第8話:空の生活
「ご主人様。東の空上空でワイバーンを一体確認しました」
背後から届いたエルノアの声は、今日の昼食を知らせるときと同じくらい穏やかだった。
俺も展望塔の長椅子に座ったまま、手にしていた本へ栞を挟む。
慌てて立ち上がる気にはならない。もう初めてではなかったからだ。
「ワイバーンかぁ……」
「いかがいたしますか?」
「なら、自動防御に任せよう。素材が取れるようにね」
「承知しました」
エルノアが言い終えるのとほぼ同時に、防御壁に光が走り、魔法陣が現れる。
そして、眩い光が一直線に空を貫き、ワイバーンを正確に撃ち抜いた。断末魔すらこちらへ届かず、その死骸は防御機構が展開した回収用の魔法陣へ吸い込まれた。
『素材回収を完了しました』
「うん。平和だな」
「そのようですね」
七体のホムンクルスが誕生したあの日から、三年が過ぎた。
その間に、俺自身も魔法を扱えるようになっていた。
書庫に残されていた魔導書を読み、訓練区画で試し、失敗して焦げた壁をエルノアに見つかって叱られる。
人に教わるのは苦手だが、本は余計な世間話をしない。黙って必要な知識だけを渡してくれるので、俺とは相性がよかった。
初めて実戦で魔法を使った相手も、ワイバーンだった。自動防御を一時停止し、墜落させる程度のつもりで風の槍を放ったのだが、巨大な翼も硬い鱗もまとめて貫き、雲の向こうまで吹き飛ばしてしまった。
「……調整が難しいな」
「はい。ご主人様が全力の一割以下へ抑えたことを確認しております」
「それでこれか……」
「見事なお手並みでした」
「褒められると、余計に自分の力が怖くなるな……」
以来、気が向いたときだけ自分で戦うようになった。
強くなること自体は悪くない。ここは異世界で、ワイバーンのような魔物がいて人の命が軽い。自衛できる力は必要だ。
三年の間に変わったのは、防衛だけではなかった。
農場は最初の数倍に広がり、小麦、玉ねぎ、人参、トマト、葉野菜、香草が季節ごとに畑を彩っている。温室では甘い果実まで採れるようになり、保存庫には食べ切れないほどの収穫物が並んだ。作業用ゴーレムも三体から三十体へ増え、土を耕すもの、水路を整えるもの、籠を抱えて収穫するものが、エルノアたちの指示で規則正しく動いている。
そして今、俺がいるのは城の南側にあるミモザが管理するガーデンエリアだった。
白い石を敷いた小道の両側では、赤や黄、紫の花々が咲き誇り、中央の噴水が陽光を細かな虹へ変えている。花の香りを含んだ風の向こうには、果てのない雲海。魔物の襲来さえなければ、絵に描いたような昼下がりだった。
「ミモザ、ここは綺麗で管理が行き届いているな」
「あるじさまのためにがんばった、です」
ミモザの見た目は子供で、口調も子供らしい。
そんなミモザは、俺の膝の上に座って柔らかな笑みを浮かべるが、それを見たエレノアが表情を険しくする。
「ミモザ、ご主人様にご迷惑ですよ」
「うぅ……あるじさま。だめ、です?」
ウルウルと瞳を潤ませるミモザを見ては、断れない。
そもそも、この程度で怒りはしないし、今ではみんな家族だと思っている。
「だめじゃないよ。好きだけいるといいよ」
「ありがとう、です!」
撫でてあげると、にへらっと表所を綻ばせる。
それを見てエレノアが呆れていたが、これくらい多めに見てあげなさい。
「新しい紅茶をお注ぎいたします」
エルノアが、銀のポットを傾けると、細い湯気とともに琥珀色の液体が白いカップを満たし、柔らかな香りが花の甘さへ溶け込んだ。
三年経っても彼女の所作には無駄がなく、金色の瞳も出会った頃と変わらず静かに澄んでいる。
「ありがとう。こうしてると、最初に望んでた生活がようやく形になった気がするな」
「現在の生活に、ご満足いただけておりますか?」
「ああ。食べ物には困らないし、眠る場所はある。誰かに愛想笑いをしなくていいし、意味のない集まりにも呼ばれない。空の上だから、近所付き合いもない。最高だ」
自分で口にしてみると、我ながら人嫌いが完成されすぎている。
けれど、ここには俺の都合を無視して踏み込んでくる者はいない。エルノアをはじめ、ローザ、リリア、ダリア、カミリア、アイリス、ヴィオラ、ミモザは皆忠実で、任せた仕事を確実に果たしてくれる。
必要以上に騒がず、秘密を探らず、俺に社交性を要求することもない。
時々、生活態度を八方向から注意されるのだけは想定外だったが、それを差し引いても不満はなかった。
「ただし、ご主人様には、もう少し規則正しい生活を推奨いたします」
「満足してるって話の直後に苦情を入れないでくれ」
「苦情ではなく、健康管理上の助言でございます」
「言い方が丁寧なだけで、逃げ道がないんだよな……」
俺が紅茶を飲むと、エルノアの目元がほんのわずかに緩んだ。
花の間を白い蝶が横切り、遠くの農場からゴーレムたちの足音が一定の間隔で響いてくる。人里の喧騒も、他人の視線も届かない。たまに空から魔獣が降ってくることを除けば、俺が求めていた平穏なスローライフそのものだった。
「ご主人様。本日のご予定はいかがなさいますか? 農場および各施設に、緊急の確認事項はございません」
「そうだな……」
背もたれへ預けていた身体を起こし、両腕を頭上へ伸ばす。骨が小さく鳴り、穏やかな風が袖の中を抜けていった。平和なのはありがたいが、座って本を読んでばかりでは身体が鈍る。魔法だけに頼るのも、少し違う気がしていた。
「今日は身体を動かしたい。久しぶりに――武術の鍛錬でもしよう」




