第60話 スカーレット様は、ジーク様と随分仲がよろしいのですね
馬車の中には、フィオナとスカーレットの二人きり。
車輪が石を踏むたびに、かたん、かたんと小さな揺れが伝わってくる。
窓辺のカーテンも、それに合わせるように静かに揺れていた。
「…………」
「…………」
向かい合う二人の間に、しばし沈黙が続く。
フィオナは膝の上で両手を重ね、時折、落ち着かなさそうにドレスの裾を摘まんでいた。
(な、何かお話ししたほうがいいのかな……)
屋敷では、ロッテやルス、それにミオがいる。
皆で会話をしているぶんには、スカーレットとも普通に話せるようになった。
けれど──こうして二人きりとなると、話は別だった。
(でも、何を……?)
相手は領主。
しかも、これから大切な任務へ向かうところだ。
変なことを口走って、呆れられでもしたらどうしよう。
そんなことを考えれば考えるほど、何も言えなくなる。
静かな車内では、自分の呼吸さえやけに大きく聞こえる気がした。
すると。
「……すまないな」
「え?」
不意に、スカーレットが口を開いた。
「昔から、世間話というものがあまり得意ではなくてな」
少し困ったように笑う。
「二人きりだというのに、退屈させてしまったか?」
「い、いえ!」
フィオナは慌てて首を振った。
「とんでもありません! 私のほうこそ、何をお話ししたらいいのか分からなくて……!」
「はは。ならばお互い様だな」
スカーレットが朗らかに笑う。
それだけで、張り詰めていた空気が少し柔らかくなった。
「そうだな……」
何か話題を探すように窓の外へ目を向けてから、スカーレットはふと思い出したように尋ねた。
「町での暮らしには、もう慣れたか?」
「町……ですか?」
「ああ。あそこでは獣人だからといって露骨に差別する者は、まずいないはずだが」
「あ……はい!」
フィオナの表情が、ぱっと明るくなる。
「皆さん、本当に良くしてくださってます。市場へ行けばいつも声をかけてくださいますし、皆さん大変良くしてくださって……」
「それは、フィオナの人柄もあるのではないか?」
「そ、そんなことは……!」
照れながら首を振る。
「でも……ロッテさんやミオと一緒にお買い物へ行くの、すごく楽しいんです」
「そうか」
スカーレットは柔らかく目を細めた。
「それなら良かった」
「…………」
フィオナも笑い返す。
そして。
自分でも何故だか分からないまま、ぽつりと言葉を零した。
「……最初は、少し怖かったんです」
「ん?」
「町へ行くのが」
膝の上に置いた手へ視線を落とす。
「知らない人がたくさんいる場所へ行ったら……また嫌な顔をされるんじゃないかって」
獣人だから。
奴隷だから。
それだけで蔑まれた記憶は、そう簡単に消えてはくれない。
「皆さんが優しくしてくださっても、最初の頃は……いつか態度が変わるんじゃないかって、どこかで思っていて」
けれど。
「そんなこと、全然ありませんでした」
フィオナの表情が、ふわりと和らぐ。
「市場のおじさんも、食堂のおばさんも。町の子供たちも。……ずっと変わらず、私たちに優しくしてくれて」
一度、言葉を切る。
「今では……あの町が、自分の居場所なんだって思えるんです」
「…………」
言ってから、少し恥ずかしくなった。
「……す、すみません。急にこんな話を」
「何故謝る?」
スカーレットは首を傾げた。
「良い話ではないか」
「……そう、でしょうか」
「ああ」
力強く頷く。
「領主にとって、自分の治める土地を〝居場所〟と言ってもらえることほど嬉しいことはないさ」
「…………!」
フィオナが目を瞬く。
「ありがとうございます」
スカーレットは、静かに笑った。
今度はフィオナのほうが、何も言えなくなる。
ただ、胸の奥が少し温かかった。
それから再び、短い沈黙が訪れた。
けれど。
先ほどまでのような気まずいものではない。
フィオナは窓の外へ目を向けたり、向かいのスカーレットをちらりと見たりしながら──
ふと。
気づけば、ずっと胸の片隅に引っかかっていたことを口にしていた。
「……スカーレット様は」
「ん?」
「ジーク様と……随分、仲がよろしいのですね」
「…………」
言った瞬間。
(──な、何を聞いてるの、私!?)
