第59話 踊りに誘うなら、私とフィオナ、どちらだ?
──それから、さらに数日。
ついに。
第二王女の生誕祭、その当日がやって来た。
「フィオナちゃん、大丈夫? どこか苦しいところはない?」
「は、はい。大丈夫です」
屋敷の一室。
大きな姿見の前に立つフィオナの周りを、ロッテが忙しなく動き回っていた。
ドレスの裾を整え。
腰回りを確かめ。
最後に胸元へ手を添えて、僅かな皺を伸ばす。
「どう? きつくない?」
「むしろ……」
フィオナは少しだけ身体を捻った。
「胸のところが、少し緩いような……」
「あら?」
ロッテが首を傾げる。
そして胸元を確認すると、
「あらまぁ。詰め物が少なかったかしら」
「…………っ」
フィオナの頬が、ぴくりと引きつった。
「ごめんね。もう少し足して──」
「だ、大丈夫です!」
勢いよく首を振る。
「これくらいなら全然! 問題ありません!」
「でも、動いたときにずれたら──」
「大丈夫ですっ!」
「……そう?」
「はい!」
何故か断固として譲らない。
フィオナにも、乙女としての意地というものがあるらしい。
ロッテは一瞬きょとんとしていたが、やがて何かを察したように、
「……分かったわ」
優しい笑顔で頷いた。
そんなやり取りをしていた、そのとき。
「お姉ちゃーん!」
廊下の向こうから、ぱたぱたと軽い足音が近づいてくる。
勢いよく扉が開き、
「スカーレットおねぇちゃん、きたよ!」
ミオが満面の笑みで飛び込んできた。
「えっ、もう!?」
「うん! おっきい馬車!」
フィオナが慌てて窓へ目を向ける。
ちょうど屋敷の前へ、一台の馬車が滑り込んでくるところだった。
艶やかな漆黒の車体。
縁取りには金の装飾が施され、揺れる飾り紐のひとつまで隙なく整えられている。
村で見る荷馬車とは比べるべくもない。
見るからに高貴な者のために仕立てられた客車だった。
御者が馬を止める。
従者が扉を開き──
中から、一人の女性が姿を現した。
「…………」
玄関先で待っていたルスが、僅かに目を細めた。
黒を基調としたドレス。
そこへ散らされた真紅の刺繍が、動くたび炎のように揺れる。
燃えるような赤髪は普段とは違って美しくまとめ上げられ、白い首筋を露わにしていた。
耳元には小さな紅玉。
凛とした顔立ちと相まって、その姿はまるで一枚の絵画のようだった。
「ほほ……」
ルスが感嘆の息を漏らす。
「さすがですね、スカーレット様」
「何がだ?」
「いえ。大変お美しい」
「はは。ルス殿にそう言っていただけるなら、時間をかけた甲斐もあったな」
スカーレットが機嫌よく笑う。
かつて王宮で数多の貴婦人を目にしてきたルスですら、素直に称賛するほどだった。
そして──
「お待たせしました……!」
支度を終えたフィオナも、ロッテとミオに連れられて姿を現す。
「…………!」
スカーレットが目を見開いた。
淡い若草色のドレス。
先日試着したときよりも細部まで丁寧に整えられ、髪には小さな白い花飾りが添えられている。
薄く化粧を施された頬は柔らかく色づき、その姿は、もう普段屋敷で働いているメイドには見えなかった。
「おお……!」
「ど、どうでしょうか……?」
フィオナは恥ずかしそうにドレスの裾を摘まむ。
「見事だ!」
スカーレットが即答する。
「これなら何の心配もない。どこから見ても立派な令嬢だぞ」
「そ、そうですか?」
「ああ。胸を張るといい」
「は、はい!」
そう言われて背筋を伸ばすものの──
隣へ立ったスカーレットを見ると、すぐに自信が揺らいでしまう。
(やっぱり……スカーレット様、綺麗……)
堂々とした立ち姿。
洗練された所作。
同じドレス姿でも、自分とはまるで違う。
(私なんかが、本当に一緒に行って大丈夫なのかな……)
そんな不安が胸を過ぎる。
その一方で。
「…………」
ジークはといえば。
いつも通りだった。
眠そうな目を擦りながら、玄関脇に立って紅茶を啜っている。
「…………」
スカーレットが、その姿を見る。
次に、自分を見る。
それからフィオナを見た。
「……おやおや」
口元に、何やら面白そうな笑みが浮かぶ。
「これほどの美女を二人も前にして、その反応とはな」
「何の話だ」
「いやなに」
カツ、カツ、と。
スカーレットがヒールを鳴らしながらジークへ歩み寄る。
途中でフィオナの手を取ると、そのまま自分の隣へ並ばせた。
「え? ス、スカーレット様?」
そして──
「ジーク殿」
「なんだ」
「仮に、今から舞踏会へ行くとしてだ」
にやりと笑う。
「踊りに誘うなら、私とフィオナ。どちらを選ぶ?」
「──っ!?」
フィオナの身体が硬直した。
「ちょ、ちょっとスカーレット様!?」
「ただの仮定の話だ」
「そ、そういう問題では……!」
慌てて笑って取り繕う。
けれど。
胸の内は、それどころではなかった。
(えっ、えっ……!?)
