約束たち
「ありがとうございます!」
玄関のドアを閉めながら、俺はそう叫んだ。
箱を抱えてテーブルへ走る。
そして――
一秒でラッピングを剥がした。
中身は、新しい制服。
東京都立泉高校の校章が胸ポケットに刺繍された、黒のブレザー。
白シャツ、黒スラックス、コットンのソックス。
数分後、俺は制服を着込んでいた。
ブレザーの返し衿を整えながら、時計をちらりと見る。
――午前七時十分。
まだ余裕があるな。
軽く鼻歌を歌いながら、キッチンへ向かった。
「ん~……ん~……」
マグカップをカウンターに置いて、コーヒーの瓶を手に取る。
硬い蓋をひねって、開けた。
数秒後、ブラックコーヒーが完成。
(……何か忘れてる気がする)
あ。
七時二十分だ!
「急がないと!」
マグカップを両手で掴んで、一気に飲み干した。
喉を通るたびに、酸っぱさが広がる。
(なんで飲んだんだ俺……)
でも、悪くない。
玄関に駆け込んで、靴を履いた。
ドアを開けると――
黒スーツの男が、まだそこに立っていた。
「……えっ」
* * *
「なんでまだいるんですか」
俺がぼやくと、男はぴしっと背筋を伸ばした。
「伊藤様、学校まで距離がございますので、お車を――」
(ストーカーか。帰れ)
「大丈夫です。自分で行けます」
ドアを閉めると、オートロックがかかった。
(昨日のあの音楽、頼む……)
エレベーターのボタンを連打する。
すぐ到着。乗り込んだ。
(よし。あとはキーカードがあれば――)
ポケットを探った。
……ない。
(嘘だろ!? キーカード忘れた!?)
セキュリティゲートが目の前に立ちはだかっている。
今日の登校、詰んだ――
と思ったその瞬間。
ゲートが横にグイッと動いた。
「えっ!?!?」
黒スーツの男が二人、力ずくでゲートをこじ開けていた。
(お前ら、アホか!?)
時間がない。
二人をすり抜けて、外へ出た。
「伊藤様のお知り合いですか?」
「さあ。急いで部屋へ――」
(後で警察に通報する)
駐輪場に400ccのバイクがある。
ポケットを探ると――鍵は持ってた。
よかった。
鍵を差し込んで、エンジンをかける。
……かからない。
もう一度。
かからない。
黄色い警告灯が点滅していた。
燃料警告灯。
「……さっき腰痛で死んでた方がよかった」
タンクに額をゴンとぶつけて、頭をかいた。
数秒後、バイクから降りた。
両手を握って、軽く自分の頬を叩く。
「落ち着け、真人! お前はバレーボール選手だ!」
スマホを確認すると、まだ四十五分ある。
学校まで六・八キロ、三十五分。
ランナーの構えを取った。
足を踏ん張り、息を吸う。
もし間に合わなかったら、彼女に会えない。
よし。
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2
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俺は走り出した。
* * *
── 五年前 ──
走るたびに、あの約束が蘇る。
まだ俺が十歳だったころ。
埼玉県北部の、静かな町。
公園のベンチに座って、俺は泣いていた。
涙を拭っても、拭っても、止まらなかった。
「どうしたの?」
女の子の声がした。
顔を上げると、白いサンドレスを着た子がいた。
髪には、小さな花が一輪。
「お……俺の……」
声が割れる。
「何?」彼女が小首を傾げた。
「お……お母さんが……」
「お母さんが?」
俺はうつむいた。
「……お父さんと先生が話してるの、こっそり聞いちゃって」
「何て言ってたの?」
涙が止まらなかった。
「先生が……お母さんの命は、あと一年だって……」
涙がスラックスに落ちた。
「大丈夫だよ!」
彼女は、笑っていた。
その笑顔を見た瞬間、涙が止まった。
* * *
うちは裕福じゃなかった。
でも貧乏でもなかった。
父はよく働いた。
本当に、よく。
父と母は喧嘩しなかった。
小さなテーブル、小さな家。
毎晩の食卓は、温かかった。
でも俺が十歳のとき。
母が検査入院した。
水を取りに廊下へ出た俺は、戻る途中でドアの隙間から声を聞いた。
「本気で言ってるんですか!」
父が検査結果の紙を床に投げつけた。
「申し訳ありません、伊藤さん」
父は椅子に座って、顔を手で覆った。
「……本当に、妻を助ける方法はないんですか」
先生が、少し間を置いた。
「膵臓がんです。この種類は進行が非常に速い」
「症状が出たときには、すでに末期であることが多い」
「一年前に発見できていれば、手術や治療の選択肢があったかもしれない」
「でも今は……完治は望めません」
え?
