第38話 帝国全土を巻き込む、かつてない大騒動
人気のない草原を、ひときわ鋭い風が駆け抜けた。
ざわり、と一斉に草が伏せる。
次の瞬間、地面を眩い光の奔流が走った。
幾筋もの光は縦横無尽に交差しながら複雑な紋様を描き、巨大な魔法陣を形作っていく。完成した術式は音もなく地面を離れ、そのまま淡い輝きを放ちながら宙へと浮かび上がった。
空間が揺れる。
真夏の熱気に歪む蜃気楼のように、目の前の景色がぐにゃりと捻じ曲がった。
やがて、その中心に漆黒の球体が出現する。
光さえも呑み込むような黒。
それは一度だけ、心臓のように大きく脈打った。
世界そのものを吸い込むかのように周囲の空気が引き寄せられ──
静かに、破裂する。
爆音も、衝撃もなかった。
ただ淡い光の粒だけが無数に舞い散り、草原を幻想的に染め上げていく。
そして光が消えたとき。
そこには、先ほどまで影も形もなかったはずの二人が立っていた。
ジークと、ミオである。
「……いまの、なに?」
草の上へふわりと降り立ったミオが、目をぱちぱちと瞬かせる。
風に銀色の髪が揺れ、その頭上では狐耳が興味深そうにぴくりと動いた。
「すごかった」
「空間圧縮転送陣だ」
ジークは何事もなかったかのように肩を回しながら、淡々と答える。
「七大禁術のひとつでな。空間を圧縮して、指定した場所まで一瞬で移動できる」
「へぇ……」
ミオが感心したように頷く。
「ただ、術式の座標計算を少しでも間違えると、世界の半分が吹き飛ぶ」
「…………」
ぴたり、とミオの動きが止まった。
狐耳も固まっている。
「……それ、つかってよかったの?」
「今は緊急事態だ」
ジークは真剣な表情で言った。
「ルスが本気で怒った」
「……うん」
ミオも神妙な顔で頷く。
「いちだいじ」
「ああ。死活問題だ」
ごくありふれた朝の会話のような調子で、世界の半分が消し飛ぶ禁術についてさらりと話す二人。
そのあまりにも無頓着なやり取りが、かえって恐ろしい。
足元には、露を残した草原がどこまでも広がっていた。
陽を浴びて草葉は柔らかく輝き、遠くでは鳥がさえずり、近くでは小さな虫たちが葉から葉へと跳ねている。
穏やかで、平和そのものといった景色。
そんな世界の片隅に、つい先ほど破滅級の魔法が行使された余韻だけが、場違いな異物のように残されていた。
「さて」
ジークは辺りを見回すと、遠くに見える丘の向こうへ顎をしゃくった。
「帝都はあっちだ」
「ていと?」
「ああ。行くぞ」
二人は草を踏み分けながら歩き始めた。
しばらく進むと、緩やかな丘の向こうに、幅の広い石畳の街道が姿を現す。
道は多くの人々で賑わっていた。
大きな荷馬車がゆっくりと行き交い、金属で補強された車輪が石畳の上でごとごとと音を立てている。その脇では、甲冑を身に着けた衛兵たちが槍を携え、周囲へ鋭い目を配りながら隊列を組んで歩いていた。
街道の分岐に立てられた道標が、流れる風に晒されている。
そこに刻まれていた文字は──
《帝都ルクセンシュタイン》
ミオが足を止め、目を丸くした。
「ここが……ていこく?」
「まだ帝都の外だ。だが、ここからなら半刻もかからん」
「おうこくと、ちがう国?」
「ああ」
ジークは道の先へ視線を向けたまま答える。
「屋敷のあるラガーレイ王国とは、長年冷戦状態にある国だ」
「れいせん?」
「表向きは戦っていないが、お互いに隙があれば攻め込もうとしている関係だ」
「なかよくない?」
「かなりな」
ミオは少し考えるように首を傾げる。
「だいじょうぶ?」
「何がだ」
「ジークさま、おうこくのひと」
「屋敷があるのがまたまた王国の領土なだけだ。別に俺は王国にも帝国にも肩入れはしていない」
「なるほど」
ミオは納得したように頷いた。
本来、仕事を探すだけならば、王国の王都へ向かうのが最も手っ取り早い。
冒険者ギルドも大きく、依頼の数も多い。屋敷からの距離も遥かに近かった。
しかし、王国内でジークはあまりにも目立ちすぎる。
かつて戦場を揺るがした英雄にして、今なお王国の上層部から警戒と畏怖を向けられる存在。
不用意に王都へ姿を現せば、仕事を探すどころか、王城から使者が飛んでくる可能性さえあった。
ゆえに、ジークが選んだのは遠く離れた敵国。
自分の顔を知る者が少なく、なおかつ冒険者として仕事を探せる帝都ルクセンシュタインだった。
「帝国にも冒険者ギルドはあるはずだ」
ジークは歩きながら、今後の予定を説明する。
「適当な偽名で登録して、二、三日ばかり仕事をする。報酬を持って帰れば、ルスも少しは機嫌を直すだろう」
「うん」
ミオが元気よく頷く。
「ざいりょうも買ってかえる」
「材料?」
「そうこ、こわした」
「……そうだな」
無邪気に笑うミオの瞳が、陽を受けてきらきらと輝いていた。
ジークはちらりとその横顔を見る。
自分たちが物置を吹き飛ばしたという自覚は、どうやら一応あるらしい。
反省しているかどうかは怪しいところだが。
「倉庫の中にあった道具も買い直しておくか」
「うん。ぼんさいも」
「……あれは、同じ物が売っているとは限らん」
「じゃあ、にたやつ」
「簡単に見つかるとは思えんな。三十年物だそうだぞ」
「そっか……」
ミオの耳がしゅんと垂れる。
それを横目で見たジークは、ほんのわずかに沈黙したあと、小さく息を吐いた。
「探すだけ探してみるか」
「うん!」
途端に耳がぴんと立つ。
その様子を見て、ジークは微かに口元を緩めた。
「……さて、行くか」
「うん!」
二人は並んで石畳の街道を歩き始める。
家を追い出された孤高の悪魔と、その小さな悪友。
この時の二人には、ただ仕事をして、壊した物置の修理代を稼ぐという程度の目的しかなかった。
帝国をどうこうしようという野望などない。
騒ぎを起こすつもりもない。
目立つつもりなど、もちろん皆無だった。
しかし。
ジークとミオが帝都ルクセンシュタインへ足を踏み入れた、その瞬間。
帝国全土を巻き込む、かつてない大騒動の幕が──
静かに。
だが、確実に開かれた。
──のかもしれない。