どくん。
心臓が、大きく跳ねる。
(そ、そんなの。どうせスカーレット様に決まって──)
分かっている。
軽い冗談だ。
分かっているはずなのに。
ジークが答えるまでの僅かな沈黙が、妙に長く感じられた。
「…………」
ジークはスカーレットを見る。
フィオナを見る。
そして。
少し考え込んだあと──
「……ミオ」
「ん?」
突然呼ばれたミオが、ぱっと顔を上げる。
「お前、踊れるか?」
「うん!」
元気いっぱいに頷いた。
「とくい!」
「そうか」
ジークはミオへ手を差し出す。
「じゃあ、ミオで」
「わーい!」
「…………」
「…………」
フィオナとスカーレットが固まる。
満面の笑みでジークの手を握るミオ。
「…………ほう」
スカーレットの目が細くなった。
次の瞬間。
ドンッ!
鋭く振り下ろされたヒールが、ジークの足を狙った。
だが。
「危ないだろ」
ひょい。
ジークは何事もなかったように足を引く。
ヒールはそのまま地面へ突き刺さった。
──ずぼっ。
「…………え?」
フィオナの視線が地面へ落ちる。
石混じりの固い地面に、ヒールの形をした穴が深々と穿たれていた。
「…………」
(い、今の……当たってたら……)
ぞわり。
背筋が寒くなる。
「ふん」
スカーレットは何食わぬ顔で足を引き抜いた。
「冗談の通じん男だ」
「どっちがだ」
ジークは呆れたように溜息を吐く。
「さて」
そして。
先ほどまでの軽いやり取りが嘘のように、表情を切り替えた。
「遊びはこれくらいにしておくか」
「…………?」
フィオナが首を傾げる。
ジークはそのまま屋敷へ戻ると、広間の中央まで歩いていき──
「フィオナ」
「はい?」
「そこに立て」
床を指差した。
「え? ここですか?」
「ああ」
何をするのか分からないまま、フィオナは言われた場所へ立つ。
ジークも向かいへ立った。
「動くなよ」
「は、はい」
いつになく真剣な声だった。
「…………ふぅ」
ジークが、一度深く息を吐く。
その瞬間。
空気が変わった。
「……!」
フィオナの肌が粟立つ。
足元に淡い光が走り、幾重もの複雑な紋様を描いていく。
線。
円。
ルーン文字。
そのどれもが絡み合いながら、巨大な魔法陣を形作った。
「わぁ……」
ミオが目を輝かせ、すぐ傍へしゃがみ込む。
「なんのまほー?」
ジークは答えない。
ゆっくりと右手を掲げ──
『秩序と混沌を繋ぐ鎖──』
低い詠唱が響く。
瞬間。
透明な光がフィオナの身体を包み込んだ。
「ひゃっ……!」
思わず身を捩る。
「フィオナさん。そのまま」
ルスの落ち着いた声が飛ぶ。
「動かないようにと、ジーク様が」
「は、はい……!」
必死に身体を静止させる。
『真実と虚構はかくも曖昧にして──浮世は白昼夢の如しかな』
光が濃くなる。
足元の魔法陣が回転を始めた。
フィオナの髪が、風もないのにふわりと浮かび上がる。
「…………」
スカーレットも。
ルスも。
いつの間にか、真剣な顔でそれを見守っていた。
『理よ』
ジークが目を細める。
『黄昏に揺れるその静寂の中で──微睡み、僅かに夢を見よ』
刹那。
ぱんっ──!
