思いがけない時に、それは襲いかかる。
見つけた」
上靴に履き替えて、気持ちを整えた。
速く!
(真人、走れ!)
廊下の騒めきが、一瞬遠のいた。
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下駄箱を離れると、すぐに走り出した。
右手に、上の階への階段がある。
(よし、さっさと上れ)
(で、どうする? まずは一年生の教室を探さないと)
手すりを掴みながら、階段を上った。
(彼女に会いたい!)
「一年生教室」と書かれた案内板があった。
(あと少し!)
廊下を走っていたら、前方に先生が立っていた。
すり抜けようとしたが――
「待ちなさい!」
(今それどころじゃないんだが!?)
「はい?」と振り返りながら、無理やり笑顔を作った。「何かご用ですか?」
「あなた、転入生?」
「は、はい……たぶん」
(他を当たれ!俺には時間がない!)
「名前は?」
「伊藤真人です」
「伊藤?」
少し間があった。
廊下に沈黙が落ちた。
でも生徒たちのざわめきは続いている。
(気まずいし遅刻してるし!何か言ってくれ!)
「伊藤くん」と先生が言った。教科書を両手で抱えていた。「一緒に来なさい」
「教室まで案内するわ」
(それはありがたい)
「わかりました」と俺は答えた。
廊下を歩きながら、ふとひらめいた。
(今聞いちゃえばいいじゃないか!)
「あの、先生?」
「花先生よ」
「あ、花先生」俺は頭の後ろをかいた。「一つ聞いてもいいですか。花岡結菜さんって、何組かご存知ですか?」
「花岡結菜?」
「はい」
「知ってるわよ。一年三組」
(ラッキー!)
「彼女、今日熱で休んでるけど」
……えっ。
「あの、なんでご存知なんですか、花先生?」と俺は戸惑いながら聞いた。
「なんで、って」と先生は指を唇に当てた。
微笑んで、俺を見た。
「私が一年三組の担任だから」
「あ……そうですか」
(ラッキー……)
── ── ──
数分後。
一年三組の教室の外の壁に背中を預けて、俺は足をトントンと鳴らした。
(まあ、今日は自己紹介だけ済ませよう)
思わず、くすっと笑った。
(明日、ユナちゃんに会える!)
にやにやが止まらなくて、よだれまで垂れてきた。
「いいか、みなさん」
教室の中から先生の声が聞こえた。口を拭った。
「遅れた転入生を紹介します」
(やれる、真人!)
一歩踏み出そうとして、止まった。
(ちょっと待て。どうやって自己紹介するんだ? 鞄もない、クラスカードもない、このまま入ったら不良認定されないか!?)
変な想像が浮かんだ。
バットを肩に担いで、爪楊枝を口に咥えた俺が教室に入る。
「よォよォよォ!」と叫んで、自分を指差す。「兄貴の伊藤あにきが来てやったぞ! 困ったことがあれば何でも頼って来い!」歯がキラッと光った。
── ── ──
俺はその場でしゃがんで、両手を頭の上に置いた。
(どうすればいい……)
……
ひらめいた。
(これなら行ける!)
「伊藤くん、まだ来ないの?」
「黙りなさい、高橋先生!」と花先生の声。「伊藤くん、早く入りなさい、ホームルームが始まるわよ」
俺は覚悟を決めた。
(やれる、真人!)
少女漫画の主人公みたいに颯爽と入場するつもりだった。
イトトレイツ全開で、教室中の女子の心臓をバクバクさせる登場だ。
でも、現実はそうはいかなかった。
目を閉じたらもっと格好よく見えると思って、ネクタイを少し緩めてシャツの首元を開け、ブレザーの袖を前腕にたくし上げた。
ごくりと唾を飲んだ。
教室に踏み込んだ。「ウッス!」とネクタイをさらに緩めながら、指ピストルをぶっ放した。バックでキラーンという効果音が響いた。
教室は静まり返っていた。
誰も声を発しない。
(少女漫画の入場成功だ。みんな息を呑んでいる)
ゆっくりと目を開けた。
そして――
俺は、息をのんだ。
* * *
静かな教室に、窓から陽の光が差し込んでいた。
生徒たちは俺を睨みつけていて、数人はもうひそひそと囁き合っている。
でも俺の目には、一人しか映っていなかった。
最後列の三番目の席。
花岡結菜が、そこにいた。
空を眺めながら、頬に手を当てていた。
瞳は薄い青。
暗めの黒にも見えるが、差し込む陽光がその色を浮かび上がらせていた。
長い黒髪の毛先は、アクアブルーのグラデーション。
窓から入る強くも穏やかな風に、ふわりと揺れていた。
(もし今日彼女を見ていなかったら……俺の心はどうなっていたんだろう)
彼女しか見えなかった。
心臓が早くなりすぎて、自分が何を見ているのか理解が追いつかなかった。
それでも、わかった。
彼女は、あのころよりずっと美しくなっていた。
(俺は……本当に彼女のこと――)
え?
