第52話 ミオ・ヴァルト
「──ソアラを、はなして」
その声は、怒鳴り声でも悲鳴でもなかった。
けれど、月明かりの差し込む廃教会に落ちたその一言は。場の空気を一瞬で塗り替えるほど澄み切っていて、妙に遠くまで響いた。
耳で聞いたはずなのに、まるで脳の奥をじかに叩かれたような感覚が残る。
ソアラを押さえつけていた男たちが、はっとしたように一斉に振り返った。
崩れた入口の向こう。月の光を背にして、ひとりの少女が立っている。
白銀の髪は青白い光を浴びて淡く輝き、ふわりと揺れる尻尾までが夜の中でくっきりと浮かび上がっていた。
小さな体つきはどう見ても幼い子供のものだというのに、その真紅の瞳だけは、そこにいる誰よりも静かで、誰よりも鋭かった。
獣人の少女。
「──ミミちゃん!? な、何で……!」
驚愕と戸惑いが入り混じった声を、ソアラはかろうじて絞り出した。
ミオは視線を逸らさず、ただ小さく俯いて答える。
「ソアラ、ようすがへんだった。……しんぱいだったから」
その言葉に、ソアラの胸がひやりと冷えた。
ただ“心配だった”というだけの理由で、こんな場所まで追ってきたのか。
それと同時に、ぞっとした。
ここがどんな場所なのかを、ソアラは誰よりよく知っている。
この場面を見てしまった以上、たとえ相手が子供でも、無事に帰してもらえるはずがない。まして獣人なら……。
逃げて、と叫ばなければならないのに、喉が恐怖で引きつって、うまく声にならなかった。
「──何かと思えば、例の獣人のガキじゃねぇか」
大男が鼻で笑いながら前へ出る。
「夜の散歩か? 飼い主はどうした」
その言葉に、周囲の男たちがくすくすと下品な笑いを漏らした。
ミオはそんな嘲りにも表情ひとつ変えない。ただ、赤い瞳で男を見返し、淡々と答える。
「来ない。めんどくさいから、家にいるって」
「そりゃ良くないな」
大男は肩を揺らして笑った。
「散歩は飼い主の仕事だろ。畜生も大変だ」
また笑いが広がる。
その輪の中で、俯いたまま動かないミオを見た瞬間、ソアラの胸はすっと冷え切った。
──そう、よね。
もしかしたら、ジスさんが助けに来てくれるかもしれない。
そんな希望を、ほんの一瞬でも抱いた自分が愚かだった。
そもそも二人とは、昨日会ったばかり。
わざわざ命を危険に晒してまで助けに来るはずがない。騙した事を咎めずにいてくれただけでも感謝しなければいけない。
だからこそ。
自分の事情と無関係なこの子だけは、何としても帰さなければならなかった。
「私は大丈夫だから!! ミミちゃん、逃げ──」
言い終わる前に、乾いた音が響いた。
男の平手が容赦なくソアラの頬を打ち、顔が横へ弾かれる。崩れた壁にその音が反響し、口の中に鉄の味が広がった。
「──ソアラ!」
ミオが目を見開く。
「バカか。帰すわけねぇだろ」
いつの間にかミオの背後に回っていた別の男が、彼女の小さな体をいきなり後ろから抱え上げた。
「──やぁっ! はなして!」
手足をばたつかせて必死にもがくが、小さな体ではどうにもならない。男は面白がるようにそのままミオを持ち上げ、仲間たちのいる方へずるずると連れていこうとする。
「ほれ、躾のなってねぇ犬っころはこっち来な。まぁ、メスだっただけマシだな。まだ遊びがいがある」
「お、いいな。獣人って人間より丈夫なんだろ? だったら──」
「ミミちゃん──!!」
考えるより先に、体が動いた。
次の瞬間には、腰のベルトへ隠していた短剣を抜いていた。
押さえつけていた男の手を鋭く切り裂き、怯んだ隙にそのまま床を蹴る。
「──ッ! てめぇ!」
怒号が飛ぶ。
それでも構わず、ソアラはミオを抱える男へ飛びかかった。勢い任せに短剣を振るい、相手が後ずさった瞬間、その腕の中からミオを奪い返す。
「──ソアラ、ありがとう」
解放されたミオが、小さな声で礼を言う。
だが、安堵したのも束の間だった。
男たちはすぐに二人を取り囲み、壁際へと追い詰める。背後は崩れた石壁、左右も前も敵。逃げ道はどこにもない。
