第54話 もう怒っていませんよ
「……かれこれ十日になりますが、ジーク様とミオ、大丈夫でしょうか」
フィオナは洗いたてのシーツを丁寧に畳みながら、窓の外へ目を向けた。
ここぞとばかりに始めた屋敷の大掃除も、もう粗方終わっている。窓の向こうには抜けるような青空が広がり、葡萄畑の葉が夏の日差しを浴びて、風のたびに濃い緑を揺らしていた。
これ以上ないほど穏やかな昼下がり。
それなのに、フィオナの胸の内だけは一向に晴れない。
「ジーク様がついておいでですから。心配はいらないでしょう」
近くの机で書類に目を通していたルスは、筆を止めることもなく答えた。その口調には、本当に何ひとつ心配していないような落ち着きがある。
だが。
「ジーク様が一緒だから、余計に心配なんですよ」
ロッテが苦笑しながら、今朝届いた新聞をルスの机へ置いた。
「…………」
紙面の一面には、やたらと大きな活字が躍っている。
『帝都上空に謎の巨影──“精霊災害、再び!?” 王国への影響は?』
その下には、夜空が赤黒く染まり、帝都全域に避難命令が出されたことまで事細かに書かれていた。
「…………」
ルスの筆が止まった。
一瞬だけ記事へ目を落とす。
それから、何事もなかったかのように視線を手元の書類へ戻した。
「……ははは」
乾いた笑いが漏れる。
「帝都が滅んでいなければ良いですけど」
「…………」
ロッテがじっとりと覗き込む。
ルスが露骨に視線を逸らした、その時だった。
「──あっ!」
フィオナの獣耳が、ぴくりと動く。
何かを聞き取ったように窓の外へ顔を向けると、ぱっと表情を明るくした。
「噂をすれば、みたいですよ!」
畳みかけのシーツを置き、ぱたぱたと玄関へ駆けていく。
「おや」
「帰ってきましたか」
ルスとロッテも顔を見合わせ、その後を追った。
◇ ◇ ◇
屋敷の外へ出ると、遠くの道から一台の乗合馬車が近づいてくるところだった。
車輪が乾いた土を踏み、薄い砂埃を巻き上げながら、ゆっくりと葡萄畑の間を進んでくる。
そして。
「──おねーちゃーん!」
「……!」
馬車の上から、元気いっぱいの声が飛んできた。
銀色の髪を風になびかせながら、小さな少女が身を乗り出して手を振っている。
「ミオ!」
フィオナも思わず笑顔になった。
袖を少しまくり、大きく手を振り返す。
「おかえりなさーい!」
「ただいまー!」
まだ馬車が完全に止まってもいないうちから、ミオはそわそわと腰を浮かせている。
「ミオ、危ないわよ!」
「だいじょーぶ!」
「止まってから立つの!」
「はーい!」
返事だけは素直だ…
やがて馬車が屋敷の前でゆっくりと停止する。
その瞬間。
「おねーちゃん!」
ミオは真っ先に荷台から飛び降りた。
地面を蹴り、そのまま一直線にフィオナへ飛び込んでくる。
「ただいまっ!」
「おかえりなさい、ミオ」
フィオナは勢いごと受け止め、小さな身体をぎゅっと抱きしめた。
「もう……十日も帰ってこないから、心配したのよ」
「ごめんなさい」
「怪我は?」
「ない!」
「ちゃんとご飯は食べてた?」
「いっぱい食べた!」
「帝都を滅ぼそうとしたりは?」
「…………」
「ミオ?」
赤い瞳が、すっと逸れた。
「……してない」
「何、今の間!?」
「おい」
馬車の反対側から降りてきたジークが、静かに口を挟む。
「何もしてないと言ってるだろ」
「ジーク様! 何をしたんですか!?」
「俺は何もしていない」
少なくとも、その点だけは本当だった。
たぶん。
その間にジークは御者へ運賃を渡し、荷台からいくつかの荷物を下ろしていく。
「世話になったな」
「いやいや、こっちこそ助かったよ」
御者は受け取った硬貨を懐へしまい、豪快に笑った。
「あんたらが一緒なら盗賊も魔物も怖くない。護衛を雇う金が丸々浮いたんだ。むしろ運賃をもらっていいのかってくらいだよ」
「そうか」
