第50話 それは大変だったな
いつの間にか陽はすっかり落ち、窓の外は深い藍色に沈んでいた。
けれど、小さな家の中はランプの柔らかな灯りに照らされ、先ほどから楽しげな笑い声が絶えない。
普段、同年代の子供と接する機会がほとんどないからだろう。ミオは珍しいほど饒舌だった。向かいに座るリーシャも同じらしく、二人の会話は途切れる気配すらない。
「それでね、すごく大きい、ブヨブヨのスライムがあばれたの。でも、ジスさまが──」
「えっ、そんな大きな魔物を!? ジスさんって、とてもお強いんですね!」
「うん。すごくつよい。でも、ミミもやりたかった」
「えっ?」
「どーんって」
「え、えっと……」
どこまで本気なのか判断できず、リーシャが困ったように笑う。
今日の冒険で起きた出来事から、屋敷での暮らし、フィオナやルスの話まで。ミオが思いつくままに語るたび、リーシャは目を輝かせて身を乗り出していた。
そんな二人の様子を、ジークとソアラは少し離れた台所から眺めていた。
ジークは壁へ背を預け、相変わらず何を考えているのか分からない顔をしている。一方のソアラは、妹が楽しそうにしているのを嬉しく思いながらも、どこか落ち着かない様子だった。
「……興味本位で聞くが」
「っ……な、なに?」
不意に落ちた低い声に、ソアラの肩が小さく跳ねる。
ジークは向こうで笑うリーシャへ一度だけ目を向けた。
「親はどうした?」
「…………」
短い問いだった。
ソアラはしばらく答えず、流し台の縁へ視線を落とした。
「……いない」
「……」
「だいぶ前に、私たちを置いて……いなくなったの」
ジークはそれ以上尋ねなかった。
ただ一言、「そうか」と返しただけだった。
それで話は終わるはずだった。
「……借金があったの」
なのに、ソアラの口から次の言葉が零れた。
「結構な額の借金。返せなくなって……それで、私たちを借金のカタに置いて、逃げた」
リーシャに聞こえないよう、自然と声が小さくなる。
誰にも話すつもりなどなかった。
ましてや、今日出会ったばかりの男に聞かせるような話ではない。
それでも、一度口を開いてしまうと止まらなかった。
「最初はね、なんとかなるって思ってた。働けばいいって。私が冒険者になって、お金を稼げば……妹くらい、どうにか食べさせていけるって」
自嘲するように、口元が歪む。
「全然、甘かったけどね」
大した腕もない冒険者が、一人で稼げる金などたかが知れていた。日々の食費を払い、家を維持し、そのうえ借金まで返すとなれば、どれだけ働いても足りない。
利息は膨らみ、返しても返しても元金は減らない。金がなければ仕事を増やし、無理をして怪我をすれば、今度は治療に金が要る。
まるで底なし沼だった。
抜け出そうともがくほど足を取られ、気がつけば前より深いところまで沈んでいる。
「誰も助けてなんてくれなかった。助けてって言ったって、結局はお金を貸してくれるだけ。その借金を返すために、また別のところから借りて……」
いつからだったのだろう。
周囲の人間が、みんな敵に見えるようになったのは。
親切に近づいてくる者すら疑い、騙されるくらいなら先に騙してやればいいと思うようになったのは。
「…………」
ジークは何も言わず、ただ聞いていた。
哀れむでもなく。
責めるでもなく。
途中で口を挟むことさえせずに。
「……そうか」
やがて、それだけを呟く。
「それは大変だったな」
「…………っ」
胸の奥が、ずきりと痛んだ。
ただ、それだけだった。
大丈夫だとも、可哀想だとも言わない。自分が何とかしてやるなどという無責任な約束でもない。
ただ──大変だったのだと。
今までの自分を、その一言だけで認められたような気がした。
こんなふうに真正面から話を聞いてくれる人間など、もういないと思っていた。
だからこそ。
その僅かな温度が、どうしようもなく苦しかった。
「──っ、ごめんなさい!」
突然、ソアラが深々と頭を下げた。
「……?」
ジークが僅かに眉を動かす。
ソアラは革袋を取り出すと、近くの卓へ置いた。ずしりと重い音がして、僅かに開いた口から黄金色の硬貨が覗く。
「これ……返す」
「…………」
「ジスさんと、ミミちゃんの取り分」
ジークは黙ったまま、袋へ視線を落とした。
「お金に困ってたのは……本当なの」
ソアラは俯いたまま、震える声を絞り出す。
「どうしても必要だった。借金も返したかったし、リーシャにちゃんとした暮らしをさせてあげたかった。だから……だからって……」
ぎゅっと拳を握る。