光が弾けた。
無数の粒子となって、宙へ溶けていく。
「…………」
静寂。
そして。
「……?」
フィオナはゆっくりと目を開いた。
周囲には、見慣れた屋敷の広間。
身体にも痛みはない。
服もそのまま。
「……あの」
自分の腕を見回す。
「今のは、一体……?」
特に何も変わっていない。
そう思ったのだが──
「…………」
何故か。
ルスも。
ロッテも。
スカーレットでさえ。
目を見開いてフィオナを見つめている。
「え……?」
不安になっていると。
「お、お姉ちゃん……」
ミオが、恐る恐る指を伸ばした。
「みみ……」
「耳?」
「ないよ」
「…………え?」
反射的に頭へ手を伸ばす。
「…………!」
ない。
いつもならそこにあるはずの、柔らかな獣耳が──見当たらない。
「えっ!?」
今度は腰の後ろへ手を回す。
「し、尻尾もない!?」
フィオナは真っ青になった。
「な、なくなった!? 私の尻尾が!?」
「落ち着け」
「でもっ!」
「無くなったわけじゃない」
「え……?」
「動かしてみろ」
言われるがまま、恐る恐る尻尾を振る。
「…………」
感覚は、ある。
確かに尻尾は動いている。
頭の上へ意識を向ければ、耳もいつも通り動かせた。
「あり……ます……?」
「ああ」
ジークが頷く。
フィオナは慌てて姿見へ駆け寄った。
「…………!」
鏡の中に映っているのは。
獣耳も。
尻尾もない。
どこからどう見ても、ごく普通の人間の少女だった。
「す、すごい……」
自分の頭を何度も触る。
確かに感覚はあるのに、耳には触れられない。
「幻影……なのですか?」
ルスが問いかける。
「いや」
ジークは、どこか得意げに口元を上げた。
「そんな単純なものじゃない」
「ほう?」
スカーレットが興味深そうに身を乗り出す。
「普通の幻影なら、見た目を誤魔化すだけだ」
ジークはフィオナの尻尾があるはずの空間を指す。
「それでは混み合った会場で誰かに踏まれるかもしれんし、踊っている最中にぶつければ一発で正体が露見する」
「確かに」
「だから耳と尾だけ、位相をひとつずらした」
「…………位相?」
フィオナには、もう何を言っているのか分からない。
「世界は、見えている一枚だけで出来ているわけじゃない」
ジークは珍しく饒舌だった。
「重なって存在している隣接位相へ、耳と尾だけを一時的に退避させてある。今この世界からは見えんし、触れることもできん」
スカーレットが試しに、尻尾のあるはずの場所へ手を伸ばす。
すっ。
何の抵抗もなく、手が通り抜けた。
「おおっ!?」
何度か手を往復させる。
「本当にないぞ!」
「だから言っただろ」
「しかしフィオナ本人には感覚があるのだな?」
「ああ。神経情報だけはこちら側と繋いである」
「…………」
スカーレットの表情が固まった。
ルスも僅かに眉を寄せる。
「それは……随分と高度な術では?」
「当然だ」
ジークは何故か少し嬉しそうだった。
「動き回る対象に合わせ、二つの位相間で位置座標を常時同期させる必要がある。僅かでも演算を誤れば空間そのものに歪みが生じるからな。それを防ぐために──」
そこまで聞いていたミオが。
「ジークさま」
「なんだ」
こてん、と首を傾げる。
「じくーのいそーをずらすのって……」
「…………」
「まえに、しっぱいすると、せかいがって──」
「ミオ」
ジークが素早くその口を塞いだ。
「むぐっ」
「余計なことを言うな」
「…………」
沈黙。
ルスの目が、すっと細くなる。
「ジーク様」
「なんだ」