フィオナは心の中で悲鳴を上げた。
「あっ、いえ! 違うんです!」
慌てて両手を振る。
「変な意味ではなくて! ただ、その……ジーク様が、屋敷の皆さん以外の方とあんなふうにお話しされているところを、ほとんど見たことがなかったので……!」
「ほう」
「ですから、その……珍しいなぁ、と……」
しどろもどろになりながら言い訳を重ねる。
頬はもう、隠しようもないほど赤くなっていた。
「…………」
スカーレットはそんなフィオナを、しばらく静かに眺めた。
やがて。
「そうだな」
何かを察したように、僅かに口元を緩める。
「付き合い自体は長い」
「そうなんですね……」
「ああ。とはいえ、地位も立場も持っている力も、私とジーク殿では何もかも違うがな」
「でも……とても気が合っているように見えました」
「ふむ」
スカーレットは腕を組み、少し考える。
「性分が似ているのかもしれんな」
「性分……ですか?」
「ああ」
窓の外へ視線を移す。
「私は回りくどいことが嫌いだ。あいつもそうだろう?」
「……確かに」
フィオナは思わず苦笑した。
「他人がどう思うかより、自分が正しいと思ったことを優先する。地位や肩書きをさほど気にしないところも似ている」
「なるほど……」
「まあ、私はあそこまで無愛想ではないつもりだが」
「ふふっ」
今度は自然に笑みが零れた。
けれど。
笑いながらも、フィオナの胸の奥には、先ほどから小さなざわめきが残っている。
美しく。強く。
領主としても立派で。
そして何より、ジークと気兼ねなく笑い合える。
そんなスカーレットを見ていると──
「…………」
膝の上で、いつの間にか両手をぎゅっと握りしめていた。
その仕草を、スカーレットは見逃さなかった。
「まあ──」
わざと何でもないことのように、言葉を続ける。
「とはいえ。仕事の上で信頼できる仲間、というだけだよ」
「……え?」
「時々こうして顔を出して、茶を飲みながら話をする。それだけの間柄だ」
「そ、そうなのですか……」
「ああ」
「…………」
ふぅ。
フィオナの口から、小さな息が漏れた。
本人は気づいていないのだろう。
明らかに安堵した、その吐息。
もし今も耳と尻尾が見えていたなら──きっと分かりやすいほど嬉しそうに動いていたに違いない。
スカーレットは思わず頬を緩めた。
「……もっとも」
「はい?」
少し意地悪な気持ちが湧いたのかもしれない。
「今のところは、だがな」
「…………っ!」
ぴしり。
フィオナの身体が固まった。
「…………」
「…………」
数秒。
「はははっ!」
堪えきれず、スカーレットが吹き出した。
「すまない、冗談だ」
「ス、スカーレット様……!」
フィオナが真っ赤になって抗議する。
「そんな顔をするとは思わなくてな」
「そ、そんな顔って……!」
「いやいや」
まだ楽しそうに笑いながら、スカーレットは首を振る。
そして。
ほんの少しだけ、声音を柔らかくした。
「心配することはない」
「……え?」
「フィオナは、フィオナのままでいればいいさ」
「…………」
何のことを言われているのか。
聞き返そうとして──できなかった。
スカーレットの眼差しが、あまりにも優しかったからだ。
「……はい」
結局。
フィオナは少し戸惑いながら、小さく頷くしかなかった。
そんな彼女を見て、スカーレットは満足そうに笑う。
ジーク本人は、おそらくまだ何も分かっていない。
けれど。