「できることは、進行を遅らせて、楽に過ごしてもらうことだけです」
「奥様には……あまり時間がありません」
俺の目が見開いた。
(お母さん……?)
父の目に涙が溢れた。
「泣かないで」
母の声がした。
「もうあまりいられないのは、ごめんね。広志」
母は父の頭を、優しくトントンと叩いた。
「私がすべきことができなかった、ごめんなさい」
「美緒のせいじゃない」
父が、静かにテーブルを拳で叩いた。
「もっと働いていたら……二時間多く働いていたら……こんなことには――」
「やめて」
母が父の頭を、また叩いた。
「痛い!」
母はふっと微笑んで、父の目をまっすぐ見た。
「私の分の温もりも、子どもたちに渡してあげて」
父の目が、大きく見開いた。
俺の目も、同じように。
その日。
俺は心に誓った。
大切な人を、絶対に守れる人間になると。
── ── ──
一年後。
母が、死んだ。
雨が、石畳に静かに降り注いでいた。
遠くで雷が鳴った。
墓地。
黒いスーツを着た父と俺は、母の墓の前に立っていた。
「伊藤家之墓 愛する妻、そして母へ」
父は俺の肩に手を置いた。
「生きなければ、真人」
「これが、お母さんの最後の願いだ」
俺は泣きながら、うなずいた。
雷は――
鳴り続けた。
── ── ──
── 公園にて ──
お母さんは泣くなって言った。
でも俺は、あの公園でまた泣いていた。
足音が聞こえた。
顔を上げると、ユナが全力で走ってくるのが見えた。
「ユナぁぁぁ」
「真人!」
彼女は俺をそっと抱きしめた。
俺の頭が、彼女の胸に引き寄せられた。
「お……お母さんが……」
「死んだんだね」
彼女の声が、かすかに震えた。
「……ごめん」
彼女も、泣き始めた。
「ユナ……」
「俺……これからどうすればいいか、わからない。お父さんも俺も、お母さんを守れなかった」
「俺は……弱い」
「じゃあ」
ユナは俺の頬を両手で挟んで、顔を持ち上げた。
目と目が合った。
強い風が吹いた。
彼女の髪が揺れた。
陽の光が、頬に差した。
ほんのりと赤く染まった頬で、彼女は笑った。
「大きくなったら、結婚しよう!」
手の力が、抜けた。
涙が、ゆっくりと止まっていった。
まるで天使だと思った。
俺に、前に進む光と温もりをくれる存在。
「え……」
「私が奥さんになるから、ずっと一緒にいよう!」
ユナ――
その言葉は、今も耳に残っている。
俺はまだ、忘れられない。
* * *
── 現在 ──
東京都立泉高校まで、あと十五分。
(もっと速く!)
何とか、校門まで辿り着いた。
走るのをやめ、息を整えながら前を見た。
生徒は数人しかいない。
「ん?」
入学式の週は桜が咲くって聞いたのに、一本もない。
同じ制服を着た男子生徒が近づいてきた。
「すみません!」俺は頭を下げた。
「はい?」
「今日、入学式ですよね?」
彼は少し首を傾げた。
「……入学式は、一週間前でしたよ」
は?
葉っぱが、足元にひらひらと落ちてきた。
……本気で?
「ありがとうございます」
「い、いえ」
もう一つだけ聞いておこう。
「あの、なんで今ほとんど生徒がいないんでしょうか」俺はへらっと笑った。
彼は俺を睨みながら言った。
「遅刻してるからです」
「……そ、そうですね」
(予想通りだった。でもなんで睨むの)
(こいつも遅刻してるじゃないか)
怖い。
「ありがとうございました。またそのうち会いましょう、たぶん」
「はい」
俺は走って、下駄箱の前で立ち止まった。
壁に背中を預けて、ため息をついた。
スラックスのポケットに手を入れる。
(よし。一年三組の下駄箱を探さないと)
数歩歩いたら、すぐ見つかった。
「あった!」
「どこだろ」鼻歌を歌いながら、名前を探す。
「伊藤真人……伊藤真人……」
「あ、あった!」
ここが俺の下駄箱か。隣は誰の――
息が、止まった。
…………
「見つけた」
一年三組 下駄箱
【 花岡 結菜 】




