5年間の帰結
午前七時五十分 月曜日 2021年2月20日
ユナちゃんは友達と笑いながら話していた。
俺はスマホの画面を消して、机の上に置いた。
(もう遅い……!)
どうやって話しかけるか、ずっと考えていた。
気づいたら二十分も経っていた。
机を一歩も離れていない。
唇をぎゅっと結んで、机を指で叩く。
(今日話しかけないと、どんどん自信がなくなる……)
うつむいたとき、記憶が浮かんだ。
── ── ──
「俺は……弱い」
「じゃあ……」
「私が奥さんになるから――
ずっと一緒にいよう!」
足が、動いた。
でも、それでも!
俺は机から立ち上がった。椅子がきしんだ。
ユナちゃんの席まで、数歩の距離を歩いた。
(ホームルームまであと五分。今話しかけないと!)
(今使える唯一の作戦は……)
拳を握った。
「ありがとう」とユナちゃんが笑って言った。「加藤さん!」
「たいしたことじゃないよ、花岡さん」
「じゃあ席に戻るね!」
「うん!」
ユナちゃんが何かに気づいた。
「あ、ちょっと待って、加藤さん!」
「何?」
「化学のノートをどうするか――」
「おはようございます、花岡さん!」
(これで行く)
「……あの、どちら様ですか?」とユナちゃんが俺を見た。
「花岡さん、私は席に戻るね」
「後でね」
「うん!」
「あのー、先週から来た転入生です。埼玉出身で、花岡さん!」
「そう」
俺は目をそらしながら、こめかみ近くの髪をくるくる回した。
「実は、この学校に知り合いがいると思っていて――」
「なんで私の名前を知ってるの?」
(えっ)
「えー、花岡――」
「なんで?」と彼女は微笑みながら言った。
(しまった)
「え、どうして知ってるか……い、いい質問ですね――」とどもりながら、両手をバタバタさせた。
(そうだ!)
「花岡さん、入学試験で満点だったんですよね?」
「だ、だから名前を知ってたんです」
「そう」と彼女は机を指で叩くのをやめた。
「は、はい!」
(危なかった……!)
「それで、何か聞きたいことが――」
彼女は少し首を傾けて、気づいたように言った。「あ、ごめん、そういえば聞いてなかった。名前は?」
(今だ!)
俺はにやりとして、大げさなお辞儀をした。
片足を後ろに引いて、手を胸に当てて、頭を軽く下げる。
「はじめまして」と俺は静かに言った。「伊藤 真人と申します」
「花岡結菜さん」
彼女は、少し黙った。
俺は彼女を見た。
「真人……あなた――?」
彼女の動きが止まった。
唇が少し開いて、やわらかい手が、俺の顔に向かってゆっくりと伸びた。
「どうしたんですか?」
「花岡さん?」
彼女は瞬きをした。
少したじろいで、かすかに笑った。「な、なんでもない! ちょっと何か思い出しただけ!」
「き、気にしないで」
(は……?)
「伊藤くん、もう席に戻った方がいいよ。ホームルームが始まるから」
「は、はい……」
* * *
振り返って歩き出したとき、生徒たちのざわめきが静まった。
(は?)
指が止まらない。
こめかみを汗が流れた。
すべてがスローになった。
心拍が跳ね上がった。
ユナと過ごした五年前の記憶が、一気に押し寄せてきた。
(は?)
(何が起きてる?)
(作戦が失敗した……いや、違う)
(なら)
(嫌だ)
(嫌だ……)
(こんなのは、嫌だ!)
(何かが変わった! 何かが変わってしまった――)
── ── ──
「私が奥さんになるから――
ずっと一緒にいよう!」
彼女の顔に、クエスチョンマークが滲んでいく。
そして、遠ざかっていく。
俺は手を伸ばした。
(嫌だ! ユナ! 行かないでくれ――)
そして……
(頼む――)
記憶が、鏡のように砕けた。
── ── ──
次の瞬間、現実に戻っていた。
生徒たちのざわめき、窓の外の鳥のさえずり、流れる雲。
俺は椅子に座って、机に突っ伏して、胸を手で押さえた。
(ぐ……心臓が……)
(彼女が俺を覚えていなかったとしたら、もっとひどかっただろう)
(一学期の八日目。高校が終わるまで、あと一〇九五日)
(彼女を信じろ)
(でも……誰を、信じればいい?)
