第1話:浮遊城アルカディア
目を開けた瞬間、俺は思わず息を呑んだ。
どこまでも澄み渡る蒼穹が、視界いっぱいに広がっている。
ビルの隙間から見上げる空とはまるで違う。電線も看板も高層マンションもない。遮るものなど何ひとつなく、天空の城を包み込むように、ただ青だけが世界の果てまで続いていた。
そして、眼下には白い雲海が果てしなく連なっていた。
まるで空の上にもう一つの大地があるみたいだった。
陽光を受けた雲は黄金色に輝き、その隙間からは遥か下の世界が見える。
深い森、連なる山脈、蛇行する川。映像でしか見たことのないような広大な景色が、今は自分の目の前に広がっていた。
思わず見惚れてしまう。
異世界に来たという事実よりも先に、その景色の美しさが頭を支配していた。
東京で暮らしていた頃、仕事帰りに見ていた景色なんて灰色ばかりだった。
コンクリートの壁に無機質なガラス窓。夜遅くまで消えないオフィスの明かり。
空を見上げても星は見えず、代わりに巨大な広告モニターが光っている。
そんな毎日が当たり前になっていた。
だからこそ、今目の前にある光景が信じられなかった。
世界って、本当はこんなに広かったんだな。
そんな当たり前のことを、俺は二十数年生きてきて初めて実感した気がする。
「ははっ、すごいな……」
もっと気の利いた感想くらい言えそうなものだが仕方ない。
綺麗な景色を前にすると、人間の語彙力なんて案外そんなものなのかもしれない。
そんな雄大な景色を前に、思わず深呼吸した。
肺の奥まで澄んだ空気が入ってくる。
気持ちいい。
ただ呼吸するだけで気持ちいいなんて、いつ以来だろうか。
「……これは、いいな」
自然と笑みが浮かんだ。
そして改めて足元を見る。
俺が立っているのは巨大な石造りの広場だった。
白銀色の石で造られた床は磨き上げられており、周囲には優美な塔や城壁が並んでいる。
まるでファンタジーゲームの城だ。
いや、城どころじゃない。
ひとつの都市が丸ごと空に浮かんでいるような規模だった。
「これが……浮遊城アルカディアか」
神様オススメの浮遊城。
まさか本当にこんなものを渡されるとは思わなかった。
俺が呆然と周囲を見回していると、不意に目の前に光が集まった。
「うおっ⁉」
反射的に身構えるも、光は一枚の半透明な画面が現れた。
「おお……」
なんだろう、このRPG感は。
その画面には文字が表示されていた。
『浮遊城アルカディアへようこそ』
『城主認証完了』
『城主クオンに管理権限を付与します』
続いて文字が切り替わる。
『飛行』
『防衛』
『施設管理』
『資源管理』
『住民管理』
『機能拡張』
etc
「……ゲームか? てか、名前はクオンって、日本での名前そのままか」
そして、画面を見て、目が一点に止まる。
住民管理? ……住民?
