第4話 さ、朝食にしましょ
ふわりと、やわらかな香りが鼻先をくすぐる。
焼きたてのパンの香ばしさ。野菜を煮込む湯気の匂い。そこに、暖炉の薪が燃えるかすかな木の香りが混ざり合って、部屋の空気を穏やかに満たしていた。
ミオにとっては、初めての匂いだった。
空腹を刺激するだけではなく、胸の奥までふっと緩ませてくれるような、あたたかくて、安心する匂い。
「……ん……」
重たいまぶたの向こうから、淡い光が差し込んでくる。
ミオはゆっくりと目を開けた。
外が明るい。
夜は、いつの間にか明けていたらしい。薄いカーテン越しに差し込む朝の陽光が、部屋の隅をやわらかな金色に染めている。
暖炉には、まだ小さな火が残っていた。赤い火種がぱちりと音を立て、そのたびに橙色の光が揺れる。冬の朝は、いつも身体を刺す寒さで目を覚ますものだと思っていたのに、今のミオの身体は冷えていない。
不思議に思って視線を胸元へ落とすと、真っ白な布団がふんわりとかけられていた。
羽毛布団だった。
見たこともないほど柔らかく、軽いのに、信じられないくらいあたたかい。少し身じろぎするだけで、包み込まれているようなぬくもりが肌に寄り添ってくる。
(……あったかい……)
奴隷部屋にあった、くず布の束とはまるで違う。
あれは寒さをしのぐためのものではなかった。せいぜい、死なれては困るから与えておく、という程度の布切れ。包まっても、そこにあるのは優しさではなく、見下すような無関心だけ。
けれど、これは違う。
ソファーで眠ってしまったミオが、寒くないようにと誰かがそっとかけてくれたものだ。
その事実に気づいた途端、胸の奥がきゅっと痛む。こんなにあたたかいのに、どうして泣きたくなるのだろう。
ミオは小さく息を吐き、自分の体温で温まった布団をぎゅっと抱きしめる。
ふと横を見ると、向かいのソファにフィオナが横たわっていた。
フィオナにも、同じように分厚い布団がかけられている。昨日の夜、あんなに苦しそうだった顔には、もう痛みの色はない。安らかな寝息を立てながら眠る口元には、ほんのわずかに笑みさえ浮かんでいるように見えた。
ミオの胸に、じんわりと熱が広がる。
ほんの数時間前まで、世界には絶望しかなかった。吹雪と追手と血の匂いの中で、もう何もかも終わるのだと思っていた。
それなのに今は、こんなにもあたたかい。
(……よかった。お姉ちゃん……)
ミオはそっと身体を起こし、姉のそばへ行こうと身を乗り出す。
けれど、足に力が入らない。
「……わっ!」
ふらりと身体が傾き、そのままソファーからずり落ちる。ぺたりと床に尻もちをつき、抱えていた布団が肩から滑り落ちた。
「まあ、大変! 大丈夫?」
明るい声が飛んでくる。
台所の方から、ひとりの女性が慌てて駆け寄ってきた。ふくよかな体つきに、優しげな目元。年の頃は五十代ほどだろうか。白いエプロンを身につけ、手には木べらを握っている。
その女性はミオのそばに膝をつくと、驚かせないように、そっと肩を支えてくれた。
「ごめんなさいね。びっくりしたでしょう? 身体がまだ本調子じゃないんだから、急に動いたらだめよ」
声も、手つきも、どこまでもやさしい。
誰かにこんなふうに心配されたのは、いつ以来だろう。
「え、っと……」
ミオは戸惑いながら、小さくうなずく。
女性はその様子を見て、ふわりと笑った。
「あらあら、可愛いわねえ。あなたがミオちゃんね? 私はロッテ。ここの家政婦なの」
「……かせいふ?」
「そうよ。と言っても、このお屋敷にはジーク様とルス様しかいないの。男ばっかりの静かな家でねえ。今朝来てみたら、こんな可愛いお客さんが眠っているんだもの。もう、びっくりしちゃって」
ロッテは楽しそうに話しながら、ミオの頭をそっと撫でる。
その手はあたたかく、声は陽だまりみたいだった。聞いているだけで、胸の奥にこびりついていた緊張が少しずつほどけていく。
その声に反応したのか、ソファの上でフィオナがわずかに身じろぎした。
「ん……ミオ……?」
「お姉ちゃん!」
ミオは反射的に立ち上がろうとする。けれど、やはり足元がふらつき、身体が前へ傾いた。
「あらあら、まだ無理はだめ。ね?」
ロッテが素早く支え、抱きかかえるようにしてミオを椅子へ戻してくれる。
そのやり取りを見て、フィオナもようやく意識がはっきりしてきたらしい。布団の中でゆっくりと上体を起こし、自分の身体にかけられた分厚い布団を見下ろす。
そして、それが何を意味するのかを理解したのだろう。
フィオナの瞳が、小さく揺れた。
「……ここは……?」
「お屋敷の中よ。ジーク様があなたを治療してくださったの。二人とも、ぐっすり眠っていたわ。よほど疲れていたのね」
ロッテの言葉に、フィオナは息を呑む。
その直後だった。
ぐぅ、と小さな音が部屋に響く。
フィオナのお腹からだった。
「っ……!」
フィオナは顔を真っ赤にして、布団の端でお腹を押さえる。
ミオはそれを見て、思わずくすっと笑ってしまった。
たったそれだけで、部屋の空気が少しやわらぐ。
「あらあら。なんて可愛らしい合図かしら」
ロッテは嬉しそうに目を細め、手をぱんと合わせる。
「さあ、朝食にしましょう。ちょうど焼き上がるころよ」
そう言って、ロッテは湯気の立ちのぼる台所へ戻っていく。
部屋には、またあのやさしい匂いが広がった。
あたたかな光。
やさしい人の声。
美味しそうな香り。
それは、ミオが生まれて初めて、朝というものを怖くないと思えた光景だった。




