第49話 また、ソアラと冒険いきたい
「ぼうけんの、せいこうをしゅくして──!」
ミオが両手で掲げた木製のジョッキが、店の灯りを受けて琥珀色にきらめいた。中身は酒ではなく果実のジュースだが、乾杯の音頭を取るその勢いだけなら、周囲の酔客にも負けていない。
「かんぱーいっ!」
フードを深く被ったまま、満面の笑みでジョッキを掲げる。それに合わせてジークも杯を持ち上げ、二人の木杯がこつんと触れ合った。
乾いた、心地よい音が鳴る。
けれど、その輪の中で一人だけ。
ソアラはジョッキを手にしたまま、動けずにいた。
「……何だ。景気の悪い顔をして」
ジークが眉をひそめると、ミオも心配そうにソアラを見上げた。
「ソアラ、つかれた?」
「えっ? う、ううん……別に。ちょっとぼーっとしてただけ」
慌てて笑ってみせる。
それでも、胸の奥でざわめき続けるものは消えてくれなかった。
(……なんで、普通にお祝いしてるの……?)
今回の冒険で得た報酬は、金貨にして八十枚。
ソアラにとっては、目にしたことすらないほどの大金だった。
そして、そのほぼ全てを自分の懐へ入れた。
ジークとミオを騙して。
無理矢理署名させた書類に手を加え、自分に都合のいい契約へと作り替えて。
それなのに二人は怒らなかった。金を返せとも言わず、殴りかかってくることもなく、それどころか自分を祝賀会に誘い、今こうして同じ卓を囲んでいる。
(……どうして?)
こんなことは、初めてではなかった。
これまでにも何度となく同じ手を使ってきた。仲間に取り入り、信用させ、最後には契約を利用して報酬を奪う。
当然、相手は怒った。
殴られたことも、蹴られたこともある。剣を抜かれ、殺されかけたことだって一度や二度ではない。
それでも契約書を盾にし、騎士やギルドの権威に縋りながら、「騙される方が悪い」と声を張り上げて逃げてきた。
今回だって、そのはずだった。
憎まれ、怒鳴られて。
それでも、上手く逃げ切れば、それで終わり。
なのに──。
(……いったい、何が狙いなの?)
「──ソアラ!」
「……っ」
目の前から飛んできた声に、思考を引き戻される。
「ぼうけん、たのしかったね!」
ミオが笑っていた。
何の裏もない。疑いも、恨みもない。
ただ純粋に、今日の出来事を楽しかったと言っている。
「……うん」
気づけば、掠れた声でそう答えていた。
「ねぇ、ジスさま」
ミオが今度は隣へ顔を向ける。
「また、ソアラと冒険いきたい」
「まあ……気が向いたらな」
ジークは酒を一口飲み、ほんの僅かに口元を上げた。
「騒がしかったが、退屈はしなかった」
「やった!」
「ちょっと、こっちは命懸けだったんだけど! 退屈凌ぎみたいに言わないでよ」
反射的にツッコんでから、ソアラは自分で驚いた。
ごく自然に会話へ入ってしまった。
まるで、本当の仲間であるかのように。
その間にも料理は次々と運ばれてくる。果実のソースをかけた肉料理に、香草の浮いた温かなスープ。大人二人の前には泡立つエールも並び、周囲の卓からは笑い声や歌声が絶えず聞こえていた。
祝宴らしい、温かな夜だった。
けれど。
ソアラの料理だけが、いつまで経っても減らなかった。
(……ごめん)
香ばしい肉の匂いも、酒の芳醇な香りも、今はやけに遠く感じる。
(どうしても……喉、通らないや)
やがてミオが眠そうに目を擦り始めたこともあり、三人の祝賀会は思っていたより早くお開きとなった。
◇ ◇ ◇
店を出ると、火照った頬を夜風がひやりと撫でた。
賑やかな酒場の声は扉が閉じると同時に遠のき、街灯に照らされた石畳だけが夜の帝都を真っ直ぐに伸びている。
宿を取っていないジークたちに、ソアラが「よかったら家に泊まらない?」と持ちかけたのは、店を出る少し前のことだった。
「……ボロい家だけど、ゆっくりしてって」
どこか照れくさそうにそう言いながら、ソアラが二人を案内する。
彼女の家があるのは、帝都の外れにある小さな山村だった。
かつてはそれなりに人が暮らしていたのだろうが、今ではほとんどの家が打ち捨てられている。月明かりの下には、窓の割れた家や屋根の崩れかけた廃屋が並び、人が住んでいる気配はほとんど感じられなかった。
そんな村の奥に、一軒だけ。
明らかに手入れされた家があった。
建物自体は古い。けれど木の壁は丁寧に塗り直され、傷んだ箇所には新しい板が当てられている。玄関前にはいくつもの鉢植えが並び、色とりどりの小さな花が夜風に揺れていた。
「ここ?」
ミオが家を見上げる。
「うん。我が家」
ソアラは少し恥ずかしそうに笑い、扉へ手をかけた。
「ただいま」
扉を開ける。
するとすぐに、家の奥から軽い足音が聞こえてきた。
「お姉ちゃん! おかえり──っ……あ」
ぱたぱたと駆けてきたのは、小さな少女だった。
