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第51話 返せぇぇぇぇぇぇっ!!

 ──帝都郊外。


 人里から遠く離れた森の奥に、朽ち果てた古い教会が建っていた。


 屋根の大半はとうに崩れ落ち、剥き出しになった梁の隙間から青白い月光が差し込んでいる。石造りの壁はびっしりと蔦に覆われ、湿った土と埃の臭いが淀んだ空気の中に混じっていた。


 かつて祈りのために並べられていた長椅子も、今では半ば朽ち果て、あちこちに乱雑に転がっている。


 そこに靴を投げ出し、我が物顔で腰掛ける数人の男たちがいた。


 誰もまともに言葉を交わさない。ただ、煙草の先端だけが暗闇の中で時折赤く灯り、吐き出された煙が月明かりの中をゆらゆらと漂っている。


 やがて、教会の外から草を踏む音が近づいてきた。


 ざっ、ざっ、と。

 静かな夜に響く足音。


 そして月明かりの下へ、一人の女が姿を現した。


 ──ソアラだ。


「遅かったじゃねぇか」


 入口近くの壁にもたれていた痩せた男が、煙を吐きながら顎をしゃくる。


「……ごめん。色々あって」


 短く答えたソアラは懐から革袋を取り出し、そのまま男へ差し出した。


 受け取った男の手に、ずしりと重みがかかる。


 袋の中では金属同士が鈍くぶつかり合い、紐を解けば、月明かりを受けた金貨が眩いほどの輝きを放った。


「へぇ……」


 男は感心したように口笛を吹き、ざらりと指で中身を掻き混ぜる。


「すげぇじゃねぇか。これだけありゃ、借金も一気に減るな」


「……金貨四十枚」


 ソアラは男と目を合わせずに答えた。


「数は合ってるはずよ。確認して」


「ああ」


「じゃあ……これで」


 一刻も早くこの場を去りたい。

 そんな勢いでソアラが踵を返そうとした、その時だった。


「なぁ、ソアラ」


 教会の奥から声が飛んできた。


「ちょっと待てよ」


「…………」


 足が止まる。


 嫌な声だ。


 ゆっくり振り返ると、崩れかけた祭壇の前に置かれた長椅子へ、一人の大柄な男がふんぞり返っていた。


 筋骨隆々の身体に無精髭。口には太い葉巻を咥えている。


 宿でミオにぶつかり、その正体を暴いた男。


 冒険者ギルドで彼女を獣人だと晒し、嘲笑の中心へ引きずり出した──あの大男だった。


 男の顔を見た瞬間、ソアラの肩が僅かに強張った。


「……何よ」


「今回の支払い」


 大男は葉巻を指で摘まみ、ゆっくりと煙を吐き出した。


「いくらだって?」


「……金貨四十枚よ」


 ソアラが答えると、袋を持った男が中身を改める。


「お頭。四十枚で間違いありません」


「そうか」


 大男は満足そうに頷いた。


 だが。


 次の瞬間、その口元がいやらしく歪む。


「……で?」


「何よ」


「残りの四十枚は、どこへやった?」


「…………」


 ソアラの表情が固まった。


 首筋を冷たい汗が流れる。


「……何のこと?」


 どうにか平静を装って答える。


「四十枚、確かに──」


「報酬は八十枚だったんだろ?」


「…………」


 息が止まった。


「ギルドの受付が教えてくれたんだよ」


 大男は愉快そうに笑う。


 ──しまった。


 ギルドでは人目に十分過ぎるほど注意を払っていた。

 換金を終えてからも、人につけられていないかは何度も確認した。


 けれど。


 最初からギルドの中に見張りがいたのなら──意味がない。


「いやぁ、俺も驚いたぜ。まさか、ここまでの稼ぎになるとはな」


 黙り込んだソアラへ、大男はわざとらしく肩をすくめてみせた。


「そもそも、いいカモがいるって教えてやったのは、俺だろ?」


「…………」


「冒険者になったばかりの素人。それも、獣人のガキなんぞ連れた間抜けだ。お前にゃ、ちょうどいいと思ってな」


 ソアラの奥歯が、ぎり、と鳴った。


 そう。

 偶然ではなかった。


 あの時、ソアラがジークたちへ近づいたのは──この男から話を聞いていたからだ。


 騙しやすそうな新人がいる。

 いつものように近づいて、信用させればいい。


 ただ、それだけのつもりだった。


「まさかビギナーズラックで、金貨八十枚なんて大金を稼いでくるとは思わなかったがな」


 大男の目が、獲物を追い詰めた獣のように鋭くなる。


「その恩を忘れて……半分ちょろまかそうとは。お前も大した度胸じゃねぇか」


「ち、違う!」


 思わず声を荒らげる。


