第56話 それだけのはず、なのに
「失礼。ジーク殿はおいでか」
扉の向こうから、凛とした女の声が響いた。
低く、よく通る声。
けれど決して威圧的ではない。
自然と耳を傾けたくなるような、不思議な威厳を帯びていた。
「ようこそ、スカーレット様」
ルスが玄関の扉を開き、恭しく一礼する。
「お久しぶりですね」
ロッテもキッチンから顔を出し、笑顔で頭を下げた。
そして──
扉の向こうに立つ人物を目にした瞬間。
「…………」
フィオナは、思わず息を呑んだ。
腰まで届く鮮やかな赤髪が、風を受けてさらりと揺れる。
陽の光を受けるたび、まるで磨き上げられた宝石のような輝きを放っていた。
白磁を思わせる滑らかな肌。
すらりと伸びた手足。
その身を包む深紅の外套。
背筋を真っ直ぐに伸ばして立つ姿には、誰かに誇示する必要などないほどの気品がある。
まるで──〝領主〟という言葉を、そのまま人の姿にしたかのようだった。
(……なんて、綺麗な人……)
フィオナは目を奪われた。
美しいだけではない。
強く、堂々としていて。
それでいて、どこか温かい。
尊敬とも、憧れともつかない感情が胸の奥に湧き上がり、しばらく見惚れることしかできなかった。
「ルス殿、ロッテ殿。息災なようで何よりだ」
スカーレットは二人の顔を見回し、朗らかに笑う。
「しばらく王都へ出向いていたのでな。こちらへ顔を出すのは……半年ぶりほどになるか」
「ええ。そのくらいかと」
「そうか。随分と空いてしまったな」
懐かしそうに屋敷を見回していたスカーレットだったが──
「……おや?」
その視線が、フィオナのところで止まった。
「…………っ」
まっすぐ向けられた瞳に、フィオナの背筋が反射的に伸びる。
責めるような眼差しではない。
ただ、あまりにも真っ直ぐだったのだ。
「見ない顔だな。メイドを雇ったのか?」
「ええ。ジーク様がお雇いになりまして」
ルスが答えた途端。
「……ジーク殿が?」
スカーレットの目が、大きく見開かれた。
「はい」
「…………あのジーク殿が?」
「ええ。あのジーク様が、です」
念を押すように尋ねるスカーレットに、ルスが微笑みながら頷く。
「それは……驚いたな」
顎へ手を添え、何やら真剣に考え込む。
どうやらフィオナがいることよりも、ジークが自ら人を雇ったことのほうが余程衝撃的だったらしい。
「……おい。聞こえてるぞ。俺を何だと思ってる」
屋敷の奥から、不機嫌そうな声が飛んできた。
「ははは、すまない」
スカーレットは愉快そうに笑う。
それから、はたとフィオナへ向き直った。
「おっと。私としたことが、先に名乗るべきだったな」
そう言って歩み寄ってくると、先ほどまでの威厳ある表情をふっと和らげた。
「スカーレット・ローゼンベルク・ラオーネだ。隣の領地を預かっている。よろしく頼む」
そして、ごく自然に右手を差し出す。
「──っ!」
フィオナの肩が跳ねた。
「フ、フィオナと申します!」
慌てて頭を下げ──
その勢いのまま、床へ膝をつく。
「お、お目にかかれて光栄です、領主様……!」
差し出された手を両手で恭しく包み込み、深々と頭を垂れた。
「…………」
スカーレットが瞬きをする。
「おいおい」
やがて、困ったように笑った。
「そこまで畏まらなくてもいい。立ってくれ」
「で、ですが……」
「皆と同じように〝スカーレット〟と呼んでくれて構わない」
「そ、そのような! 領主様に対して、とても……!」
ぶんぶんと首を振るフィオナ。
そんな彼女をどう説得したものかと、スカーレットが苦笑した──そのときだった。
ばたんっ!