年の頃はミオとそう変わらないだろう。肩まで伸びた髪を揺らし、姉の姿を見つけてぱっと笑顔を咲かせたものの、その後ろにいる見知らぬ二人へ気づくと、少し驚いたように足を止めた。
「ただいま、リーシャ」
ソアラも笑い返す。
「紹介するね。こっちはジスさんと、ミミちゃん。お姉ちゃんの──」
そこで、言葉が止まった。
「…………」
ソアラは僅かに視線を泳がせ、ジークとミオの顔を窺った。
何と紹介すればいいのか。
少なくとも、自分にはもうその言葉を名乗る資格などないような気がした。
だが。
「仲間だ」
「……え?」
ジークが何でもないことのように口を開いた。
「パーティーを組んで、一緒に冒険した」
「…………」
ソアラはジークの横顔を見つめた。
──仲間。
あれほど簡単な言葉なのに。
今は妙に重たく、胸の奥へ沈んでいった。
「そうなんですね!」
そんな姉の様子には気づかず、リーシャは嬉しそうに二人へ向き直った。
「初めまして。リーシャと申します。姉が大変お世話になりました!」
幼いながらも、きちんと背筋を伸ばして頭を下げる。
「ジスだ。こっちはミミ」
「…………」
紹介されたミオはジークの背中へ半分隠れながら、小さくぺこりと頭を下げた。
その拍子にフードが僅かにずれた。
ほんの一瞬だけ、銀色の狐耳が覗く。
「……あ」
リーシャが目を瞬かせた。
「獣人の……方ですか?」
「…………っ」
ミオの肩が小さく跳ねた。
すぐさま両手でフードを押さえ、深く被り直す。
その様子を見たジークの目が、僅かに細くなった。
「……何か問題でも?」
低く、静かな声だった。
「えっ!? あ、いえ!」
リーシャは驚いて、慌てて両手を振った。
「そういう意味じゃないです! ごめんなさい!」
そしてミオへ申し訳なさそうに頭を下げる。
「ただ、お姉ちゃんが冒険仲間を家に連れてきたの、初めてだったから……それでびっくりしちゃって」
「……そうなの?」
ミオがフードの下から少しだけ顔を覗かせる。
「はい」
リーシャは屈託なく笑った。
「もう、お姉ちゃん。お仲間と一緒なら、先に教えてくれればよかったのに。お菓子くらい用意しておいたのに」
「いや、急に決まったからさ」
「もう、いつも急な事ばっかり」
「ご、ごめんって」
軽く頬を膨らませながらも、リーシャはどこか嬉しそうだった。
「どうぞ、入ってください。古い家ですけど」
「お、おじゃまします」
促され、ミオがようやくジークの背中から出てくる。
その様子を見て、リーシャはまた柔らかく笑った。
◇ ◇ ◇
「ごめんなさい。こんな物しかなくて」
しばらくしてリーシャが卓へ運んできたのは、湯気を立てる温かなお茶と、皿いっぱいの素朴な焼き菓子だった。
「これ、私が作ったんです。上手に焼けたのだけ選だつもりですが、良ければ」
木の机へ置かれた途端、焼けた小麦と甘い香りが部屋いっぱいに広がる。
「十分だ。泊めてもらえるだけで助かる」
ジークが湯飲みを手に取りながら答えた。
「それに、夕食なら済ませてきた」
「たくさん、食べた」
ミオも自分のお腹をぽんぽんと叩いて頷く。
「そうなんですか」
リーシャは向かいの椅子へ腰掛けると、改めてミオを興味深そうに見つめた。
「ミミさんって……たぶん、私と同じくらいの歳ですよね?」
「ん?」
「それなのに冒険者なんて、すごいです……!」
尊敬するように目を輝かせるリーシャに、ミオは少し困ったように首を傾げた。
「すごくない」
「え?」
「お家、おいだされただけ……」
「…………えっ?」
リーシャの笑顔が固まった。
恐る恐るジークを見る。
「……あの」
「俺も追い出された側だ」
ジークは平然と茶を啜った。
「……二人とも?」
「ああ」
「ど、どうして……」
「深入りするな。家の問題だ」
「は、はい……」
それ以上聞いてはいけない雰囲気を感じ取ったのか、リーシャは素直に口を閉じた。
「でも」
ミオがぽつりと続ける。
「おしごと、したから。もう帰れる」
「そうなんですか?」
「うん」
今度は嬉しそうに頷く。
「ぼんさいも買う」
「盆栽?」
「ルスの」
「……?」
事情をまったく理解できないリーシャが、困惑した顔で姉を見る。
だが。
「…………」
ソアラは答えなかった。
卓の端に腰掛けたまま、ただ黙って三人のやり取りを見つめている。
妹が笑っている。
ミオも、先ほどまでの緊張を忘れたように少しずつ話し始めている。
ジークは相変わらず無愛想な顔で茶を飲んでいるが、その場から離れようとはしない。
小さな家の中には、穏やかな時間が流れていた。
祝賀会の賑やかさとはまるで違う。
静かで、温かくて。
だからこそ──。
「…………」
腰に下げた革袋の重みが、どうしようもなく気になった。
金貨八十枚。
そのほとんどが、今もそこに入っている。
どうしても手に入れなければならなかった金。
やっと手に入った金。
そのはずなのに。
今は、その重さが胸まで締めつけてくるようだった。




