プロローグ
人間関係というものは面倒くさい。
いや、いきなり何を言っているんだと思うかもしれない。
だが、これは俺が二十数年生きてきて辿り着いた結論だった。
もちろん、人間そのものが嫌いなわけじゃない。
誰だって親切にされたら嬉しいし、困っている人がいたら助けたいと思うことだろう。
友達と馬鹿話をして笑うのも嫌いじゃない。
恋愛だって、できるならしてみたかった。
だが、それと人間関係が面倒くさいという話は別だ。
例えば職場。
誰かが失敗すればフォローしたし、困っている人がいれば手を貸した。残業で追い込まれている同僚がいれば、自分の仕事が終わった後でも手伝った。
別に善人だったわけじゃない。
ただ、目の前で困っている人を放っておけなかっただけだ。
だが、人間というのは不思議な生き物である。
一度助けると感謝される。
二度助けると期待される。
三度助けると当然だと思われる。
気付けば俺の机には他人の仕事が積まれ、俺が引き受けることを前提に話が進むようになっていた。
断れば空気が悪くなる。
引き受ければ次が来る。
そして、また次が来る。
都合の良い人間というのは、一度その立場になると抜け出せない。
後輩のミスを庇ったこともあった。
責任を半分背負って頭を下げてその場を収めたが、翌日にその後輩は、周囲に俺のせいだと吹聴していた。
友人だと思っていた相手に金を貸したこともあるが、返ってこなかった。
特別な悪人がいたわけじゃない。
むしろみんな、ごく普通の人間だった。
だから――嫌になった。
悪意のある人間よりも、何の罪悪感もなく他人を利用する普通の人間に。
頼られれば断れず、期待されれば応えようとする――そんな自分自身にも。
人間が嫌いになったわけじゃない。
ただ、人と関わることに酷く心が疲弊していた。
まったく、人生というゲームのバランス調整を担当した奴は絶対に人間エアプだと思う。
そんなことを考えながら、俺は深夜のオフィスでパソコンに向かっていた。
時刻は二十三時四十七分を示していた。
終電が近い。
いや、近いというか、ほぼアウトだ。
今から会社を出ても、終電に間に合うわけがない。
歩いて帰るしかない。
だから、俺は平然と仕事を続けていた。
なぜなら、この生活に慣れているから。
人間という生き物は恐ろしい。
どんな環境にも適応する。
残業、徹夜、絶望にも適応してしまう。
適応した結果、壊れていることに気付かなくなる。
「やっと終わった。……帰るか」
ようやく仕事を終えた俺は、席を立ち上がった。
肩が重い。腰が痛い。目も乾いている。
まだ二十代にも関わらず、健康診断の結果は去年から怪しく、医者からは気を付けるように言われていた。
……まあ、死ぬことはないだろう。
人間、そう簡単には死なないと――俺もそう思っていた。
少なくとも、このときまでは。
会社を出ると、夜風が肌に当たった。
都会の夜は明るい。
ビルの窓。街灯。コンビニ。自動販売機。
空を見上げても星はほとんど見えず、代わりに見えるのは高層ビルばかり。
「……静かな場所に住みたいな」
山奥でもいい。離島でもいい。
誰も来ない場所。誰にも頼られない場所。誰にも期待されない場所。
そんな場所で畑でも耕して、昼寝でもして、本でも読んで、好きな時間に飯を食って眠くなったら寝る――そんな生活。
テレビの特集で見る田舎暮らしに憧れたこともある。
自給自足生活。
古民家。家庭菜園。スローライフ。
ああいうのを見るたびに「いいな」と思う。
実にいい。素晴らしい。
人類が目指すべき到達点ではないだろうかと、少なくとも俺はそう思う。
金持ちになりたいわけじゃない。偉くなりたいわけでもない。
ただ静かに暮らしたいだけだ。
本当にそれだけなのだ。
なのに、現実はクソすぎる。
人生ってもっとこう……なんとかならなかったのか。
そう思いながら、青になった横断歩道を歩く。
そして、視界の端で何かが光った。
クラクションと人の悲鳴。
急ブレーキの音が聞こえ――目の前に車が迫ってくる。
あれ、と思った。
……なんで? 向こうの信号赤だったよな?
だが、疲れすぎて赤だったという自信がない。というか眠い。眠すぎる。早く寝かせてくれ。
ああ、コンビニでプリン買おうと思ってたんだけどな……。
冷蔵庫にビールあったっけ。
そんなことを考え――世界が真っ白になった。
◇ ◇ ◇
目を開けると、そこは見渡す限り白い空間だった。
白い霧の中に放り込まれたようにも見えるが、霧ではない。足元は確かに存在しているのに床らしい感触はなく、天井も壁も見当たらない。それなのにどこまでも白だけが続いている。
方向感覚がおかしくなりそうだった。
試しに周囲を見回してみても景色はまったく変わらない。上を見ても白、下を見ても白。まるで世界そのものが塗りつぶされてしまったような空間だった。
思わず目をこすってみるが、景色は変わらない。
少なくとも正常な現実ではない。
「…………」
混乱しすぎると人間は逆に冷静になるらしい。
今がまさにそれだった。
とりあえず確認してみる。
俺は生きているのか。
死んでいるのか。
夢なのか。
精神病院案件なのか。
「……ここ、どこだ?」
誰もいない空間で呟く。
すると。
「お。起きたね」
声が聞こえ、振り返ると――いた。
子供で、見た目は十歳くらい。
しかし、白い髪に白い服。
日本人にはありえない、金色の瞳。
可愛い顔立ちだが、性別はよく分からないが、恐らく男だろう。
というか、よく見ると足元が地面から数センチ浮いているんだが?