「……ソアラ、てめぇ。覚悟はできてんだろうな」
切りつけられた男が血の滲む手の甲を押さえながら、じりじりと距離を詰めてくる。
「楽に死ねると思うなよ」
ソアラは息を切らしながらミオを庇うように抱きしめた。
もう後戻りできないところまで来てしまったことは、痛いほど分かっている。だとしても──。
「お願い……!」
声を張り上げる。
「私はどうなってもいい! でも、この子だけは帰してあげて! この子は関係ないの!!」
男たちを見渡し、必死に懇願する。
だが……その胸元から不意に、小さな声が返ってきた。
「かんけい、なくない!」
驚いて見下ろすと、ミオがまっすぐにこちらを見ていた。
「ソアラ、まちがえ。仲間なら、こまったとき助けあうって……ソアラがおしえた」
その言葉に、昨日の出来事が一気に胸へ押し寄せる。
眠ってしまったミオを背負ったときの、小さく軽い重み。三人で囲んだ夕食の温かさ。同じ屋根の下で眠った夜の静けさ。
独りではない冒険なんて、もうとっくに忘れていた。
誰かと笑い合い、誰かに背を預け、誰かを守りたいと思えるような時間など、ずっと前に手放したはずだった。
それを思い出させてくれた、仲間を自ら騙し、裏切った。
それなのに。
騙した相手は、今もなお、自分を“仲間”だと言ってくれている。
「はっ、犬っころは従順だな」
大男が嘲るように笑った。
「騙されてもまだ尻尾を振るのか?」
胸の奥をそのまま言い当てられた気がして、ソアラは唇を噛んだ。
けれど──ミオは引かなかった。
「ソアラ、だましてない!」
きっぱりと言い切る。
「ちゃんと、ぼうけんつれてってくれた!」
「ガキには分かんねぇだろうがな!」
男が苛立ったように怒鳴る。
「そいつはお前らの報酬を騙し取ろうとしたんだよ!」
それでもミオは一歩も退かない。
むしろ、ソアラの腕の中から一歩前へ出て、力いっぱい言い返す。
「ほーしゅーなんて、なんでもいい! ジークさまも、そう言った!」
その瞬間、ソアラの脳裏に、あの日の会話が鮮明に蘇る。
『報酬は半々でいい?』
『何でもいい。任せた』
あの時の、無関心にしか見えなかった返答が、今になって別の意味を持って胸へ落ちる。
つまり彼は──本当にどうでもよかったのだ。
金など、報酬など。
何でもいい。
全部知ったうえで、それでもソアラを仲間として扱っていたのだ。
祝宴の席も、あの小さな家での穏やかな時間も。ソアラはずっと、何か裏があるのではないかと怯えていた。裏切り者の自分に優しくする理由が分からず、怖いとすら思っていた。
けれど、違った。
騙すも騙されたも初めから無い。
ただ本気で、仲間として笑ってくれていたのだ。
ソアラの腕の中で、ミオが小さく笑う。
「だから、ソアラ。こまったときは、仲間……ミミにまかせて」
月明かりの中で浮かぶその笑顔は、どこまでも無垢で、まっすぐで──あまりにも眩しかった。
誰にも頼れない。助けてくれる人なんていない。リーシャを守るためには、自分が全部背負うしかない。そう思って、そう信じて、ずっと独りでやってきた。
痛くても、苦しくても、怖くても、寂しくても。
助けなんてないのだと、自分に言い聞かせて。
なのに今、その全てをひっくり返すように。
こんな小さな仲間が、自分のためにここまで来てくれている。
「……私なんかのこと……まだ仲間って呼んでくれるの?」
絞り出した声は、涙で震えていた。
「うん。あたりまえ」
ミオはすぐに頷く。
「また、ぼうけんいこう」
ソアラはもう、返す言葉を持たなかった。ただ嗚咽を堪えながら、小さく頷くことしかできない。
その様子を見ていた手下のひとりが、つまらなそうに唾を吐いた。
「……お頭、そろそろいいっすか。このチビ、どうします?」
「獣人だろ?」
大男は面倒そうに言い放つ。
「あとでまとめて埋めろ」
「はいよ」
男たちの冷めた返事が、崩れた屋根の奥に広がる夜空へ吸い込まれていく。
