↓ ↑ページトップへ
表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
PR
56/57

第56話 それだけのはず、なのに

「失礼。ジーク殿はおいでか」


 扉の向こうから、凛とした女の声が響いた。


 低く、よく通る声。

 けれど決して威圧的ではない。


 自然と耳を傾けたくなるような、不思議な威厳を帯びていた。


「ようこそ、スカーレット様」


 ルスが玄関の扉を開き、恭しく一礼する。


「お久しぶりですね」


 ロッテもキッチンから顔を出し、笑顔で頭を下げた。


 そして──


 扉の向こうに立つ人物を目にした瞬間。


「…………」


 フィオナは、思わず息を呑んだ。


 腰まで届く鮮やかな赤髪が、風を受けてさらりと揺れる。

 陽の光を受けるたび、まるで磨き上げられた宝石のような輝きを放っていた。


 白磁を思わせる滑らかな肌。

 すらりと伸びた手足。

 その身を包む深紅の外套。


 背筋を真っ直ぐに伸ばして立つ姿には、誰かに誇示する必要などないほどの気品がある。


 まるで──〝領主〟という言葉を、そのまま人の姿にしたかのようだった。


(……なんて、綺麗な人……)


 フィオナは目を奪われた。


 美しいだけではない。


 強く、堂々としていて。

 それでいて、どこか温かい。


 尊敬とも、憧れともつかない感情が胸の奥に湧き上がり、しばらく見惚れることしかできなかった。


「ルス殿、ロッテ殿。息災なようで何よりだ」


 スカーレットは二人の顔を見回し、朗らかに笑う。


「しばらく王都へ出向いていたのでな。こちらへ顔を出すのは……半年ぶりほどになるか」


「ええ。そのくらいかと」


「そうか。随分と空いてしまったな」


 懐かしそうに屋敷を見回していたスカーレットだったが──


「……おや?」


 その視線が、フィオナのところで止まった。


「…………っ」


 まっすぐ向けられた瞳に、フィオナの背筋が反射的に伸びる。


 責めるような眼差しではない。

 ただ、あまりにも真っ直ぐだったのだ。


「見ない顔だな。メイドを雇ったのか?」


「ええ。ジーク様がお雇いになりまして」


 ルスが答えた途端。


「……ジーク殿が?」


 スカーレットの目が、大きく見開かれた。


「はい」


「…………あのジーク殿が?」


「ええ。あのジーク様が、です」


 念を押すように尋ねるスカーレットに、ルスが微笑みながら頷く。


「それは……驚いたな」


 顎へ手を添え、何やら真剣に考え込む。


 どうやらフィオナがいることよりも、ジークが自ら人を雇ったことのほうが余程衝撃的だったらしい。


「……おい。聞こえてるぞ。俺を何だと思ってる」


 屋敷の奥から、不機嫌そうな声が飛んできた。


「ははは、すまない」


 スカーレットは愉快そうに笑う。


 それから、はたとフィオナへ向き直った。


「おっと。私としたことが、先に名乗るべきだったな」


 そう言って歩み寄ってくると、先ほどまでの威厳ある表情をふっと和らげた。


「スカーレット・ローゼンベルク・ラオーネだ。隣の領地を預かっている。よろしく頼む」


 そして、ごく自然に右手を差し出す。


「──っ!」


 フィオナの肩が跳ねた。


「フ、フィオナと申します!」


 慌てて頭を下げ──


 その勢いのまま、床へ膝をつく。


「お、お目にかかれて光栄です、領主様……!」


 差し出された手を両手で恭しく包み込み、深々と頭を垂れた。


「…………」


 スカーレットが瞬きをする。


「おいおい」


 やがて、困ったように笑った。


「そこまで畏まらなくてもいい。立ってくれ」


「で、ですが……」


「皆と同じように〝スカーレット〟と呼んでくれて構わない」


「そ、そのような! 領主様に対して、とても……!」


 ぶんぶんと首を振るフィオナ。


 そんな彼女をどう説得したものかと、スカーレットが苦笑した──そのときだった。


 ばたんっ!