「スカーレットおねぇちゃん!」
玄関の扉が勢いよく開いた。
外で遊んでいたらしいミオが、ぴょこんと顔を覗かせる。
そして、これ以上ないほど真剣な顔で告げた。
「お馬さん、うんちした」
「…………」
フィオナが固まった。
「ミオ!?」
領主様に向かって、なんという報告を。
血の気を失う姉をよそに──
「はははっ!」
スカーレットは声を上げて笑った。
「それは大変だな!」
「うん。おっきいの」
「そうかそうか。では御者に教えてやってくれ。すぐに片づけてもらおう」
「わかった!」
元気いっぱいに手を挙げると、ミオは再び外へ飛び出していった。
ぱたぱたと遠ざかっていく足音。
「ミ、ミオ……!」
フィオナは真っ青になって妹の背中を見送る。
そして、すぐさまスカーレットへ向き直った。
「も、申し訳ありません! 妹が、とんだご無礼を……!」
「なに、構わないさ」
スカーレットは愉快そうに笑っている。
「彼女とは、先ほどもう友人になったからな」
「……友人?」
「ああ」
さも当然のように頷く。
「私がジーク殿の友人だと教えたらな。〝ジークさまのお友達なら、ミオのお友達〟なのだそうだ」
「…………」
フィオナは言葉を失った。
なんともミオらしい理屈である。
「私も友人はそう多くないからな。一人増えて嬉しい限りだ」
そう言って、スカーレットは楽しそうに笑う。
その笑顔を見て──フィオナはようやく少しだけ肩の力を抜いた。
(……優しい方なんだ)
領主という肩書きから想像していた人物とは、まるで違う。
偉ぶることもなく。
自分のような者にも手を差し出し。
ミオの無邪気な言葉を、心から楽しそうに受け止めてくれる。
きっと、この人は領民から慕われているのだろう。
そう思うのに、大した理由など必要なかった。
「……ありがとうございます、スカーレット様」
フィオナが小さく笑い返す。
「ああ。こちらこそよろしくたのむ、フィオナ」
その言葉に、胸の奥に残っていた緊張も、ようやく少しだけ解けた。
ちょうどそのとき──
「──で」
屋敷の奥から、声が響いた。
「何の用だ」
ジークがのそのそと姿を見せる。
一応、先ほどとは服を着替えている。
ただし──寝癖は直っていない。
「久しぶりだな、ジーク殿」
「ああ」
スカーレットが笑みを向けると、ジークも軽く手を上げた。
「変わりないようで何よりだ」
「そっちこそ。王都はどうだった?」
「なに、いつも通りさ。貴族どもが数字を眺めながら、ああでもないこうでもないと騒いでいた」
「相変わらずだな」
「まったくだ」
スカーレットは肩をすくめる。
「……ああ、そうだ。今年の酒の流通について、少し面白い話があったぞ」
そう言って、懐から丸めた紙束を取り出した。
「ほら」
「来て早々仕事の話か」
面倒そうな顔をしながらも、ジークは自然と歩み寄る。
紙束を受け取ると、その場で広げて目を通し始めた。
「お前は本当に仕事熱心だな」
「熱心というより、性分だろうな」
スカーレットは苦笑する。
「抜かりなく用意しておかないと落ち着かないのだ」
「変わらんな」
「お互い様だろう?」
「俺のどこがだ」
「そういうところだ」
スカーレットが吹き出す。
「…………ふっ」
ジークも、わずかに口元を緩めた。
そんな二人を、フィオナは少し離れたところから見つめていた。
肩肘を張ったところなど、まるでない。
領主同士というより──気心の知れた古い友人。
互いのことをよく知っているからこその、遠慮のない空気だった。
「ほらほら、お二人とも」
ロッテが呆れ半分に声をかける。
「立ち話もなんですから、お席についてくださいな。せっかくお茶を淹れたんですから」
「ああ、すまない」
スカーレットが素直に頷く。
「フィオナちゃん、お茶をお願い」
「──あ、はい!」
我に返ったフィオナは、慌てて盆を持ち上げた。
二人がテーブルにつく。
ルスもその傍らに立ち、やがて王都の話や今年の収穫、酒の出来について会話が始まった。
時に真面目に。
時に笑いながら。
まるで、それがずっと以前から繰り返されてきた〝いつもの光景〟であるかのように。
(ジーク様……楽しそう)
ティーカップを並べながら、フィオナはそっとジークを見る。
誰かとこんなふうに笑い合う姿は、あまり見たことがない。
もちろん、ミオや自分たちといるときにも笑う。
けれど──それとは少し違った。
気兼ねなく言葉を交わし。
互いの考えていることが分かっているように笑う。
長い時間を共に過ごしてきた者同士だけが持つ、そんな親しさ。
(……よかった)
素直に、そう思った。
ジークにもこんなに親しい友人がいる。
しかもスカーレットは、美しく、聡明で、誰に対しても優しい。
きっと誰から見ても、お似合いの──
「…………」
そこで。
フィオナの手が、ほんの一瞬止まった。
(……あれ?)
胸の奥に、何かが引っかかった。
ほんの小さなもの。
針の先ほどの、ちくりとした違和感。
(ジーク様に、こんなに親しいご友人がいて……安心しただけ)
そう。
そのはずだ。
なのに。
楽しそうに笑い合う二人を見ていると、なぜか胸の奥が落ち着かない。
(……どうして?)
理由は、分からない。
分からないまま──フィオナはその小さな棘を胸の奥へ押し込み、何事もなかったように笑みを浮かべた。




