彼女への一歩
時間はすべてを変えると言う。
俺たちも、そうだった。
あれはただの子どもの約束だった。
まさかこんなにも、俺たちの現実に絡みつくとは思っていなかった。
でも今この瞬間、
俺は二百キログラムのデッドリフトに挑もうとしていた。
* * *
温かいライトに照らされた静かなジム。
壁にはポスターが貼られ、BGMが小さく流れている。
俺は片手で六十キログラムのプレートを持ち上げた。
(誰が強いって? 俺が強い!)
二か月前のことがあって、手が微かに震えていた。
あのとき二百キロを持ち上げようとして、意識が飛びかけた。
(死ぬかと思った)
それでも座って、バーにプレートを通した。
たった十秒。
プライドと十代の自尊心にかけて、絶対に空中でバーを支え続ける。
その十秒が、人生で一番長い十秒になる気がした。
十年前、寝小便をしてお母さんに死ぬほど怒られたときの十秒よりも、長い。
何度も何度も、太ももをたたく。
(準備はいいか、真人?)
バーを握る。
赤くなったタコが痛い。
前の窓を見据えた。
午前二時。
息を吸い込んで――持ち上げた。
歯を食いしばる。
あと十秒耐えたら、落としていい!
(死ぬ)
「あと二秒……」
なんでバイクと同じ重さのものを持ち上げているのか。
理由はある。
ネット動画で見たんだ。「十秒前にバーを落とす奴は男じゃない」という文言が、俳句形式で書かれていた。
俳句形式で。
……それに、一回バイクに潰されたこともある。
慎重に呼吸を整えながら、バーをゆっくり下ろそうとした、その瞬間。
背骨に、鋭い痛みが走った。
「痛っ!」
バーを床に落とした。
ソファに向かおうとしたが――気づいたらジムが遠くなっていた。
そのまま、床に倒れた。
意識が、消えた。
── ── ──
瞬きをした。
BGMはまだ静かに流れていた。
体を起こそうとしたら、ジムのライトが眩しくて目を閉じた。
伸びをした。
腰が悲鳴を上げた。
「痛い……」
ソファの上のスマホを手に取った。
午前四時。
「……二時間も経ってたのか」
「もう寝ないと」
振り返ると、バーが傾いたまま床に残っていた。
俺は、勝った。
戦争には負けたけど。
髪をかき上げて、ニヤッとした。
充電器に向かおうとして、五歩も歩かないうちに気づいた。
汗の臭いが、鼻を刺す。
「シャワー浴びてから――」
スマホが鳴った。
着信音がジム中に響き渡り、背中に冷たいものが走った。
おばさんの声が、ASMRでこう囁く。
「おいで、一緒に抱き合おう」
(あとで変える)
画面を見た。
父からだった。
(こんな時間に何だ……)
「父さん、どうした?」
「父さん、聞こえる?」
ドアが開いて、閉まる音。
女性たちのくぐもった声が止んで、静寂が戻った。
「父さん?」
「ああ! 聞こえるか?」
(何やってたんだ……)
「何かあった?」
「お前、最近全然連絡をよこさないな」
父の会社が日本最大の財閥になってから、俺たちの距離はじわじわと離れていった。
何か月も連絡がないこともある。
忙しいのはわかる。
でも週一か二週に一回くらい、電話くらいできるだろう。
しかも連絡してくるのは、こんな変な時間ばかりだ。
「何もないよ。息子の様子を見たかったのと、いい知らせがあってな!」
「いい知らせ?」
(今がその時間か……)
午前四時だぞ、おやじ。
「まあそう怒るな。かわいい息子の亮馬のことが心配でな」
俺は拳を握った。
数か月で、お母さんがつけてくれた俺の名前さえ忘れた。
お母さんのことも、少しずつ忘れていってるんじゃないかと思う。
「今、酔ってる?」
「真人だ。俺の名前は真人。忘れたのか?」
「それに、なんでお母さんのことを忘れていくんだ。世界で一番大切な人だって言ってたじゃないか」
「何してる?」
拳に力が入った。
「……浮気してるのか」
「それだけは絶対にない、真人」
飲んだアルコールを全部吐き出すような声だった。
目の力が抜けた。
(言っても無駄か)
「それで、いい知らせって何だ」
「父さん、まだいる?」
父が咳払いをした。
「ああ、聞こえてるか?」
「う――」
返事も待たず、父は続けた。
「実はな……」
(どうせたいしたことじゃない。新しい女と結婚するとか、そんなんだろう)
でも聞くだけ聞いてやる。
父親なんだから。
「ユナが三年間通う東京都立泉高校に、お前も合格したぞ」
声は、クリアに届いた。
足元の床が崩れて、花畑になった気がした。
雲が流れ、空に不思議な光が走る。
ずっと願っていたことが、叶った。
アドレナリンが一気に噴き出して、二百十キロでも持ち上げられそうだった。
── ── ──
「本当か!?」
「ああ、バレーボールでの活躍と成績のおかげだ」
「入学試験に合格した」
「真人?」
「父さん、ちょっと待ってくれ」
ミュートにした。
自分の手のひらを見ながら、笑った。
指が、ゆっくりと握り締められていく。
これでユナに会える……
五年ぶりだ……
頬が、じんわり熱くなった。
鼻歌を歌いながら、ミュートを解除した。
「父さん、聞こえる?」
通話終了ボタンを押しかけた瞬間、父が出た。
「聞こえるか?」
「聞こえてる」
「……ん?」と父が首を傾げるような声を出した。
「嬉しくないのか?」
「嬉しいに決まってる!」
「そうか……」
何かやわらかいものにスマホを擦り付けているような音がした。
(このおやじ……)
「じゃあ、そろそろ切――」
「待って!」
「何だ?」
「制服はどうするんだ?」
「制服?」
「そうだよ」
「学校の名前は何だったか」
(このダメおやじ……!)
