その……私は……」
助けを求めるように視線を泳がせる。
すると。
「エルベール伯」
すっと。
フィオナを庇うように、スカーレットが半歩前へ出た。
「おや?」
「彼女は私の連れだ」
苦笑を浮かべる。
「こういった場は初めてでね。あまり困らせないでやってくれ」
「これはこれは!」
ルッツは今さら気づいたかのように、ぱっとスカーレットへ向き直った。
「ローゼンベルク伯!」
そして、大仰な仕草で、深々と一礼。
「しかし〝エルベール伯〟などと他人行儀な! どうぞ親しみを込めて、ルッツとお呼びください!」
「……そうか」
一瞬だけ間があった。
「では、ルッツ殿」
「おお!」
何故か感動している。
スカーレットは何事もなかったように笑みを返した。
「ならば、私のこともスカーレットと呼んでくれて構わない」
「なんと!」
ルッツの顔が一層輝いた。
「かの〝紅薔薇の領主〟スカーレット様と、名で呼び合う仲になれるとは!」
「貴殿が名で呼んでくれというので、合わせただけだが」
「光栄の極み!」
「……そうか」
スカーレットの笑顔が僅かに引きつった。
それでも淑女らしくドレスの裾を摘まみ、優雅に一礼する。
「ご丁寧にありがとう」
「こちらこそ!」
ルッツも満面の笑みを返し──すぐにフィオナへ視線を戻した。
「して!」
「ひゃっ」
「麗しのスカーレット様がお連れになった、この美しい方は!」
「……さっき自分で名前は聞いただろう」
「もちろん覚えておりますとも! フィオナ嬢!」
胸を張る。
「ただ! この運命的な出会いについて、もう少し詳しく知りたいのです!」
「運命的……」
スカーレットはもう訂正を諦めたらしい。
「フィオナは、今日は私の侍女として同席してもらっている」
「侍女!」
ルッツの目がさらに輝いた。
「なるほど、なるほど……!」
何が〝なるほど〟なのか。フィオナにはまったく分からない。
だが。
どうやら彼の中では何かが納得できたらしい。
「フィオナ嬢!」
「は、はい……」
「身分など、真実の愛の前には些末な問題!」
「え?」
「このルッツ・エルベール・ドゥラン──」
びしっ、と胸に拳を当てる。
「今宵、あなたのエスコート役を務める覚悟は、すでに完了しております!」
「…………」
フィオナは目を瞬いた。
そして。
「え、えっと……」
どう返せば正解なのか。
一か月間の礼儀作法の授業にも、こんな場合の対応方法はなかった。
「……ありがとうございます?」
結局。
首を傾げながら、曖昧に笑うしかなかった。