「やっぱり、こんなの間違ってた」
自分で口にした瞬間、これまで必死に積み上げてきた言い訳が、音を立てて崩れていくようだった。
「私、ずっと同じことやってきた。仲間になって、信用させて、最後に騙して……。そのたびに殴られて、罵られて、それでも『騙された方が悪い』って言い聞かせて……」
声が震える。
「お金さえあればいいって。リーシャさえ守れれば、それでいいって……ずっと……」
その名に反応したのか。
楽しそうに話していたリーシャが、ふとこちらを振り返った。
ミオも会話を止め、首を傾げる。
「…………」
ジークは少しのあいだ、何も言わなかった。
卓の上に置かれた金貨を見る。
ソアラを見る。
そして、その向こうで姉を心配そうに見つめているリーシャへ視線を向けた。
「……他人の事情に口を挟むつもりはない」
やがて、静かに言った。
「説教をする気もな」
「…………」
「だが──」
ジークは、まっすぐソアラを見据えた。
「悪事の言い訳に使われる妹は……不憫だと、俺は思う」
「…………っ」
息が止まった。
もっと酷いことなら、何度も言われてきた。
卑怯者。
詐欺師。
人でなし。
死んでしまえと罵られたことすらある。
けれど、そのどれよりも。
たった今告げられた一言が、深く胸を抉った。
自分は妹を守っている。
そのためなら何をしても構わない。
ずっと、そう思ってきた。
それなのに。
いつからか自分は、リーシャを守るのではなく──リーシャの存在を、自分のしていることを正当化するために使っていたのかもしれない。
「……っ……」
視界が滲んだ。
堪えようとした。
だが、一度溢れた涙は止まらず、頬を伝ってぽたぽたと床へ落ちていく。
「お、お姉ちゃん!?」
椅子を蹴るようにして、リーシャが駆け寄ってきた。
「どうしたの!? どこか痛いの?」
「ち、違う……大丈夫だから」
「でも、泣いて──」
「ジスさま!」
今度はミオが勢いよく立ち上がった。
頬をぷくっと膨らませ、じろりとジークを睨む。
「ソアラ、泣かした?」
「…………」
「よくない」
「待て」
ジークは珍しく困ったように眉を寄せた。
「俺のせいじゃないぞ」
「でも、ソアラ泣いてる」
「……」
「ジスさま」
「…………多分、俺のせいじゃない」
少しだけ自信がなくなったらしい。
そんな二人のやり取りに、泣いていたソアラの口から小さな笑いが漏れた。
「ふっ……なに、それ……」
「お姉ちゃん?」
「ううん。何でもない」
袖で乱暴に涙を拭う。
「ごめんね、リーシャ。ほんとに大丈夫だから」
それからミオにも笑いかける。
「ミミちゃんも。ジスさんは悪くないよ」
「……ほんと?」
「うん。私がちょっと……馬鹿だっただけ」
「?」
意味が分からず首を傾げるミオの頭を、ソアラはそっと撫でた。
「ほら。もう遅いし、そろそろ寝る準備しよっか」
無理に作った笑顔ではあった。
それでも。
先ほどまで胸の奥に溜まり続けていたものを吐き出したせいか、ほんの少しだけ呼吸が楽になった気がした。
◇ ◇ ◇
その夜。
ミオはリーシャと同じ寝台で眠ることになった。
最初こそ二人で何やら小声で話していたものの、疲れていたのだろう。しばらくすると会話も途切れ、間もなく静かな寝息が二つ並んで聞こえ始めた。
ジークは居間の長椅子を借りると、何の遠慮もなく横になった。
「狭くてごめん」
「ああ」
「毛布、もう一枚いる?」
「いらん」
「寒かったら言ってよ?」
「ああ」
「それから……」
返事がなくなった。
見ると、もう目を閉じている。
「…………」
ソアラは呆れたように小さく笑い、それから部屋を見回した。
妹の寝息。
その隣で眠る、今日出会ったばかりの小さな獣人の少女。
長椅子では、得体の知れないほど強い男が、まるで昔からこの家にいたかのように眠っている。
ほんの一日前には、想像すらしていなかった光景だった。
ソアラは卓の上へ目を向ける。
そこには、返そうと差し出した金貨の袋が、まだそのまま置かれていた。
「…………」
ジークは受け取らなかった。
返すとも、要らないとも言わず。
ただ、そこに置かれたままになっている。
ソアラはしばらく袋を見つめていたが、やがてランプへ手を伸ばした。
小さな炎が消え、部屋が静かな闇に沈んだ。
椅子に腰掛けてそっと目を瞑る。
今日一日の出来事。
ミオの笑顔。
ジークの言葉。
そして、卓の上に置いたままの金貨。
それらが何度も頭の中を巡り続ける。
ソアラは音もなく椅子から立ち上がると、暗闇の中でそっと目を開いた。