「また機会があったら乗ってくれ」
「ああ」
軽く手を上げる御者へ会釈し、ジークは荷物を抱えた。
「いかがでしたか、久々の遠出は」
ルスがそのうちの一つを受け取りながら尋ねる。
「たまには悪くない」
ジークは少し考えてから、フィオナに抱きついたままのミオを見る。
「こいつにも、いい経験にはなっただろう」
「うん!」
ミオが大きく頷いた。
「ぼうけん、した!」
「ほう」
ルスが興味深そうに頷く。
「お宝も見つけた!」
「それは何よりです」
「ソアラとも仲間になった!」
「……ソアラ?」
聞き慣れない名前に、ルスが首を傾げた。
すると。
「あ、あの……」
馬車の荷台から、おずおずと一人の女性が顔を覗かせた。
「…………」
続いて、その後ろから小柄な少女も降りてくる。
二人とも初めて見る景色が珍しいのだろう。広大な葡萄畑と、その向こうに続く丘陵を興味深そうに見回していた。
「おや」
ルスが二人を見る。
「そちらの方々は?」
「ああ」
ジークは何でもないことのように答えた。
「一緒に冒険した仲間だ。ソアラと、その妹のリーシャ」
「仲間……」
その言葉を聞いたルスが、一瞬だけ目を丸くする。
それから。
ほんの少し、嬉しそうに笑った。
「左様でしたか」
ルスはすぐに二人へ向き直り、丁寧に一礼する。
「私は使用人のルスと申します。このたびはジーク様とミオが、大変お世話になりました」
「い、いやいやいや!」
ソアラが慌てて両手を振った。
「お世話になったのは完全に私たちの方です! 本当に! むしろ、こっちが色々やらかしたというか……!」
「姉が本当にお世話になりました!」
リーシャまで勢いよく頭を下げる。
「あの、私達、ジーク様が高名なお方とは知らず、その、色々とご無礼を」
何やら慌てている姉妹を、ルスは少し不思議そうに眺めていた。
やがてリーシャが何かを思い出したように、
「あっ」
と声を上げる。
「ミオちゃん、これ……」
荷台から、布に包まれた荷物を慎重に抱え上げる。
「あっ!」
ミオも同時に声を上げた。
「わすれてた!」
「忘れてたんですか!?」
リーシャから荷物を受け取ると、ぱたぱたとルスの前へ駆けていく。
「ルス!」
「はい?」
「おみやげ」
「私にですか?」
「うん!」
ずい、と差し出す。
ルスは少し意外そうな顔をしながら受け取り、丁寧に布を解いた。
「これは……」
中から現れたのは、一鉢の盆栽だった。
決して大きなものではない。
だが、細い幹は緩やかに曲線を描き、小ぶりの枝葉が見事な均衡で広がっている。若木らしい瑞々しさを残しながらも、きちんと人の手で育てられてきたことが一目で分かる品だった。
ルスの目が、僅かに見開かれる。
「……これは見事な枝ぶりですね」
「ほんと?」
「ええ」
思わず、といった様子で鉢を持ち上げ、角度を変えて眺める。
「若木ながら幹の締まりも良い。枝の流れも自然ですし、芽吹きも綺麗に揃っている」
「あ、あの……」
リーシャが遠慮がちに手を上げた。
「それ、私が育てたんです」
「あなたが?」
「はい。独学なんですけど……」
少し恥ずかしそうに頬を赤らめる。
「ミオちゃんたちに何かお礼がしたくて。でも、私に渡せそうなものなんてあまりなくて……。そしたらミオちゃんが、それがいいって」
「なるほど」
ルスはもう一度盆栽へ目を落とし、今度は穏やかに微笑んだ。
「よほど丁寧に世話をなさったのでしょう。大したものです」
「ほ、本当ですか!?」
「ええ。大切に育てさせていただきます」
リーシャの顔がぱっと明るくなる。
その瞬間。
「──ルス!」
「はい?」
どんっ、と。
今度はミオがルスの胸へ飛び込んだ。
「ごめんなさい!」
「…………」
突然のことに、ルスが瞬きをする。
それから。
腕の中でぎゅっと服を掴んでいるミオを見下ろし、苦笑した。
「……ええ。もう怒っていませんよ」