向かってくる男たちを前に、ソアラはミオの体を強く抱きしめる。
けれど、ミオはその腕の中からするりと抜け出した。
小さな足で、前へ出る。
月光が白銀の髪を照らし、その輪郭を青白く縁取った。
「──けいこくする」
幼い声が、廃墟の中に静かに響く。
「にげるなら、命まではとらない」
あまりにも場違いな宣告だった。
相手は身の丈の倍はあろうかという大人たちだ。囲まれ、追い詰められているのはどう見てもこちらの方なのに、ミオはまるで自分が最後通告を与える側であるかのように、微動だにせず言い切った。
男たちは一瞬ぽかんとし、それから下卑た笑い声を上げた。
「は? 中々面白い冗談だな。お前の方こそ、逃げるなよ?」
ひとりが吐き捨てるように言う。
その言葉を聞いた瞬間だった。
ミオの口元が、ほんの僅かに綻んだ。
それはいつもの子供らしい笑みではない。
嬉しそうでも、楽しそうでもない。
ただ静かに、深く──得体の知れない怪物が、水面に一瞬だけ顔を出したような、そんな笑みだった。
「……よかった」
囁く。
「ほんとは、逃すつもりない」
「……はぁ? クソガキ。調子にのるなよ、ぶっ殺すぞ」
男のひとりが吐き捨てた、その直後。
空気が変わった。
いや、空気だけではない。
教会の中に満ちていた月明かりも、湿った夜気も、男たちの息遣いも、全てが一瞬にして別物に置き換わったような感覚があった。
世界そのものが、たった一人の少女へ視線を集中させたかのように軋む。
ミオがゆっくりと顔を上げる。
紅い瞳が、月光を映してゆらめいた。
その赤は、もう“綺麗な色”などではない。
深く、暗く、底なしの井戸の底でどろりと凝った血のような色。覗き込んだ者の魂ごと引きずり込みそうな、冷たい深淵の色だ。
その視線を浴びた瞬間、男たちの背筋を氷の刃が撫でた。
ぞわり、と総毛立つ。
紛れもない、恐怖だ。
理屈ではなく、本能のもっと深いところで、“これは見てはいけないものだ”と理解してしまう類の恐怖。
「──許さないから」
ミオの一言。
ただ、それだけだった。
それなのに、廃教会の隅にいた男のひとりが、思わず一歩後ずさった。
次の瞬間。
全員が、ほとんど同時に膝から崩れ落ちる。
「……っ!?」
何が起きたのか分からない。
足に力が入らない。呼吸がうまくできない。胸の上に見えない岩でも乗せられたように重く、立ち上がろうとする意思そのものを押し潰される。
目を逸らしたい。
逃げたい。
けれど、その紅い瞳から視線を剥がすことすらできなかった。
「ソアラをいじめたこと。後悔して……」
何が起きているか分からず、しかし、しばらくして、ようやく男たちは理解する。
自分たちは今、目の前の、あの小さな子供に──怯えているのだと。
膝は震え、喉はひゅうひゅうと情けない音を立て、誰ひとりとして指一本まともに動かせない。
そして。
小さな声が落ちた。
「────死ね」
直後。
空が、裂けた。
◆ ◆ ◆
その異変は、国を包んだ。
寝静まっていた帝都全域が、聞いたことのない音に貫かれたのだ。
ぎ、とも、ばり、ともつかない、世界そのものが無理やり引き裂かれるような音。
人々は寝台から飛び起きた。窓を開け、戸を押し開き、何が起きたのかを確かめようとして──そして、息を呑んだ。
夜空に、赤黒い裂け目が走っていた。
星々の浮かぶはずの漆黒を、何か巨大な爪で乱暴に引き裂いたような傷。裂け目の向こうは、夜よりなお深い闇だ。
その底知れぬ暗黒の中から、最初に現れたのは“手”だった。
城すら掴めるほどに巨大な、禍々しい手。
皮膚はところどころ剥げ落ち、腐った筋肉の下から白い骨が露出している。滴る血は地面へ届く前に黒い霧へと変じ、風もない夜空の中で不気味に溶けていった。
続いて現れたもう片方の手が、裂け目の縁を乱暴に掴む。
天そのものが悲鳴を上げるような音を立てて、空の傷口がさらに押し広げられた。
そこから姿を現したのは──巨人の骸だ。
全身を血塗れの包帯で巻かれ、胴には幾重もの鎖が食い込むように巻きついている。