「残りは……あの人たちの取り分よ!」


 一瞬。


 廃教会が静まり返った。


「…………は?」


 誰かが間の抜けた声を漏らす。


 次の瞬間──男たちが一斉に笑い始めた。


「聞いたかよ!」


「今さら善人ぶってやがる!」


「…………っ」


 ソアラは拳を握り締めた。


 大男も腹を抱えるように笑っていたが、やがて目尻を拭いながら、冷たい声で言った。


「今さら、いい子ぶるなよ」


「…………」


「お前のせいで冒険者を辞めた新人が、今まで何人いた?」


 答えられない。


「報酬を全部持ってかれて借金背負った奴もいたなぁ?」


「……やめて」


「仲間になったふりして近づいて、信用させて、最後には契約書を使って金を巻き上げる。この辺りじゃ知れた手口さ」


 大男の口元が吊り上がった。


「なぁ?」


 一拍置いて、嘲るように呼ぶ。


「──“ハイエナのソアラ”さんよ」


「…………っ」


 四方から笑い声が浴びせられた。


 以前なら、黙って耐えただろう。


 どうせ自分はそういう人間なのだと。

 生きるためには仕方がないのだと。


 自分に言い聞かせて。


 けれど──今は違った。


 頭に浮かぶのは、何の疑いもなく手を握ってきた小さな少女。


『また、ソアラとぼうけんいきたい』


 そして。


『仲間だ』


 何の迷いもなくそう言った男の声。


「……もう」


「あ?」


 ソアラが顔を上げる。


「もう、辞める」


 笑い声が止まった。


「借金は返す」


 震えていた。


 怖くないはずがない。


 それでも、男から視線を逸らさなかった。


「何年かかっても返す。冒険者として働いて、少しずつでも……全部返す」


「…………」


「でも、もう誰かを騙して金を取るようなやり方は──」


「──足りねぇんだよ!!」


 怒号が教会を揺らした。


 大男は足元に転がっていた煉瓦を掴み上げ、そのままソアラ目掛けて投げつける。


「──っ!」


 咄嗟に腕で顔を庇った。


 だが、避けきれない。


 鈍い衝撃が腕を突き抜け、ソアラの身体が大きくよろめく。


「ぐっ……!」


 そのまま片膝をつき、肺から空気を吐き出すように咳き込んだ。


「何年だ?」


 大男がゆっくり立ち上がる。


「なあ、あと何年待たせるつもりなんだ?」


 足元へ唾を吐き捨てる。


「十年か? 二十年か? それとも来世まで借金持ち越すつもりかよ!」


「……っ」


「お前みたいな三流冒険者が真面目に働いて、いつ返し終わるんだ?」


 その言葉だけは、言い返せなかった。


 まさにそれこそが、これまでソアラを縛り続けてきた現実だったからだ。


 大男はしばらく蹲るソアラを見下ろしていたが、やがて面倒そうに頭を掻いた。


「……まあ、もういいか」


「……え?」


「面倒になった」


 思いがけない言葉に、ソアラが顔を上げる。


「どのみち、グズのお前が全部返せるとは思ってねぇよ。今回の稼ぎで、十分だ」


「…………」


「だから──今日でおしまいにしてやる」


「……ほんと?」


 一瞬だけ、希望が差した。


 借金がなくなる。

 もう、この連中の言うことを聞かなくてもいい。

 誰かを騙さなくてもいい。


 これで、リーシャと二人で──。


「ちょうど今頃、お前の家に手下が着いてる頃だろう」


「…………え?」


 頭の中が真っ白になった。


「貰えるもんは全部回収して、それで終わりだ」


 大男が笑う。


「残りの金貨と──」


 一拍。


「妹」


「…………」


「あれも、売りゃそれなりの金になるだろ」


 次の瞬間。


 ソアラの身体が弾けた。


「──っ!!」


 腰の短剣を抜き、床を蹴る。


「リーシャに手を出すなぁぁっ!!」


 一直線に大男へ飛びかかった。


 だが、刃が届くより早く。


「おっと」


 左右にいた男たちが腕を掴む。


「放せ!!」


 身体を捻り、蹴り上げようとする。


 だが二人、三人と取りつかれれば、力では到底かなわない。


 腕を背中へ捻り上げられ、そのまま無理矢理、石床へ押さえつけられた。


「リーシャには手を出さないって約束でしょ!!」


「ああ?」


 大男は心底おかしそうに笑った。


「約束?」


「そうよ! 私が言う通りにすれば、リーシャには絶対に手を出さないって──!」


「ははっ!」


 乾いた笑い声が響く。


「今まで散々、人との“約束”を踏みにじってきたお前が言うのか?」


