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第2話 野良犬でも紛れ込んだかと思ったら

 扉が軋む。


 ぎい、と細く引き延ばされた音が、小屋の中の静寂をゆっくり裂いていった。


 少女は息を呑み、ミオを抱く腕に力を込める。扉の前へ押しつけておいた木箱が、ずるりと床を擦って横へ滑っていく。少女たちにとっては最後の抵抗だったそれも、外にいる何者かにとっては、邪魔な枝葉を払う程度の障害にすぎないらしい。


 やがて、細く開いた隙間から白い風が流れ込む。


 吹雪は小屋の中へ一気に入り込み、壁際で身を寄せ合う姉妹の肌を容赦なく刺した。ミオが小さく身を震わせ、少女は反射的にその身体を抱き寄せる。


 扉の向こうに立っていたのは、魔物ではない。


 追手でもなかった。


 黒髪の青年だった。


 長身で、痩せた体つき。肩口まで伸びた漆黒の髪が目元にかかり、その表情を隠している。けれど、髪の奥に覗く灰色の瞳だけは、吹雪の中でも妙に冷たく光って見えた。


 青年は小屋の中へ視線を落とす。


 壁際で身を寄せ合う姉妹を見ても、驚きはない。憐れむ様子も、怒る気配もない。ただ、物置に紛れ込んだ何かを確かめるような目で、二人を見下ろしている。


「……野良犬でも紛れ込んだかと思ったら」


 吐き捨てるような声。


 その一言に、少女は反射的にミオをかばおうとした。だが、身体がついてこない。腕に力を込めた途端、脇腹の傷が焼けるように痛み、視界がぐらりと揺れる。


 膝が床に落ちた。


 それでも少女は顔だけを上げ、青年から目を逸らさない。


 怖い。


 けれど、せめてミオだけは。


「あの……お願い、です」


 凍えた喉から、かすれた声を絞り出す。


「少しだけ……雪が止むまでで構いません。ここに、いさせてください……」


 自分が助かるとは、もう思っていなかった。


 身体の熱はどんどん失われている。傷口を押さえる手にも力が入らず、指先の感覚も遠い。


 それでも。


 この子だけは。


 ミオだけは、どうにか。


 少女は血のにじむ唇を震わせながら、必死に頭を下げようとする。


 青年の灰色の瞳が、わずかに細まった。


 そして、短く告げる。


「……ダメだ」


 容赦のない声だった。


 吹雪よりも、床の冷たさよりも、その一言のほうがずっと冷たい。


 少女は言葉を失う。


 代わりに、小さな身体が前へ出た。


「おねえちゃんが……ケガしてるの……!」


 ミオの声は震えている。


 それでも、その瞳だけは真っ直ぐだった。


「包帯だけでも……ください……!」


 青年は表情を変えない。


「包帯でどうにかなる傷じゃない」


 淡々と、事実だけを突きつけるような声音。


「何度も言わせるな。ダメだ」


 ミオの肩がびくりと震える。


 少女は妹を抱き寄せようとしたが、腕が思うように動かない。冷えと失血のせいで、身体のあちこちが自分のものではなくなっていくようだった。


 青年は一瞬だけ、姉妹の足元へ目を落とす。


 錆びついた足枷。


 血に濡れた裸足。


 痩せた腕と、青ざめた唇。


 それでも青年は何も言わず、踵を返した。


 扉が閉まる。


 小屋の中に、冷たい音だけが残る。


 やがて足音も遠ざかり、吹雪の唸りだけが耳に戻ってきた。


 少女はしばらく、閉ざされた扉を見つめていた。


 それから小さく息を吐き、ミオへ顔を向ける。


 笑ったつもりだった。


 うまく笑えていたかどうかは、自分でもわからない。


「……行こう、ミオ」


「でも……お姉ちゃんが……」


 ミオの声が涙に濡れる。


 少女はゆっくりと首を横に振った。


「ここにいたら……迷惑になるだけだから……」


 壁に手をつき、どうにか立ち上がろうとする。


 けれど、その瞬間、世界の輪郭が白く滲んだ。


 あれ、と少女は思う。


 床が傾いている。


 違う。


 自分が倒れていくのだ。


 ミオの顔が遠ざかる。何かを叫ぶ声が聞こえた気がする。けれど、それもすぐに吹雪の音へ溶け、意識の縁が黒く沈んでいく。


「お、お姉ちゃんっ!」


 ミオの悲鳴が響いた。


 少女の身体が冷たい床へ崩れ落ちる、その直前。


 誰かの腕が、そっと彼女を受け止める。


 そこにいたのは──老人だった。


 白髪をきれいに撫でつけた、背筋の伸びた老紳士。深いしわの刻まれた目元には穏やかな光が宿り、仕立てのよい服の上から外套を羽織っている。その姿は、この小さな物置小屋にはひどく不釣り合いに見えた。


 老人は倒れかけた少女を当然のように抱きとめると、ミオへ静かに視線を向ける。


「こちらへ」


「……え?」


「お二人とも、早くお屋敷の中へ参りましょう」


 ミオはぽかんと口を開けた。


 それから、慌てたように首を振る。


「で、でも……さっきのお兄さん、ダメって……」


「さっきのお兄さん?」


 老人は一瞬、不思議そうに瞬きをする。


「ジーク様が、ですか?」


 ミオが小さくうなずくと、老人は少しだけ考え、それから困ったように苦笑した。


「ああ……なるほど。申し訳ございません。あの方は少々、言葉が足りないところがございまして」


「ことばが……たりない?」


「ええ」


 老人は少女を抱え直す。その動作は驚くほど滑らかで、年齢を感じさせない。


「ジーク様は、こう仰っておられました」


 穏やかな声で、老人は続ける。


「『この寒さの中、物置で休ませろなどという馬鹿がいた。さっさと屋敷の暖炉の前に連れてこい。俺は治療の準備をする』──と」


 ミオの目が丸くなる。


「……じゃあ」


 小さな唇が震えた。


「助けて……くれるの?」


「もちろんでございます」


 老人は、まるでそれ以外の答えなどあり得ないというように微笑む。


「さあ、お急ぎください。お姉様の身体が冷えきってしまう前に」


 ミオは一度、姉の顔を見た。


 青白い頬。浅い呼吸。それでも老人の腕の中で、姉は確かに生きている。


 ミオはこくりとうなずいた。


「……うん」


「私はルスと申します。足元にお気をつけて」


 白髪の老人──ルスは、少女を軽々と抱えたまま小屋を出る。


 外では、まだ雪が降り続いていた。


 吹雪は相変わらず激しく、夜の森を白く荒れ狂わせている。けれど、その向こうに淡い灯りが見えた。


 屋敷の明かりだ。


 窓から漏れる暖かな光が、雪の中にぼんやりと浮かんでいる。


 ミオは一瞬だけ足を止めた。


 あまりに遠く、まるで別の世界のもののように見える。


 けれど次の瞬間には、ルスの背を追って小さな足を踏み出していた。


 凍える夜の底で。


 その灯りだけが、消えかけた希望のように揺れている。

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