包帯の隙間から覗くのは、乱れた白髪と、地獄の深淵をそのまま映したような真紅の眼光。
その巨体が夜空の裂け目からゆっくりと身を乗り出した瞬間、帝都の民は誰からともなく膝をついた。
勇猛で知られる帝国兵も。
数々の災厄を乗り越えてきた老練な騎士たちも。
幼子を抱えた母親も、杖をついた老人も。
皆、ただ本能で理解してしまったのだ。
──あれは、無理だ。
戦ってどうにかなる相手ではない。
あれは、“終わり”そのものだと。
◇ ◇
帝宮。
皇帝の私室にも、赤黒い異光が大窓から差し込んでいた。
寝台の脇へ駆けつけた近衛騎士たちは剣を握ってはいるが、その手は目に見えて震えている。誰ひとり窓の外から目を離せず、喉を引き攣らせたまま立ち尽くしていた。
皇帝もまた、寝床から這い出るように身を起こし、掠れた声を漏らす。
「……何が……起きた……」
「陛下……これは……」
駆けつけた家臣も、言葉を失うばかりだった。
誰かが“怪物”と呟きかけたが、その語では足りないと悟って口をつぐむ。
あれは怪物ではない。
ましてや生物などでも。
もっと原初的で、もっと圧倒的な──世界に存在してはならない何かだ。
「──退け!」
やがて、皇帝が絞り出すように叫んだ。
その顔からは血の気が失せ、声は震えている。
「全軍を退かせろ! 民もだ! 国を捨て、逃げよ!!」
寝台へ縋るように身を起こした皇帝の瞳には、もはや統治者の威厳はなく、ただ終末を見た者の恐怖だけが映っていた。
「あれは……災厄だ……」
唇が震える。
「この世の、終わりだ……!」
その言葉は城中を駆け抜け、鐘楼の警鐘は狂ったように鳴り響き始めた。
避難を叫ぶ声。
泣き叫ぶ子供。
馬のいななき。
兵士たちの怒号。
物静かに眠っていた帝都は、わずか数呼吸のうちに地獄へ変わった。
◆ ◆ ◆
空の裂け目の真下。
月光と赤黒い異光が混ざり合う廃教会の上空で、巨人の骸がゆっくりと首を傾けた。
その視線が、地上のほんの数人──ソアラを囲んでいた男たちを見下ろす。
それだけで、男たちの背筋がまた凍りついた。
巨大な鎖が、ぎり……と重々しく軋む。
包帯の隙間から黒い蒸気が噴き出し、空気そのものを腐らせるように辺りへ広がっていった。
ミオが静かに、その名を告げる。
『終焉と安楽の王──クロード』
その声に呼応するように、巨人の骸がゆっくりと口を開く。
覗くのは喉ではない。底なしの闇だ。そこから溢れ出す瘴気が月すら塗り潰し、夜をさらに暗く染めていく。
ミオは微動だにしない。
ただ真紅の瞳で、その巨大な災厄を見上げる。
『深淵より、その御手を伸ばせ』
幼い声が、世界へ命を下す。
『我が怒りを喰らい──罪人共に、永遠の安楽を』
その瞬間。
巨人を縛る鎖が、轟音とともに軋んだ。
裂け目から赤黒い魔力が奔流となって溢れ、巨人の骸へ吸い込まれていく。まるで遥か彼方の異界そのものが、少女の命令に従って力を差し出しているかのようだった。
『その魂、その罪、その存在──ひとつ残らず冥府へ連れ去れ』
ミオの声音が、さらに低く沈む。
『そして、その終焉をもって──我への忠を示せ』
巨人の口元へ、赫い光が集束していく。
それは炎ではない。
雷でもない。
終わりそのものが色を得て、この世へ滲み出したような“滅び”の光。
廃教会を。
帝都を。
夜空そのものを。
赫く染め上げていく。
その中心で、ミオだけが静かに立っていた。
白銀の髪を夜風になびかせ、真紅の瞳で眼前の男たちを見据える。その姿に、先ほどまでソアラへ笑いかけていた幼い少女の面影はない。
終焉を従え、災厄へ命を下し。
世界の向こう側に存在する王すら、その一声で跪かせる者。
『刻め、その魂に』
ミオの紅い瞳が、静かに細められた。
『汝に終を命じた者の名を』
一拍。
世界が、息を止める。
『我が名は──ミオ・ヴァルト』
それは名乗りではない。
宣告だ。
『この名抱いて、逝け』
その瞬間。
世界は、紅に塗り潰された。