誰かがドアをノックした。花先生だった。「みなさん、静かに。ホームルームを始めます」
「はーい」と全員が答えた。
数秒後、先生が付け加えた。
「伊藤くん、放課後そのままバレー部のコートへ行きなさい。部のマネージャーが申込書を渡してくれるから」
「わかりましたか?」
「はい、わかりました」と俺はため息をついた。
* * *
学校の構造がよくわからないまま、なんとかバレーコートを見つけた。
建物はオレンジと白に塗られていて、開いた窓から風が入ってきていた。
「面倒くさいけど、入ってみるか」
「すみません」と言いながら、ドアをスライドした。
金属ポールに張られたバレーネット。上の階の観客席からはコート全体が見渡せる。
遠くで選手たちが休憩していた。タオルを肩にかけて、汗を拭きながら話している。
(一、二、三……十六人? 補欠が多すぎる)
「すみません!」
クリップボードを持ったクリムゾンのジャージ姿の女の子が気づいて、走ってきた。
(マネージャーか?)
「えっと……あなたは?」と彼女は言った。
声が、心を溶かすくらい柔らかかった。
(本気でデジャヴ)
「伊藤真人です」
「花先生に言われてきました。俺のこと、聞いてますよね?」
「あ、あなたがそうなんですね」
彼女はクリップボードから用紙を取り出して、渡してきた。
「こちらに記入して、バレー部のメンバーとして登録をお願いします」
「わかりました」
返事を待たずに、俺は付け加えた。
「それと、あなたは……?」
彼女は腕を後ろで組んで、笑った。
「バレー部のマネージャーです」
「清水しおり!」
「素敵な名前ですね」
「では、清水さん――よろしくお願いします!」
「は、はい」彼女はクリップボードをぎゅっと握った。
「い、伊藤くん、こちらへ。部員に紹介します」
「わかりました……」
(何か言っちゃいけないことを言ったか?)
部員に自己紹介をしたあと、練習試合をやって相性を見ることになった。
「じゃあ、始め――」と俺が言いかけた。
「少し待ってください!」
振り返ると、ドアに手をついて息を整えている男の子がいた。バレー部のシャツとハーフパンツ。
「おっ、来たか」
(誰?)
「遅れてすみません、清水さん!」と彼は首の後ろをかきながら言った。
「大丈夫よ!」
「清水さん、あの人は?」
「伊藤くん、彼は同じクラスの一年三組よ」
「名前は?」
「青山春斗」
「中学でも人気のバレー選手だったみたい」
(聞いたことがないな)
「じゃあ、練習試合を始めよう!」
── ── ──
チームが決まって、青山春斗が対戦相手になった。
試合が始まってすぐ、彼はミドルブロッカーで最初の得点を取った。
(なかなかやるな)
向こうが攻めた。
うちのリベロがきれいにレシーブして、セッターへ。
俺はスパイクの準備をした。
ジャンプして、腕をボールに向けた。
スパイクした!
速すぎて、相手は足を動かす間もなかった。
ドン、という大きな音がコート中に響いた。
相手の口が、ぽかんと開いていた。
言葉が出ないようだった。
俺はこめかみの汗を拭った。
「あいつが……」
「そうみたい。最強と呼ばれるのも伊達じゃないな」
(まあ、頑張れよ)
試合は進んで、マッチポイントを迎えた。
コートの中心でスパイクの準備をしながら、ふと考えた。
(何がいけなかった? なぜ彼女は俺を認識しなかった?)
「真人!」
(住所?)
(バカか。なんで住所を知ってるんだ)
(見た目? 髪? 苗字?)
目が見開いた。指を顎に当てた。
(そうだ……髪と苗字だ!)
「真人!」
「真人!」
……
「真人!」チームのセッターが叫んだ。
「はい!?」
「ボールを渡して、俺がスパイクする!」
「嫌だ!」と彼は叫んだ。「前を見ろ!」
青山春斗がボールを中衛に送ったが、気づくのが遅かった。
「どういう――」
バン!
スパイクされたボールが俺の顔面を直撃した。
コート中に大きな音が響いた。
俺は後ろ向きに倒れた。
顔が真っ赤になっていた。
歯を食いしばりながら、手を目に当てた。
(痛っ!)
数分後、水道で顔を冷やした。
戻ったら、試合は引き分けになっていた。
清水さんに、明日から練習ドリルが始まるから今日は帰って休むように言われた。
下駄箱で靴を替えて、校門を出た。
車の音が聞こえた。
エンジンがうなり、タイヤが地面を削りながら向かってくる。
(あとは帰るだけなのに――)
まるでヤクザ映画から出てきたような車が、目の前で止まった。
ボンネットの上で、金属の人形が陽光に輝いている。
(伊藤グループのマーク?)
ドアが開いて、一人の男が降り立った。
ニコのスニーカーが、地面を踏んだ。
「おい!」
俺は目を丸くした。
「父さん……?」
── 第四章・了 ──