「今、非常に聞き捨てならない言葉が──」
「気のせいだ」
「しかし」
「気のせいだ」
「…………」
ジークが強引に押し切った。
フィオナは鏡の前で青ざめる。
「え……これ、本当に大丈夫なんですか?」
「無論だ」
「今、世界がどうとか……」
「ミオの聞き間違いだ」
「ジーク様、ミオの口、塞ぎましたよね!?」
「…………」
「どうして目を逸らすんですか!?」
スカーレットが腹を抱えて笑い出した。
「ははははっ! 相変わらず、とんでもないことをする男だな!」
「笑い事ではありませんよ!」
フィオナが泣きそうな声を上げる。
ジークは面倒そうに頭を掻いた。
「……とにかく」
強引に話を戻す。
「あの爺さん自身は獣人だからとどうこう言う奴ではないが、今日集まるのは王都の貴族どもだ」
表情が僅かに険しくなる。
「中には、獣人を露骨に嫌う連中もいる。それに今回のお前の役目は目立たず周囲を探ることだろう」
「……はい」
「獣人のままでは、目立ちすぎる」
ルスも静かに頷いた。
「スタンロード公爵は、以前から獣人差別に反対し、奴隷制度の撤廃を訴えておられます。それゆえ獣人を伴っていても公爵自身は気になさらないでしょうが……周囲はそうとは限りません」
「だから今日だけは人間として紛れ込め」
ジークがフィオナを見る。
「もっとも」
少しだけ眉を寄せる。
「この術は俺でも維持が面倒だ」
「ジーク様でも……?」
「ああ」
珍しい言葉に、フィオナが目を丸くする。
「効果は今日の深夜零時まで。それを越えれば自動的に解除される」
「零時……」
「夜通し宴が続いたとしても、それまでには必ず事を片付けろ」
先ほどまでの軽さが消える。
ジークの目が、真っ直ぐフィオナへ向けられた。
「無理はするな」
「…………」
その一言に。
フィオナの胸が、僅かに温かくなる。
「……はい」
胸の前で、ぎゅっと両手を握る。
「必ず戻ってきます」
「ああ」
ジークは短く頷いた。
それから。
ルスから小さな革鞄を受け取る。
中には招待状。
簡単な護身用具。
王女殿下への手土産。
そして万が一の際に使用する、いくつかの魔道具。
一つずつ確認し、フィオナは革鞄を閉じた。
「よし!」
スカーレットが、それまでの重い空気を吹き飛ばすように両手を叩く。
「これで準備は整ったな」
そして玄関へ向かいながら、振り返った。
「それでは行こう、フィオナ!」
「はい!」
外には、黒塗りの馬車が待っている。
ロッテ。
ルス。
ミオ。
そしてジーク。
皆に見送られながら、フィオナは馬車へ向かう。
扉の前で一度だけ振り返った。
「お姉ちゃん、いってらっしゃーい!」
ミオが両手を大きく振っている。
「気をつけてね、フィオナちゃん!」
「どうかお気をつけて」
「はい!」
そして。
最後にジークを見る。
「…………」
ジークはいつものように、ただそこに立っていた。
目が合う。
「……行ってきます、ジーク様」
「ああ」
一拍置いて。
「行ってこい」
「……はい!」
フィオナは笑って頷いた。
馬車へ乗り込む。
扉が閉まり、車輪がゆっくりと回り始めた。
緊張。
不安。
それでも、それ以上に──胸の奥には小さな期待があった。
つい数か月前まで。
自分は、明日生きていられるのかさえ分からない奴隷だった。
それが今。
王女の生誕祭へ向かい。
誰かを守るために、王都へ行こうとしている。
(……大丈夫)
フィオナは膝の上で、そっと拳を握った。
(私にできることを、しよう)
馬車は葡萄畑の間を抜け──
王都へ向かって、走り出した。