「…………」
「…………」
俺と子供は見つめ合う。
数秒。十秒。二十秒が経ち――そして俺は言った。
「最近の夢ってクオリティ高いな」
「夢じゃないからね? 現実逃避しないで」
即答された。
そっかぁ……。
「じゃあ死後の世界?」
「うーん、まあ正解かな。正確には輪廻の前に、君の魂をここに呼び出した」
「魂を……やっぱり死んだのか」
「信号無視の車に撥ねられてね」
「そうか」
つまり、赤信号だと思ったのは正解だったようだ。
疲れていても、視覚、脳の判断は正しかったようだ。
「うん。即死さ。ついでに顔もぐしゃぐしゃさ」
ついでは言わないでほしかったなぁ……
というか、思ったより自分の死をあっさり受け入れてしまった。
驚きはあったし、ショックもあった。
だが不思議と実感がないのは、疲れているのだろう。
死んだと聞いて最初に思ったのは、「ああ、もう会社行かなくていいんだ」だった。
人間として終わっているかもしれない。
「終わってるね」
「即答する上に、俺の心を読まないでくれる?」
「ボクは神様だから、心を読めて当然さ」
神様ね。
そもそも俺は死後らしき白い空間にいて、目の前の相手は心を読んでいる。
今さら疑う意味もないだろう。
「で、その神様が俺に何の用、です?」
「話が早くて助かるよ。それとかしこまらなくていいからね」
神様は嬉しそうに笑い、言葉を続ける。
「君は転生してもらうことになった。断る権利はないからね」
「そもそも、どうして俺が転生を?」
その疑問に、神様は答える。
「君は本来、あと六十年くらい生きる予定だったんだよ」
「六十年」
「つまり、イレギュラーで死んでしまった。だからその補填。まあ、クレーム対応とも言うね」
何と言うか、それでいいのか神様業界。
「いいんだよ。ちゃんと補償制度があるから」
神様は軽い調子で言う。
命を失った側としては、もう少し重々しく扱ってほしい気もするが。
「それで、君には転生してもらう」
「元の世界に?」
「それはできない。規則だからね。行くのは異世界。いわゆるファンタジー世界。ついでに願いを一つ叶えてあげるよ」
「なるほど……」
釈然としないが、規則なら仕方がない。で、願いか……。
少し考えてから、俺は答えた。
「誰にも邪魔されず、静かに暮らせる場所が欲しい」
神様は一瞬だけ目を丸くした。
「珍しいね。大体みんな力とか地位を望むから。異世界で俺ツエーしたいって」
俺も男だ。そういうものに興味がないわけではない。
ただ、それ以上に面倒事が増えそうだった。
なにより、俺はもう疲れたのだ。
誰かの上に立ちたいとも思わない。
静かに畑を耕して暮らせれば十分だった。
「なら、これかな」
神様が指先を動かすと、空中に一枚の画面が現れた。
そこに映っていたのは、雲海の上を進む巨大な城だった。
「浮遊城アルカディア。空を移動する君だけの城だよ」
「空の上?」
「基本的に空にあるから人は来れない。生活もできるし、畑も作れる。機能も充実しているよ。グレードアップさせれば城が拡張されていき、天空の国家も夢じゃない」
それを聞いた瞬間、ほとんど決まった。惹かれたのは天空国家じゃないからな?
誰にも邪魔されず、静かに暮らせる。
それだけで十分だった。
「それにする。当分は人と関わりたくない」
「ははっ、即決だね。それに心も疲れ切っているようだ」
神様は笑いながら何やら画面を操作し始める。
そして「あっ、やばっ」と焦った声を漏らした。
完全にやらかした人間の反応だ。
「……なあ。今、何かしたよな?」
「い、いや?」
「しただろ」
「べつに。が、害はないよ……」
ジッと見つめると、露骨に目を逸らしながら言われると説得力がない。
だが問い詰める前に足元が光り始めた。
「あ、時間だね」
「待て。何をやったんだよ!?」
「まあまあ。向こうで分かるよ。それじゃあ、良き異世界ライフを」
神様は楽しそうに手を振るが、俺は嫌な予感しかしなかった。
そして次の瞬間、俺の身体は光に包まれ、そのまま異世界へと送り出されたのだった。