「スカーレットおねぇちゃん!」


 玄関の扉が勢いよく開いた。


 外で遊んでいたらしいミオが、ぴょこんと顔を覗かせる。


 そして、これ以上ないほど真剣な顔で告げた。


「お馬さん、うんちした」


「…………」


 フィオナが固まった。


「ミオ!?」


 領主様に向かって、なんという報告を。


 血の気を失う姉をよそに──


「はははっ!」


 スカーレットは声を上げて笑った。


「それは大変だな!」


「うん。おっきいの」


「そうかそうか。では御者に教えてやってくれ。すぐに片づけてもらおう」


「わかった!」


 元気いっぱいに手を挙げると、ミオは再び外へ飛び出していった。


 ぱたぱたと遠ざかっていく足音。


「ミ、ミオ……!」


 フィオナは真っ青になって妹の背中を見送る。


 そして、すぐさまスカーレットへ向き直った。


「も、申し訳ありません! 妹が、とんだご無礼を……!」


「なに、構わないさ」


 スカーレットは愉快そうに笑っている。


「彼女とは、先ほどもう友人になったからな」


「……友人?」


「ああ」


 さも当然のように頷く。


「私がジーク殿の友人だと教えたらな。〝ジークさまのお友達なら、ミオのお友達〟なのだそうだ」


「…………」


 フィオナは言葉を失った。


 なんともミオらしい理屈である。


「私も友人はそう多くないからな。一人増えて嬉しい限りだ」


 そう言って、スカーレットは楽しそうに笑う。


 その笑顔を見て──フィオナはようやく少しだけ肩の力を抜いた。


(……優しい方なんだ)


 領主という肩書きから想像していた人物とは、まるで違う。


 偉ぶることもなく。

 自分のような者にも手を差し出し。

 ミオの無邪気な言葉を、心から楽しそうに受け止めてくれる。


 きっと、この人は領民から慕われているのだろう。


 そう思うのに、大した理由など必要なかった。


「……ありがとうございます、スカーレット様」


 フィオナが小さく笑い返す。


「ああ。こちらこそよろしくたのむ、フィオナ」


 その言葉に、胸の奥に残っていた緊張も、ようやく少しだけ解けた。


 ちょうどそのとき──


「──で」


 屋敷の奥から、声が響いた。


「何の用だ」


 ジークがのそのそと姿を見せる。


 一応、先ほどとは服を着替えている。


 ただし──寝癖は直っていない。


「久しぶりだな、ジーク殿」


「ああ」


 スカーレットが笑みを向けると、ジークも軽く手を上げた。


「変わりないようで何よりだ」


「そっちこそ。王都はどうだった?」


「なに、いつも通りさ。貴族どもが数字を眺めながら、ああでもないこうでもないと騒いでいた」


「相変わらずだな」


「まったくだ」


 スカーレットは肩をすくめる。


「……ああ、そうだ。今年の酒の流通について、少し面白い話があったぞ」


 そう言って、懐から丸めた紙束を取り出した。


「ほら」


「来て早々仕事の話か」


 面倒そうな顔をしながらも、ジークは自然と歩み寄る。


 紙束を受け取ると、その場で広げて目を通し始めた。


「お前は本当に仕事熱心だな」


「熱心というより、性分だろうな」


 スカーレットは苦笑する。


「抜かりなく用意しておかないと落ち着かないのだ」


「変わらんな」


「お互い様だろう?」


「俺のどこがだ」


「そういうところだ」


 スカーレットが吹き出す。


「…………ふっ」


 ジークも、わずかに口元を緩めた。


 そんな二人を、フィオナは少し離れたところから見つめていた。


 肩肘を張ったところなど、まるでない。


 領主同士というより──気心の知れた古い友人。


 互いのことをよく知っているからこその、遠慮のない空気だった。


「ほらほら、お二人とも」


 ロッテが呆れ半分に声をかける。


「立ち話もなんですから、お席についてくださいな。せっかくお茶を淹れたんですから」


「ああ、すまない」


 スカーレットが素直に頷く。


「フィオナちゃん、お茶をお願い」


「──あ、はい!」


 我に返ったフィオナは、慌てて盆を持ち上げた。


 二人がテーブルにつく。


 ルスもその傍らに立ち、やがて王都の話や今年の収穫、酒の出来について会話が始まった。


 時に真面目に。

 時に笑いながら。


 まるで、それがずっと以前から繰り返されてきた〝いつもの光景〟であるかのように。


(ジーク様……楽しそう)


 ティーカップを並べながら、フィオナはそっとジークを見る。


 誰かとこんなふうに笑い合う姿は、あまり見たことがない。


 もちろん、ミオや自分たちといるときにも笑う。


 けれど──それとは少し違った。


 気兼ねなく言葉を交わし。

 互いの考えていることが分かっているように笑う。


 長い時間を共に過ごしてきた者同士だけが持つ、そんな親しさ。


(……よかった)


 素直に、そう思った。


 ジークにもこんなに親しい友人がいる。


 しかもスカーレットは、美しく、聡明で、誰に対しても優しい。


 きっと誰から見ても、お似合いの──


「…………」


 そこで。


 フィオナの手が、ほんの一瞬止まった。


(……あれ?)


 胸の奥に、何かが引っかかった。


 ほんの小さなもの。


 針の先ほどの、ちくりとした違和感。


(ジーク様に、こんなに親しいご友人がいて……安心しただけ)


 そう。


 そのはずだ。


 なのに。


 楽しそうに笑い合う二人を見ていると、なぜか胸の奥が落ち着かない。


(……どうして?)


 理由は、分からない。


 分からないまま──フィオナはその小さな棘を胸の奥へ押し込み、何事もなかったように笑みを浮かべた。

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。