第61話 言いたい者には言わせておけばいい
「フィオナ」
「……はい?」
窓へ張りつくように王都の景色を眺めていたフィオナへ、スカーレットが声をかけた。
「ゆっくり案内してやりたいのは山々なのだが……今日のところは我慢してくれ」
「あっ……!」
はっと我に返る。
「もうじき王宮だ」
「は、はい!」
慌てて座席へ戻り、背筋をぴんと伸ばす。
つい先ほどまで子供のように輝いていた顔が、一転して緊張に強張った。膝の上では、両手がぎゅっと固く握り合わされている。
そんなフィオナを見て、スカーレットも表情を引き締めた。
「では、最後にもう一度確認しておこう」
「はい」
声音が変わる。
一つの領地を背負う、領主としての声だった。
「今回の依頼主は、ハイネル・スタンロード・アウグスト公爵」
「……はい」
フィオナも小さく頷く。
依頼を受けてからの一か月。
礼儀作法やダンスだけではない。
王都へ赴く以上、最低限は知っておくべきだと、ハイネル公爵についてもルスたちから教わっていた。
──スタンロード公。
スカーレットはもちろん、あのジークでさえ信頼を置く人物。
長年にわたって王国の政を支え、その豪胆な性格と数々の功績から、民には〝白鷺公〟の名で親しまれている。
血筋ではなく実力を重んじ。
獣人への差別にも公然と異を唱え。
奴隷制度の撤廃すら訴える、王国でも有数の実力者。
──だからこそ。
敵も多い。
その影響力を疎ましく思う貴族。
古くからの権益を脅かされる者たち。
さらには王家の中にさえ、快く思っていない者がいるという。
(そんな方を……私が守る)
改めて考えると、喉が僅かに鳴った。
「依頼は二つ」
スカーレットが続ける。
「公の身辺警護。そして──公を失脚させようとしている勢力の特定だ」
「はい」
「私は公から正式に招待を受けている。君は私の随行人という立場で会場へ入る」
フィオナが真剣な面持ちで頷く。
「ただし、会場へ入ったあとは基本的に別行動だ」
「……別行動」
「ああ」
スカーレットの目が鋭さを増す。
「私がどの程度知られているかは分からん。だが、ヴァルト領に隣接する領地の当主だ。今回の件を企てている者が多少なりとも公爵周辺を探っているなら、私のことも警戒している可能性は高い」
自分を指差し、肩をすくめる。
「私も、何も知らない来賓者を演じる必要がある」
「だから……私が」
「そうだ」
スカーレットが頷く。
「君は誰にも顔を知られていない。それが最大の武器になる」
「…………」
「公へ近づく者をよく見ていてくれ。妙な動きをする者。不自然な視線を向ける者。周囲の様子ばかり窺っている者。何か気づいたなら、まず私に知らせてほしい」
「分かりました」
「もちろん、公には正規の護衛もついている。滅多なことはないだろう」
そこで一度、言葉を切る。
「だが──もしもの場合は」
スカーレットが真っ直ぐフィオナを見る。
「まず、自分の身を守れ」
「……え?」
予想していた言葉と違ったのか、フィオナが瞬きをする。
「ジーク殿からの大切な預かりものだ。君に公爵のため命を投げ出してくれなどと頼むつもりはない」
「スカーレット様……」
「自分の安全を確保したうえで、それでも助けられると思った場合のみ──公を守ってくれるとありがたい」
「…………」
その言葉に。
フィオナは胸元へそっと手を添えた。
ドレスの下。
そこには、ジークから持たされた小さな首飾りが隠されている。
万一のための護身具だと聞いていた。
自分に任された役目。
その重さを改めて感じながら──
「……分かりました」
しっかりと答える。
「無茶はしません。でも……私にできることがあれば、必ず」
「ああ」
スカーレットが僅かに微笑んだ。
「それで十分だ」
そして、もう一つ。
「ジーク殿から言われたことも忘れるな」
「……零時、ですね」
「そうだ」
今、フィオナにかけられている魔法。
獣耳と尻尾を、この世界から一時的に隠す術。
その効果は──深夜零時まで。
「宴が長引いたとしても、零時までには必ず会場を出ろ」
「はい」
「途中で何か起きていようが同じだ。術が切れて獣人だと知られれば、余計な騒ぎになる。それでは潜入した意味がなくなるからな」
「心得ています」
「よし」
フィオナの返事に迷いがないことを確認すると、スカーレットは満足そうに頷いた。
そして。
「では──改めて、よろしく頼む」
「はい!」
フィオナも力強く頷いた。
ちょうど、そのときだった。
がたん、と。
馬車が石畳の継ぎ目を踏み、少し大きく揺れる。
「……!」
窓の外へ目を向けたフィオナが、息を呑んだ。
先ほどまで両側に立ち並んでいた建物が途切れ──
その向こうに。
巨大な白壁がそびえていた。
「……王宮」
「ああ」
スカーレットが答える。
高く堅牢な城壁。
その上には王家の紋章を描いた旗がいくつも掲げられ、秋の風を受けて雄大にはためいている。
馬車が大きな正門へ近づく。
槍を持った衛兵。
磨き上げられた甲冑。
門の左右へ並ぶ騎士たち。
来客の馬車だと確認されると、衛兵たちは姿勢を正し、巨大な門がゆっくりと開かれていった。
「…………」
フィオナは無意識に背筋を伸ばす。
門を潜った先には、綺麗に刈り揃えられた植木が続き、左右対称に造られた並木道が、遥か先まで真っ直ぐ延びている。
色鮮やかな花壇。
白い彫像。
噴水。
そして、その最奥。
「わぁ……」
思わず小さな声が漏れた。
