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第3話 ちょこまかと動くな

 屋敷の扉が開いた瞬間、ミオは別の世界へ迷い込んだような錯覚に襲われる。


 暖かい。


 ただ、それだけのことなのに。


 指先を刺していた冷気が、すうっとほどけていく。頬に張りついていた寒さも、耳の奥まで入り込んでいた風の痛みも、部屋のぬくもりに触れた途端、少しずつ遠ざかっていった。


 吐き出す息は、もう白くない。


 そのことに気づいた瞬間、ミオの小さな身体が小刻みに震えた。寒さのせいではない。凍りついていた身体が、ようやく自分のものに戻ってくる。その感覚に、胸の奥がきゅっと詰まる。


 部屋は、決して広くはなかった。


 けれど、床にはきれいな敷物が敷かれ、壁際に並ぶ家具は古びていても丁寧に磨かれている。置かれた物は少ないのに、どこも整っていて、乱れたところがひとつもない。


 暖炉では炎が静かに揺らめいていた。


 ぱち、と薪の爆ぜる小さな音がして、橙色の光が部屋の隅まで柔らかく照らしている。そのぬくもりは、ただ身体を温めるだけではなく、冷えきった心の内側にまで染み込んでくるようだった。


 ミオにとって、それは初めて見る光景だった。


 前にいた屋敷にも、きっとこういう部屋はあったのだろう。けれど、奴隷が足を踏み入れることを許される場所ではない。泥と藁と、湿った布団の匂い。薄暗い檻の中で身を縮めて眠る生活しか知らないミオにとって、この部屋はあまりにも眩しい。


 まるで、夢の中にある場所みたいだ。


「どうぞ、こちらへ。暖炉の前があたたかいですよ」


 ルスが穏やかに声をかけ、ミオの背をそっと押す。


 促されるまま、ミオは暖炉の近くに置かれた椅子へ腰を下ろした。ふわりとしたクッションが背中を受け止める。たったそれだけで、張り詰めていた身体から力が抜けそうになる。


 けれど、ミオの視線はすぐに向かいのソファへ向かった。


 ルスが、姉──フィオナの身体をそこへ横たえている。


 フィオナは目を閉じたまま動かない。血の気の失せた顔は、暖炉の光に照らされてもなお白く、胸元がかすかに上下していることだけが、生きている証だった。


「おねえ、ちゃん……!」


 ミオはたまらず椅子から降りようとする。


 その瞬間、冷たい声が飛んだ。


「──ちょこまかと動くな。そこに座っていろ」


 鋭い声だった。


 振り返ると、先ほどの黒髪の青年──ジークが、いつの間にか部屋の入り口に立っている。


 白いシャツに黒いコート。裾にはまだ雪がうっすら残り、肩から下げた革袋の口からは薬草らしき束が覗いていた。外の吹雪から戻ってきたばかりなのだろう。けれど、その表情に寒さの色はない。


「邪魔だ。大人しくしてろ」


 言い方はひどく冷たい。


 けれど、隣に立つルスがすぐにミオの肩へ手を添え、柔らかな声で補う。


「ミオ様の足も、かなり冷えております。まずはご自身のお身体を温めてくださいませ」


「でもっ……お姉ちゃんが、死んじゃう……!」


 絞り出すように叫ぶ。


 怖かった。


 何もできない自分が悔しかった。


 目の前でフィオナがいなくなってしまうかもしれないのに、ただ座って見ていることしか許されない。その事実が、ミオの胸を締めつける。


 それでも、ジークはミオの訴えに目も向けない。


 彼は無言のままソファの傍らに膝をつき、フィオナの血に染まった脇腹へ手をかざす。


 その瞬間、部屋の空気がぴんと張り詰めた。


 ミオの小さな耳が、ぴくりと跳ねる。


 音がしたわけではない。風が吹いたわけでもない。けれど、何かが変わった。暖炉の熱とも、吹雪の冷気とも違う、不思議な気配がジークの指先へ集まっていく。


 淡い光が灯る。


 氷の結晶が静かに息づいているような、青白く、繊細な輝き。


 その光はふわりと舞い上がり、フィオナの傷口へ吸い込まれるように溶け込んでいった。


 シュウ、と微かな音がする。


 肉の焼けるような匂いが一瞬だけ漂い、フィオナが意識のないまま苦しげに喉を鳴らした。


「お姉ちゃん……!」


「うるさい。無駄に騒ぐな」


 短く制され、ミオは両手で口を押さえる。


 痛そうだった。


 見ているだけで胸がぎゅっと縮む。けれど、フィオナは目を覚まさない。深い眠りの底に沈んだまま、か細い呼吸だけを繰り返している。


 ジークの指先で光がほどけ、また集まる。


 傷口に触れているわけではない。それなのに、裂けていた皮膚が少しずつ閉じていき、赤黒く濡れていた脇腹から血の色が薄れていく。


 ミオは息をすることも忘れて見つめた。


 やがて、光が消える。


 フィオナの脇腹には、もう傷口が残っていなかった。


 裂けた皮膚も、滲んでいた血も、まるで最初から何もなかったかのように消えている。


「……お姉ちゃん……?」


 呆然と呟く。


 こんなの、見たことがない。


 ミオの知っている治療は、汚れた布で傷を押さえることくらいだった。痛みに耐えて、熱にうなされて、それでも駄目なら……もう。それが当たり前の世界で生きてきた。


 だから、目の前で起きたことが現実だとは、すぐには信じられない。


「……いまの、魔法?」


 ジークは答えない。


 ただ軽く手を振ると、残っていた光が霧のようにほどけ、部屋の空気に溶けていく。


「ルス。後は頼む」


「かしこまりました」


 ルスは静かに頷き、それからミオの前に膝をついた。


「少しだけ我慢してくださいね。足を拝見いたします」


 優しい声に、ミオは小さくうなずく。


 あらためて足元を見ると、自分の足は青白く変色し、ひび割れた皮膚の間から血が滲んでいた。雪の中を走っていたときは、痛みを感じる余裕もなかったのだろう。今になって、じんじんと鈍い熱が広がってくる。


 けれど、その痛みさえ、どこか遠くの出来事のようだった。


 お姉ちゃんは助かった。


 その事実だけで、胸がいっぱいになる。


 ぽろり、と頬を何かが伝った。


 溶けた雪ではない。


 ミオは慌てて袖でそれを拭い、ジークの背中へ顔を向ける。


 ありがとう。


 そう言いたかった。


 けれど、ジークはもう部屋の出口へ向かっている。その背中は一度も振り返らず、扉の向こうへ消えていった。


 ミオの小さな声は、喉の奥で行き場をなくす。


 暖炉の炎だけが、ぱちりと静かに爆ぜた。

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