「…………っ」


「罰が当たったんじゃねぇの?」


「クソッ……放せ!」


 必死に身体を捩る。


 だが男たちの腕は緩まない。


「リーシャに何かしたら……絶対に殺す! 殺してやる!!」


「威勢だけはいいな」


 押さえつけていた男の一人が、下卑た笑みを浮かべた。


「お頭。どうせこいつ、もう用済みなんですよね?」


「ああ」


「じゃあ、始末する前にやっちまっていいですか?」


「…………っ」


 その言葉の意味を悟った瞬間、ソアラの顔からさっと血の気が引いた。


 大男は面倒そうに男を一瞥し、


「物好きだな。こんな泥臭ぇ女で立つのか?」


 葉巻の煙を吐く。


「……まあ、好きにしろ」


「やめろ……!」


 周囲で笑い声が上がった。


 男たちが距離を詰めてくる。


「やめろ! 触るな!」


 ソアラは必死に暴れた。


「放せ! 殺すぞ!!」


 けれど、何人もの男に押さえつけられた身体は、ほとんど動かない。


 その叫びを聞きながら、大男は興味を失ったように葉巻をふかしていた。


 だが、ふと。


「……そういや」


 何かを思い出したように呟く。


「これも因果ってやつかもな」


「……?」


 ソアラの抵抗が、僅かに止まる。


「お前の母親も、同じだった」


「…………え?」


 大男がにやりと笑った。


「知らなかったのか?」


「……何を」


「ここだよ」


 男はゆっくりと廃教会を見回した。


「お前の両親の、最期の場所」


「…………」


 ソアラの瞳が揺れた。


「仲間だったんだけどなぁ。二人揃って妙な正義感に目覚めやがって」


 まるで昔話でもするような口調だった。


「一緒になって、『もう悪いことはやめろ』『全部告発する』なんて言い出したんだ」


「…………」


「不様な最期だったなぁ」


 男の視線が、教会の奥へ向く。

 月光の差し込む、ひび割れた石床。


「たしか……あの辺だったか」


「やめろ……」


 胸の奥に、嫌な予感が広がっていく。


「お前の親父は、あの辺で押さえつけられてて」


「やめろ」


「目の前で、自分の女が囲まれて嬲られてるのに、何にも出来なくてなぁ」


「やめろって……」


「泣いてたよ」


 男の笑みが、醜く歪む。


「最期まで。二人揃って」


「…………」


「だから──その後、殺してやった。親父から先にな」


 音が消えた。


「…………」


 ソアラの頭の中が真っ白になる。


 両親は逃げた。

 借金を残して。


 自分とリーシャを捨てて、どこか遠くへ逃げていった。


 ずっと──そう聞かされていた。


「……嘘」


「本当だ」


「嘘よ……」


「俺が命令したんだから、間違いねぇよ」


 大男は笑っていた。


「お前の母親も最後まで俺を睨んでたなぁ。ぐちゃぐちゃになった父親の死骸を抱えてな」


「…………」


「で、残った借金だけ娘に背負わせた、と」


 喉の奥から、掠れた音が漏れる。


「……じゃあ」


「あ?」


「本当に、お父さんと……お母さんは……」


「ああ」


 大男は平然と頷いた。


「お前らを捨てて逃げたんじゃねぇよ。良かったな」


 そして。


「俺たちが殺した」


「…………」


 何かが。


 ソアラの中で切れた。


「──クソヤロォォォォオオオ!!」


 絶叫が迸った。


 押さえつけている男たちの腕など構わず、全身を使って暴れる。


「殺す!!」


 涙で視界が歪む。


「絶対に殺してやる!!」


「おい、暴れんな!」


「放せぇぇっ!!」


 何人がかりで押さえつけられているのかも、もう分からない。


「返せ!!」


 何に向かって叫んでいるのかすら分からなくなっていた。


「お父さんを……!」


 声が裏返る。


「お母さんを……!」


 涙が溢れる。


「返せぇぇぇぇぇぇっ!!」


 怒りと悲しみの入り混じった絶叫が、天井の抜け落ちた廃教会を突き抜けるように響き渡った。


 押さえつけられた体は腕一本動かせない。

 男達はソアラの服を剥ぎ取ろうと、鼻息を荒げて乱暴にのしかかってくる。


 それでも、叫び続けた。


 何度も。


 何度も。


 月夜の森へ反響して──。


 やがて、その声さえも。


 深い夜の闇へと吸い込まれていった。

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