「東京都立泉高校だって言っただろ」と少し拳を握りながら言った。
「わかった、誰かに制服を届けさせる」
「ちゃんと受け取れよ」
「わかった」
「それと」
「何だ?」
「父さん、まだ……」
「父さん?」
「な、なんでもない!」
「……そうか。じゃあ切るぞ」
「ああ」と父が言った。
「たまには会いに来い」と俺は言った。
「おやすみ」
通話が切れた。
* * *
シャワーを浴びて、私服に着替えた。
ジムを出て、地下駐車場へ向かった。
薄暗い灯りの下に、400ccのバイクが停まっている。
鍵を差し込んで、エンジンをふかした。
轟音が地下に響いた。
アクセルを踏んで、出発した。
── ── ──
自宅マンションに着いた。
五十階建ての巨大なビル。
俺の部屋は四十九階にある。
エントランスに入り、キーカードをスライドさせた。
靴と靴下を脱いで、横に置いた。
部屋は特別でも何でもない。
四LDK、白い壁、天井から温かいライトが落ちている。
キッチンの引き出しからマグカップを取り出し、ブラックコーヒーを作った。
月明かりに照らされた夜景を眺めながら、飲んだ。
太陽はまだ、暗い側にある。
正確には、暗い側にいるのは俺の方だが。
寝室に入ると、電気がつけっぱなしだった。
戦いに出かける前のままだ。
ブランケットを引き下ろすと、ネコ柄のシーツが現れた。
潜り込んで、目を閉じた。
……
(コーヒー飲んだのに、どうやって寝るんだ)
両手のひらで目を覆って、ゆっくり息を吐いた。
やがて、眠りに落ちた。
── ── ──
真っ暗だった。
目が痒くて、瞬きをした。
サイドシェルフのスマホを探したら、何かが床に落ちた。
ため息をついて、うっかりボタンを押したら、カーテンが開いた。
朝日が、目に直撃した。
顔をしかめて、指を広げて光を遮った。
目が慣れてきたら、ブランケットをベッドに放り投げた。
立ち上がって軽く伸びをして、床のスマホを拾った。
午前六時五十分。
一時間しか寝てない。
(コーヒー飲んでから――)
玄関のベルが鳴った。
こんな早朝に?
ドアを少し開けて、覗いた。
黒スーツの男が、赤い布で丁寧に包まれた箱を持って立っていた。
「どちら様ですか」
「おはようございます、伊藤様。伊藤様よりこちらをお届けするよう承りました」
(伊藤様から伊藤様へ……?)
(いじめか?)
冷や汗が出た。
「一つ聞いていいですか」
「はい、もちろんでございます、伊藤様」と軽く頷いた。
(若様とか坊ちゃんとかにしてくれ!)
「セキュリティゲート、どうやって通ったんですか?」
男は目をそらした。
(何か言えよ。こっちは気まずいんだが)
男がまた俺を見た。
「おはようございます、伊藤様」
……本気か?
「伊藤様よりこちらを――」
「繰り返さなくていいです」
男は箱を差し出した。
「ありがとうございます」
何かが頭に引っかかった。
そうだ。
「学校はいつ始まりますか?」
今日は四月十四日。
(四月十七日開始なら、なんとかなる)
「伊藤様より、本日開校とのことでございます」
え?
……
「本当ですか!?」
つまり入学式が今日――
急がないと。
── 第一章・了 ─