生誕祭の会場となる離宮が、その威容を現した。
白亜の壁。
高く伸びる尖塔。
幾重にも張り出したバルコニー。
巨大な窓には色とりどりのステンドグラスが嵌め込まれ、夕陽を受けて宝石のような光を散らしている。
日暮れにはまだ少し早いというのに、窓辺や柱にはすでに無数の灯りがともされていた。
「…………」
王都を見たときでさえ圧倒された。
けれど、これはまた別だった。
まるで。
物語の中でしか存在しないはずの城が、目の前に現れたようだった。
やがて馬車が止まる。
扉が開き──
「着いたぞ」
「……はい」
一度だけ深く息を吸う。
そしてフィオナは、スカーレットに続いて馬車を降りた。
「…………っ」
周囲には次々と豪奢な馬車が到着している。
そこから降り立つのは、美しいドレスに身を包んだ貴婦人たち。
勲章を胸に輝かせる軍人。
仕立ての良い礼服を纏った紳士。
首元にも。
指にも。
髪にも。
当たり前のように宝石が輝いている。
誰も彼もが美しく着飾り。
互いに優雅な笑みを交わしながら、離宮へと歩いていく。
(すごい……)
立ち止まりそうになる。
(まるで……絵本の中みたい)
今の自分だって、普段とは比べものにならないほど立派なドレスを着ている。
それなのに。
この場所では、自分だけがひどく場違いな存在のように思えてしまった。
「…………」
無意識に肩が縮こまりかけた、そのとき。
「フィオナ」
「は、はい!」
「胸を張れ」
前を歩いていたスカーレットが振り返る。
「今のキミなら、少なくとも見た目で気後れすることは無い」
「…………!」
「大丈夫だ」
そう言って微笑む。
「私の後をついてくればいい」
「……はい」
フィオナは小さく息を吐いた。
そして。
一歩。
背筋を伸ばして前へ踏み出す。
その前を歩くスカーレットは、まるでこの場所こそ自分の庭だと言わんばかりに堂々としていた。
纏うのは黒と真紅のドレス。
まとめ上げられた赤髪。
真っ直ぐ前を見据え、一切歩調を乱さない。
まだ若い女性だというのに。
何十年も領主を務めてきた者たちに囲まれてなお、その存在感はまったく霞まなかった。
「…………」
通り過ぎざま。
何人かの貴族が、スカーレットへ目を向ける。
そして。
互いに何かを囁き合っている。
(スカーレット様……やっぱり凄い)
その視線を浴びながらも。
彼女は一切、気にする素振りさえ見せない。
受付で手荷物を預け。
招待状を確認され。
やがて二人は、大広間へ続く巨大な扉の前へ辿り着いた。
『ロックベルト侯爵、御到着──!』
係の男が、よく通る声を張り上げる。
扉が開かれ。
老紳士とその夫人が優雅に中へ入っていった。
『スーザルク辺境伯ご夫妻、御到着──!』
また一組。
次々と名が告げられていく。
「…………」
フィオナの喉が鳴った。
この向こうだ。
王国中の有力者が集まる場所。
そして──
今日、自分が戦う場所。
「次」
とうとう順番が来た。
スカーレットが一歩前へ出る。
封蝋の押された招待状を差し出すと、係の男が恭しく受け取り、素早く目を通した。
「…………」
僅かに目を見開く。
そしてスカーレットの顔を確認すると、深く頭を下げた。
背後に控える扉番へ合図が送られる。
「スカーレット・ローゼンベルク・ラオーネ伯爵──御到着!」
朗々とした声が響き渡った。
同時に。
巨大な扉が、左右へゆっくりと開かれていく。
「……!」
その隙間から。
光が溢れた。
楽団の演奏。
人々の笑い声。
食器の触れ合う音。
香水と料理の匂い。
そして、目も眩むほどの煌めき。
扉が完全に開く。
「…………わぁ」
フィオナは思わず息を漏らした。
天井は、見上げるほど高い。
そこから無数の巨大なシャンデリアが吊り下げられ、数えきれない蝋燭の灯りが広間を照らしている。
壁を彩る黄金の装飾。
磨き上げられた大理石の床。
巨大な柱。
そして。
広間を埋め尽くす、人、人、人。
赤。
青。
白。
金。
様々な色のドレスが咲き乱れ。
華やかな礼服の男たちが、その間を縫うように歩いている。
笑顔。
宝石。
酒。
音楽。
煌びやかな世界が、フィオナの視界いっぱいに広がっていた。
(すごい……)
王都を見たときと同じ。
いや。
それ以上だった。
(本当に……絵本の中みたい)
思わず見惚れる。
だが──
『……ローゼンベルク?』
「…………?」
微かな声が、耳に届いた。
『ああ。あの辺境の領主だ』
『例の〝魔王〟が住み着いた領地だろう?』
フィオナの表情が止まる。
声は遠い。
普通の人間なら、楽団の演奏や談笑にかき消されていただろう。
しかし。
姿を消していても──フィオナの耳は、獣人のままだ。その聴覚は、ざわめきの中の僅かな囁きでも聴き分けることができる。
『聞いた話では、領民もあの男の奴隷同然らしい』
『気の毒なものだな』
『しかも領主は、まだ年若い娘だとか』
『そんな小娘に、あの化け物を抑えられるものか』
『まあ、こちらへ火の粉さえ飛んでこなければいい。辺境で大人しくしていてくれればな』
「…………っ」
胸の奥で何かが、かっと熱くなった。
(何、それ……)
違う。
何ひとつ、合っていない。
ジークは誰かを奴隷になどしていない。
それどころか。
町の人々は笑っていた。
市場では誰もが気さくに声をかけ合い。
困った者がいれば、当たり前のように手を差し伸べてくれる。
そしてスカーレットは。
その町を守るために。
誰より働いている。
(何も知らないくせに……!)