「まだ俺しかいないんだけど」
試しに管理画面を操作していると、『アルカディア概要』という項目を見つけた。
「お、こういうのもあるのか」
軽い気持ちで開いてみる。
すると目の前の半透明な画面に、浮遊城全体の立体映像が映し出された。
「……でっか」
思わず声が漏れた。
自分が今いる場所だから何となく広いとは思っていたが、上から全体図を見ると想像以上だった。
一言で表すなら、空に浮かぶ巨大な島だった。
島の直径は八〇〇メートルで、城壁に囲まれた中央部には白亜の大城塞がそびえている。
幾つもの尖塔が空へ向かって伸び、その姿はまるで神話に登場する天空神殿のよう。
だが、それだけではない。
城の周囲には広大な土地が広がっていた。
今いるであろう石畳の広場に居住区らしき区画、工房施設、倉庫群。
牧場用と思われる空き地。
そして驚くほど広い農地。
城というより、一つの街を丸ごと乗せた空中要塞に近い。
「これ、本当に俺一人用か?」
どう考えても一人暮らしの規模ではない。
独身会社員に東京ドームどころか、一つの自治体を渡したようなものである。
さらに映像を拡大してみる。
城の外周部には純白の城壁が何重にも築かれており、その周囲を半透明の光が薄く包み込んでいた。
見ると『防御結界:展開中』という表示が出ている。
「最初から物騒なんだが……」
異世界の空飛ぶ城だから当然なのかもしれない。
管理画面をさらに操作する。
すると今度は浮遊城の下側が映し出された。
「うおっ」
思わず変な声が出た。
アルカディアは本当に島のような形をしていた。
上から見れば巨大な円形の大地だが、下側は巨大な岩盤が何層にも重なっている。
その最下部では青白い光がゆっくりと流れていた。
まるで城全体を支える巨大な魔力炉のようだった。
『浮遊機関:正常稼働』
『高度維持中』
そんな表示まで出ている。
「いや、異世界のくせに妙にハイテクだな」
神秘と科学の中間みたいな雰囲気だった。
そして画面の端には現在高度が表示されている。
『現在高度:4000メートル』
数字を見た瞬間、俺は画面をそっと変えた。
「見なかったことにしよう」
具体的な数字を見ると逆に怖くなる。
落ちたらどうなるか想像したくない。
ただ一つだけ確かなことがある。
この浮遊城アルカディアは、俺が想像していたより遥かに大きく、遥かに規格外だった。
そして――
「……本当に誰も来られなさそうだな」
その事実だけは心の底から安心できた。
思考を切り替え、防衛機能を改めて確認する。
『防御結界:正常稼働』
『侵入者探知:正常稼働』
『ゴーレム警備:正常稼働』
『自動迎撃システム:正常稼働』
やはり物騒である。
戦いなんてせずに、平和に暮らしたいだけなんだが……。
まあ、空飛ぶ城だ。異世界だし狙われる可能性くらいはあるのかもしれない。
いや、人は来れないんじゃなかったっけ?
その辺は後で考えよう。
俺はひとまず城内を探索することにした。
広場を抜けて城内に入り、長い廊下を歩く。
大理石の柱が並び、天井には巨大なシャンデリア――と無駄に豪華だった。
「絶対これ王様の城だろ」
俺みたいな一般会社員が住む場所じゃない。
完全に身分不相応である。
しばらく歩くと大きな食堂を見つけた。
厨房もある。
さらに奥へ進むと浴場まであった。
「風呂あるのか!」
思わず声が大きくなる。
異世界転生で風呂問題は重要だ。
日本人たるもの、風呂は非常に重要だ。
文明レベルより重要と言ってもいい。
脱衣所へ入ると、壁際に大きな鏡が据えつけられていた。
「そういえば……」
転生してから、自分の顔をまともに確認していなかった。
前世と同じ身体だと思い込んでいたが、鏡を覗き込んだ瞬間、俺は固まった。
「……誰だ、こいつ」
映っていたのは、どう見ても二十歳前後の青年で、前世より明らかに若い。
黒髪に、光を宿したような黄金色の瞳。すっと通った鼻筋に整った輪郭。どう見ても二十歳前後で、贔屓目なしに見てもかなりの美形だった。
試しに頬を引っ張る。
鏡の中の青年も同じように頬を引っ張った。
「俺か……」
どうやら間違いなく俺らしい。
前世の年齢をそのまま引き継いだものだと思っていたが、身体の方は随分と若返っているらしい。しかも、ついでとばかりに容姿まで整えられていた。
「神様、こういうサービスもしてたのか……」
悪い気はしない。
むしろ、かなりありがたい。
ただ、鏡の中の爽やかな青年と、中身の俺との落差には少しだけ納得がいかなかった。
気を取り直して、俺は探索を続ける。
居住区、工房、倉庫、水源施設と、見れば見るほど生活に必要なものが揃っていた。
「神様、思ったより仕事してるな」
少しだけ評価を改める。
少しだけだ。
あの時の不穏な「あっ」がなければ満点だった。
そして倉庫を見つけた時だった。
「おお……」
中には食料が山積みだった。
小麦、米に似た穀物、干し肉、果物、保存食、調味料らしきものまである。
量もかなり多く、少なくとも数か月は困らなそうだった。
「最高だな」
思わず呟く。
転生初日で餓死の心配がない。
それだけで安心感が違う。
その日は城内を歩き回って終わったのだった。




