第55話 あのジーク様のご友人よ
夏の盛りも過ぎ、ぶどう畑にはたわわに実った房が陽の光を浴びていた。
淡い緑だった実は少しずつ紫へと色づきはじめ、吹き抜ける風にも、どこか秋の気配が混じりはじめている。
屋敷の裏手から漂ってくるのは、熟れはじめた果実の甘やかな香り。
開け放たれた窓を抜け、それはキッチンの中まで柔らかく流れ込んでいた。
そんな穏やかな昼下がり。
フィオナは袖を捲り、流し台の前で洗い物に精を出していた。
窓から差し込む柔らかな陽射し。
清潔な石鹸の匂い。
食器の触れ合う、かちゃりという小さな音。
何でもない、いつもの日常。
けれど──かつての彼女にとって、それは夢に見ることすら許されなかったものだった。
温かな食事があって。
安心して眠れる場所があって。
傍には、自分たちを人として扱ってくれる人たちがいる。
(……幸せ、ってきっとこんな事なんだ)
そんなことを胸の奥でそっと噛みしめながら、フィオナは泡立つ水の中へ指を沈める。
そのときだった。
「……?」
頭の上の獣耳が、ぴくりと動く。
微かに届いた音を拾おうとするように、耳がもう一度揺れた。
遠くから聞こえてくる、車輪の音。
けれど──いつものそれとは、少し違う。
「……お客様、でしょうか?」
ぽつりと零した声に、同じくキッチンにいたロッテが手を止めた。
「あら?」
エプロンの端で手を拭いながら、首を傾げる。
「さすがね、フィオナちゃんの耳。私にはまだ何も聞こえないわ」
そう言って窓の外へ目を向ける。
「来客の予定はなかったと思うけれど……町の人がお野菜でも持ってきてくれたのかしら」
だが、フィオナは耳を澄ませたまま、ゆっくりと首を振った。
「いえ……荷馬車ではないと思います」
「そうなの?」
「はい。もっと……静かで、重たい音です。たぶん、客車かと」
村でよく耳にする荷馬車とは違う。
ぎしぎしと木材を軋ませながら進む、生活のための車ではない。
車輪は滑らかに回り、蹄の音も揃っている。
ひどく上等な馬車なのだろう。
「うちに、客車?」
ロッテがぱちぱちと瞬きをする。
そして何かに気づいたように、ぽん、と手を叩いた。
「あらまぁ。となると──」
「──まったく、あいつは」
その言葉を遮るように、書斎の方から低い声が飛んできた。
「来るなら事前に連絡しろと、何度言えば分かるんだ」
振り返れば、廊下の向こうにジークが立っている。
もう昼をとうに過ぎているというのに、髪にはまだ少し寝癖が残っていた。
面倒そうに頭を掻き、そのまま乱暴に髪を撫でつける姿は──まあ、いつも通りである。
「ジーク様。そう仰らずに」
その後ろから現れたルスが、くすりと笑った。
こちらは対照的に、今日も執事服には皺ひとつない。
「数少ないお客様なのですから、もう少し歓迎なさってはいかがです?」
「頼んでもいないのに来る奴を客と呼ぶのか?」
「少なくとも、ご友人ではあるでしょう」
「…………ふん」
心底嫌そうに答えるジークをよそに、ルスは涼しい顔でキッチンへ視線を向けた。
「スカーレット様ですね。ロッテさん、お茶の準備をお願いします」
「ええ、すぐに」
ロッテは慣れた様子で食器棚へ向かう。
いくつか並んだティーセットの中から白磁のものを選び取ると、鼻歌混じりに準備を始めた。
フィオナも慌てて手を拭き、その隣へ並ぶ。
思えば、この屋敷へ来てから──村人以外の〝お客様〟を迎えるのは初めてだった。
「あの……スカーレット様って、確か……」
おそるおそる尋ねると、ロッテが振り返った。
「ええ。隣村の領主様よ。フィオナちゃんはお会いするの、初めてだったわね」
「領主……様……」
その言葉を口にした瞬間。
フィオナの指先が、ほんの僅かに強張った。
──領主。
その肩書きは、彼女にとって決して身近なものではない。
いや。
むしろ、ずっと恐ろしいものだった。
人の暮らしを左右し。
命令ひとつで、誰かの人生さえ変えてしまう。
まして、奴隷だった自分たちにとっては──決して逆らってはいけない、雲の上の存在。
同じ屋敷の中で顔を合わせることさえ想像できなかったような相手と、これから茶を囲むというのだ。
「そんなに緊張しなくても大丈夫よ」
強張ったフィオナの表情を見て、ロッテが柔らかく笑った。
「スカーレット様は、とっても優しい方だから」
「……本当ですか?」
「ええ。それに──」
ロッテはちらりとジークを見る。
そして、少しだけ悪戯っぽく口元を緩めた。
「なんたって、あのジーク様のお友達よ?」
「おい。どういう意味だ」
「さあ? どういう意味でしょうね」
ロッテは楽しそうに笑いながら、何事もなかったように茶葉を取り出した。
フィオナも思わず苦笑する。
けれど──胸の奥に残る緊張が、すべて消えたわけではない。
そっと胸元へ手を添え、小さく息を吐いた。
その直後。
屋敷の外で、馬車がゆっくりと停まる音がした。
蹄が石畳を叩く。
従者らしき男の短い掛け声。
そして、少しの静寂を挟んで──
コン、コン、コン。
来訪を告げる重いノックの音が、屋敷の中へ響き渡った。