ぎゅっ。
知らず知らずのうちに、拳を握りしめた。
一歩。
声のしたほうへ踏み出しかけ──
「フィオナ」
「……!」
そっと手を取られた。
スカーレットだった。
その笑みは崩れていない。
周囲から見れば、ただ従者へ何か言葉をかけているようにしか見えないだろう。
「キミがそんな顔をするということは……ジーク殿の悪口でも言われたか」
フィオナは唇を噛む。
「はい……。それに、スカーレット様もです」
「そうか」
声を抑えながらも、怒りが滲む。
「全部デタラメです。ジーク様は誰も奴隷扱いなんかしていません。スカーレット様だって、皆さんに慕われる立派な領主様で……」
「そんな真剣な顔で褒められると、流石に照れるな」
「…………」
あまりにも落ち着いた返事だった。
スカーレットは前を向いたまま、小さく笑う。
「なに。言いたい者には言わせておけばいい」
「でも……悔しくないんですか?」
「悔しくないと言えば嘘になるさ」
声は穏やかだった。
「だが」
ほんの一瞬。
紅玉の瞳が鋭く細められる。
「訂正して回ったところで、得はない」
「…………」
「むしろ、ああしてこちらを侮ってくれているほうが何かと都合がいい」
「都合が……?」
「ああ」
スカーレットが、ちらりとフィオナを見る。
「覚えておけ」
笑顔のまま、静かに告げた。
「ここは、会話と情報の戦場だ」
「…………!」
「相手が何を知っているか。何を知らないか。自分をどう見ているか。それすら、すべてが使える」
フィオナは息を呑む。
「腹が立ったからと感情のまま動けば、その瞬間に隙を晒すことになる」
「……はい」
「それに」
スカーレットの声音が、少しだけ柔らかくなる。
「今日ここへ来た目的は、私たちの名誉を守るためではないだろう?」
「…………」
はっとした。
そうだ。
自分は何のためにここへ来たのか。
「……スタンロード公爵をお守りするため」
「そうだ」
スカーレットが満足そうに頷いた。
「ならば、つまらん雑音に耳を取られるな」
「…………はい」
フィオナは一度、ゆっくり息を吐いた。
まだ腹は立つ。
胸の奥には、熱いものが残っている。
けれど、握りしめていた手を、ゆっくりと開いた。
「申し訳ありません」
「謝る必要はない」
スカーレットが笑う。
「自分の居場所を馬鹿にされて腹が立つ。それは悪いことではないさ」
「……!」
フィオナが目を見開く。
「ただし」
スカーレットは、にやりと笑った。
「それでも。腹を立てたまま笑えるようになれば、社交界では一人前だ」
「……難しそうです」
「はは。私も未だ修行中だよ」
「スカーレット様でもですか?」
「当然だ」
二人は小さく笑い合った。
その間にも。
『ベリオット侯爵、御到着──!』
背後では新たな名が高らかに読み上げられる。
また一組。
また一組と。
王国各地の貴族たちが大広間へ入ってくる。
楽団の演奏はさらに華やかさを増す。
グラスを掲げる音。
上品な笑い声。
幾重にも交わされる挨拶。
宴の熱気が、少しずつ広間を満たしていく。
「…………」
フィオナは改めて、その光景を見渡した。
煌びやかで、美しく、まるで夢の中のような場所。
けれど。
もう先ほどと同じ目では見られなかった。
笑顔の裏で、誰かが誰かを値踏みし。
言葉の裏で、別の思惑が動いている。
(……ここが)
フィオナは小さく息を吸う。
(〝会話と情報の戦場〟……)
そして。
華やかな宴の幕が──静かに上がった。