フィオナを見るあの男の目が、他人へ向けるものとは僅かに違うことくらい──長い付き合いのスカーレットには、とっくに気づかれていた。
◇ ◇ ◇
それからは。
ジークとスカーレットが知り合った頃の話。
今年の葡萄の出来。
酒がどのように各地へ運ばれ、王都まで届くのか。
町で起きたちょっとした出来事。
最初の沈黙が嘘だったかのように、二人の間には少しずつ会話が増えていった。
そして──
「あ……」
フィオナが窓の外へ目を向ける。
景色が、いつの間にか大きく変わっていた。
つい先ほどまで広がっていた葡萄畑や牧草地は、もう見えない。
代わりに道幅は広くなり、舗装された石畳の上を何台もの馬車が行き交っている。
荷を山ほど積んだ商人の馬車。
紋章を掲げた貴族の客車。
徒歩で行き交う旅人たち。
街道の両脇には宿や商店が立ち並び、あちらこちらから威勢のいい声が飛び交っていた。
「す、すごい人……」
フィオナは窓へ少し顔を寄せる。
進めば進むほど、その数は増えていく。
そして。
「……!」
やがて前方に現れたものを見て、息を呑んだ。
巨大な城壁。
見上げても、その上端が遠い。
白灰色の石を幾重にも積み上げて築かれた壁が、遥か左右まで延びている。
その上では色鮮やかな旗が風を受け、大きく翻っていた。
「わぁ……」
壁の中央には、巨大な城門。
何台もの馬車が並んで通れるほどの幅があり、そこから絶え間なく人と物が出入りしている。
門兵の号令。
馬の嘶き。
商人たちの呼び声。
車輪が石畳を打つ音。
それらすべてが入り混じり、まるで町そのものが巨大な生き物のように息づいていた。
「そろそろだな」
スカーレットが窓の外を見る。
そして、少し誇らしげに笑った。
「フィオナ」
「はい?」
「よく見ておくといい」
馬車がゆっくりと城門を潜る。
一瞬。
巨大な壁によって陽射しが遮られ──
再び明るい光が車内へ差し込んだ。
「ここが──」
スカーレットが告げる。
「レガーレイ王国の王都、〝アルトラウム〟だ」
「…………!」
その瞬間。
フィオナの視界いっぱいに──王都の街並みが広がった。
「わぁ……っ!」
思わず。
子供のような声が零れた。
広い。
とにかく、広い。
真っ直ぐ先まで延びる大通り。
その両側には、三階、四階と高さのある建物が隙間なく軒を連ねている。
色とりどりの看板。
軒先へ並べられた商品。
道行く人々の服装も、これまでフィオナが見てきた町とは比べものにならないほど様々だった。
仕立てのいい服を纏う商人。
鎧姿の騎士。
大きな荷物を担いだ旅人。
華やかなドレスに身を包んだ貴婦人。
そして彼方には──幾重もの屋根を越えた先に、白く巨大な王城の尖塔まで見えている。
「…………」
フィオナは窓へ張りつくようにして、そのすべてを目で追った。
鎖に繋がれていた頃。
世界とは、狭く、冷たく、恐ろしいものだった。
初めて自由になり。
自分の足で町を歩いた日。
店を眺め、食べ物を選び、人と笑って言葉を交わせることが嬉しくて──それだけで涙が出そうになった。
けれど。
今、目の前に広がっている世界は。
さらに、その遥か先にあった。
「すごい……」
それしか、言葉が出ない。
馬車が進むたび、新しい景色が次々と現れる。
右を見ても。
左を見ても。
知らないものばかり。
「…………」
いつの間にか。
つい先ほどまで生誕祭を前に緊張していたことさえ、忘れていた。
フィオナの瞳はただ純粋な驚きと好奇心に満ちて、きらきらと輝いていた。