その頭を優しく撫でる。
「私の方こそ、少々大人気ないことをしました」
「ほんと?」
「本当です」
「もう、お外いけって言わない?」
「今後、物置小屋を吹き飛ばさなければ」
「……がんばる」
「そこは『約束する』と言っていただきたいのですが」
ルスのため息に、周囲から小さな笑いが漏れた。
そんな二人を横目に、ジークが思い出したように口を開く。
「ルス」
「はい」
「あとでスカーレットに手紙をしたためてくれ」
「スカーレット様に?」
「ああ」
ジークはソアラとリーシャへ目を向ける。
「町にある空き家を一軒。それと、二人の仕事も何か斡旋してやってほしい」
「…………え?」
ソアラが驚いたようにジークを見る。
「ソアラは冒険者としての経験がある。腕も、まあ最低限は使える」
「最低限って……!」
「自警団か、ハンター辺りなら仕事はあるだろう」
「承知致しました」
ルスはすぐに頷いた。
「どちらも人手不足ですからね。スカーレット様へ話を通せば、むしろ歓迎されるでしょう」
「リーシャは……」
「私も働けます!」
本人が勢いよく手を上げた。
「家事もできますし、お花とか植物のお世話もできます!」
その言葉に、ルスが手元の盆栽を見る。
「でしたら、そちらも含めて探してみましょう。リーシャさんの腕なら、町の花屋から農家まで、引く手数多と思いますよ」
「ありがとうございます!」
リーシャが嬉しそうに頭を下げた。
その隣で。
「…………」
ソアラはしばらく何も言わなかった。
この土地へ来るまでにも、ジークから話は聞いていた。
住む場所くらいは何とかしてやる、と。
仕事も探せばいい、と。
けれど。
本当に、こんなにも当たり前のことのように話が進んでいくとは思っていなかった。
「……ジスさん」
「もうジークでいい」
「あ……」
ソアラは少しだけ笑った。
「……ジークさん」
「ああ」
「何から何まで、本当に……ありがとう」
深々と頭を下げる。
ジークはそれを見て、僅かに肩をすくめた。
「別に構わん。葡萄の収穫期になったら手伝いに来い。それで十分だ」
「…………」
ソアラは一瞬ぽかんとして。
やがて、今度こそ心から笑った。
「うん。任せて」
「ああ」
それだけ言うと、ジークは荷物を抱えたまま屋敷の門をくぐっていく。
「では、いつまでも外で立ち話というのも何ですし」
ロッテがぱん、と軽く手を合わせた。
「お二人も、今日はゆっくり休んでいってくださいな。よろしいですよね、ジーク様?」
少し先を歩いていたジークが振り返る。
「……ああ」
「リーシャ!」
ミオがすぐさまリーシャの手を取った。
「こっち!」
「わっ、待って、ミオちゃん!」
「お部屋みせる!」
「ミオ、走っちゃ駄目よ」
フィオナが姉らしく窘めながら、二人の後を追う。
「どうぞ。ソアラさんも」
「あ、ありがとう」
促され、ソアラも屋敷へ向かおうとして──ふと、フィオナを見た。
「あの」
「はい?」
「あなたがフィオナさんよね?」
「ええ。そうですけど……」
ソアラはまじまじとその顔を見る。
そして。
「……なるほど」
「?」
「ミオちゃんが言ってた通り、本当にすっごい美人さんね」
「……え?」
「町一番の美人だって聞いてたけど、納得だわ」
「えぇっ!?」
フィオナの顔が一瞬で真っ赤になった。
「ミ、ミオ!」
「なぁに?」
「ソアラさんに、いったい何を話したの!?」
「おねーちゃんが、町でいちばんかわいいって」
「ミオー!」
慌てる姉を見て、ミオ不思議そうに首を傾げる。
それを見てリーシャが笑い、ソアラまで声を上げた。ロッテは口元を押さえ、ルスも盆栽を抱えたまま穏やかに目を細めている。
こうして。
少しだけ静かだった日々は終わりを告げ──。
屋敷にはまた、騒がしくも温かな毎日が戻ってきた。
新しい風と、新しい縁を連れて。




