第2話:欲しかった生活
朝になり、広い寝室の大きなベッドの上で目が覚める。
それだけのことが、こんなにも気持ちいいとは思わなかった。
会社員だった頃の俺は、目覚ましの音で叩き起こされていた。
起きた瞬間にまず時計を見る。
あと何分寝られるかを計算し、結局諦めて布団から這い出る。
顔を洗いながら今日の予定を思い出し、満員電車を想像して気分が沈む。
会社に着けばメールが溜まっていて、会議があって、上司に呼ばれて、納期に追われる。
それが当たり前だった。
みんなそうやって生きているのだから、自分もそうするしかないのだと思っていた。
けれど今は違う。
目を開けても時計を見る必要がない。
誰かに急かされることもない。
今日は何をしようか。
そんなことを考えながらゆっくり起き上がる。
それだけなのに、心が驚くほど軽かった。
今日は城の外周を探索することにした。
昨日はほとんど見ることができなかったのもあるが、画面で地図を確認しながら移動する。
「ここが農地か」
広大な城の外には土地が広がっていた。
どうみても、村ひとつ養えそうな広さがある。
試しに土を触ってみると、ふかふかだった。
明らかに肥沃である。
するとまた管理画面が現れた。
『作物選択』
小麦。芋。豆。果樹。野菜各種。
「便利すぎない?」
俺、農業経験ゼロなんだけど……。
小学校の朝顔くらいしか育てたことないんだが。
まあいい。まずは無難に芋だろう。
異世界農業物の知識によれば芋は強い。
多分。知らんけど。
俺は画面の説明を読みながら畑を耕し始めた。
幸い、農具も揃っていた。
システム補助まである。
おかげで素人の俺でも何とか形になった。
途中で何度も説明を読み返したし、種を逆向きに植えそうにもなったが、それでも少しずつ畑らしくなっていく。
不思議と嫌ではなく、むしろ楽しい。
仕事と違って誰も急かさない。
誰も文句を言わない。
誰も成果を横取りしない。
植えた分だけ結果が返ってくる。
それだけだった。
そして数日後。
「……ねぇ、早くない?」
水を上げようと出向くと、芽が出ていた。
異常に早かった。というか早すぎる。
さらに一週間後。
「いや早いって」
普通に育っているが、成長速度がおかしい。
どうやらアルカディアには農業補正もあるらしい。
ありがたい。
非常にありがたく、おかげで収穫も早かった。
収穫した芋を茹で、バターらしきものを乗せて食べる。
「うまっ」
声が出るほどにうまかった。
空の上。
誰もいない城と吹き抜ける風。
自分で育てた作物と自分で作った飯。
仕事の電話もなく、上司も後輩もいない。
会議もなく、報告書を書く必要がない。
正直――最高だった。
夕方になり、茹でた芋を片手に城壁へ腰掛ける。
眼下には赤く染まった雲海が広がっており、太陽がゆっくりと沈んでいく。
誰もいない。
あるのは風の音だけだった。
俺はその景色を眺めながら、ようやく理解した。
異世界に来てからずっと胸の奥にあった、この不思議な満足感の正体を。
俺は冒険がしたかったわけじゃない。
英雄になりたかったわけでもない。
世界を救いたいとも思わない。
ましてや王になりたいわけでもなかった。
ただ、自分の時間が欲しかったのだ。
誰のためでもなく。
何かの義務でもなく。
自分のためだけに使える時間が。
それだけが欲しかった。
俺は空を見上げた。
赤く染まった雲の向こうに、どこまでも広がる大空がある。
思わず笑みがこぼれた。
無理に作った笑顔じゃない。
心の底から自然に浮かんだ笑顔だった。
「――これだ」
ぽつりと呟く。
風がその言葉をさらっていく。
「これが欲しかったんだよ」
そう言った瞬間、自分でも驚くほど胸の奥が温かくなった。
まるで長い間探していたものを、ようやく見つけられたような気がした。