急に、教室が遠くなった。
胸の奥に、奇妙な痛みが走った。
「伊藤くん!?」花先生の声が遠く聞こえた。
俺はドアのノブを掴んで、体を支えた。
やがて、痛みが消えた。
心拍が落ち着いた。
呼吸が戻ってきた。
(……大丈夫か?)
「少し待ってください!」と手を上げた。「大丈夫です!」
手を離して、ゆっくり体を伸ばした。
視界が戻った。
クラス全員が俺を見ている中で、ため息をついた。
そして気づいた。
鼻から血がゆっくりと垂れて、床に落ちていた。
首を傾けて血をぬぐい、手のひらを見つめた。
(そうか……デッドリフトのせいだ。俺はバカだな――)
「大きくなったら――」
「結婚しよう――」
記憶が頭の中でフラッシュした。
そのまま、俺は後ろ向きに倒れた。
── ── ──
目を開けると、天井のファンがゆっくり回っていた。
まるで俺の神経を静めるように。
肘で体を起こした。
白いカーテンに囲まれた簡易ベッド。
腰はまだ少し痛いが、朝よりはずっとましだ。
(保健室だ)
カーテンの隙間から時計を覗いた。
午後四時過ぎ。
(本気か)
数分後、ベッドから立ち上がった。
体が、朝よりも軽い。
(軽い!)
カーテンをそっと横に引いた。
白い部屋、三台のベッド、棚に処方箋の紙が所々に置かれている。
二階の部屋で、窓から運動場が見える。
棚の上にブレザーが置いてあった。
隣に、メモと飴の袋。
着込んだ。時間が経ったせいか生地が少し柔らかくなっていて、体に馴染んだ。
飴の袋を開けて、一粒口に入れた。
舌の上で転がすと、眉をひそめた。
(甘っ! 人工ぶどう味じゃないか)
一気に飲み込んだ。
(死ぬかと思った)
メモを読んだ。
── ── ──
伊藤くん、目が覚めたら。
置いてある飴を一粒食べてね。元気が出るから!
花先生より
── ── ──
(先生……大丈夫ですか)
メモを握り潰した。
保健室を出ようとしたとき、廊下から足音が聞こえた。
ドアが開いた。
花先生だった。
ブラウスとスラックス。片手はポケットの中。もう片方に、火のついていない煙草。
「あ、起きた?」
「はい、ありがとうございました!」と少し頭を下げた。
「そう」と先生はほっとしたように首を傾けた。
「これからどうするの?」
「もうとっくに放課後よ。部活の生徒以外はほとんど帰ってる」
「じゃあ、俺も帰ります」
「わかった、気をつけてね」
先生は続けた。
「そうだ!」
「伊藤くん、中学でバレーがすごく上手だったって聞いてるんだけど」
「は、はい。中学でチームと一緒に決勝まで行ったことがあります。それが何か?」
「うちのバレー部に入るつもりはある?」
(今すぐ?)
「じゃあ今から申込に――」
「ダメよ、伊藤くん」
先生は首を傾けて、笑った。
「今日は家に帰って休みなさい」
「明日、申込書を渡すわね」
先生の柔らかい声と視線に、俺はぱっと目をそらして小さく言った。
「は、はい……じゃあ今日は帰ります」
「ええ」
── ── ──
保健室を出て、下駄箱へ向かった。
誰もいなかった。
上靴を脱いで、自分の靴に履き替えた。
ロッカーを閉める前に、ユナちゃんの下駄箱をちらりと見た。
校門を出た。
足取りが、少しずつ定まっていった。
拳を握った。
(明日こそ、必ずユナちゃんに話しかける!)
── 第三章・了 ──




