第26話:連合軍の襲来Ⅱ
俺の声が落ちると、広場を押し潰しかけていた二つの魔力が、潮のように引いていった。
ヴァルグは不満を隠さず、それでも胸へ片手を当てて頭を下げ、隣のシルフェリアも優雅に一礼したが、青い瞳には「許可さえいただければ、いつでも焼けます」と書いてあった。
「失礼いたしました、クオン様」
「ご命令には従います。ですが、気が変わられましたら、いつでもお申しつけください」
「気軽に大量殺戮の予約を受け付けるなよ……今のところはする予定はない」
相手がエンシェントドラゴンだと考えれば、これでも十分に自制してくれているのだろう。たぶん。
俺が二人を止めたのは、目の前の人間たちを助けたかったからではない。怒りのまま数千人をまとめて焼けば、事情も知らず命令に従った兵まで死ぬ。そんな雑な決着を認めたくなかっただけだ。
それに、俺の命令一つで多くの人間の命を奪うことになると考えれば、頭ごなしに命令できない。
二人が引いたことで、凍りついていた連合軍の間に僅かな安堵が広がった。
しかし、長剣を振り上げたまま拘束されている男だけは、自分が助かったと勘違いしたらしい。引き攣った顔へ再び尊大な色を戻し、俺を睨みつけた。
「貴様……いったい何なのだ。人間と魔族、どちらの味方だ!」
また、その質問か。
どうして人は、何でも二つに分けたがるのだろうか。人間でなければ魔族。味方でなければ敵。どちらにも所属せず、静かに暮らしていたい人間がいるとは考えないらしい。
しかも男の態度を見る限り、人間を選べば仲間、魔族を選べば敵というだけで、俺の答えを聞く気など最初からない。質問の形をした命令だ。
俺は心の底から嫌そうな顔をしていたと思う。実際、目の前の男と同じ側に立つ自分を想像しただけで、胃の辺りが重くなった。
「どちらの味方かは知らないけど、お前たちみたいな低俗で屑な連中の味方にはなれないな」
一瞬、男は言葉の意味を理解できなかったようだった。
やがて頬が痙攣し、泥と返り血に汚れた顔が、みるみる赤黒く染まっていく。
「き、貴様ぁ……! 我らを侮辱するか! 角を生やした獣どもに与し、同胞へ刃を向けるなど、人の皮を被った魔族と同じだ!」
「だから、俺は魔族の味方だとも言ってないだろ?」
「黙れ! 魔族など言葉を解するだけの蛮族だ! 人の村を焼き、子供を攫い、死と災厄を振り撒く穢れた化け物どもだぞ!」
男の罵声に呼応して、後ろの兵士たちからも「そうだ」「魔族を殺せ」という声が上がった。
その言葉を聞きながら、俺は焼け落ちていく街を見回した。
屋根を支えていた梁が炎の中で折れ、轟音とともに崩れ落ちる。
道端には武器すら持っていない老人が倒れ、その傍らで小さな角を持つ子供が泣いていた。街の外では、一年かけて育てた麦畑が赤く燃えている。
今、この場所へ死と災厄を振り撒いているのは誰だろうか。
「蛮族は、お前らの方だろ」
「……何だと?」
「魔族は最初から戦争を望んでいたわけじゃない。飢えない土地を求めて、お前たちと交渉しようとした。それなのに、話を聞く前から一方的に悪だと決めつけて、戦争になった」
「魔族の戯言を信じる愚か者が!」
「仮に戦争中のことを抜きにしても、今はどうなんだ。戦争に勝ったんだろ? 相手は領地を奪い返そうともせず、荒れた街を直して、痩せた土地で作物を育てていただけだ。それを数千の兵で襲い、家を焼き、戦えない者まで殺している」
一言ずつ告げるたび、胸の中にあった怒りが奇妙なほど冷えていった。
「交渉を拒み、存在そのものを悪と決めつけた。敗者が立ち上がろうとすれば、それすら許さず、さらに殺そうとする。そんなお前らの方が、よほど蛮族。言葉を知らない獣と同じだ」
広場が静まり返る。
けれど、男の目に迷いは浮かばなかった。自分の行いを省みる代わりに、唇を歪め、汚らしいものでも見るように俺を睨む。
「魔族の雌にでもたぶらかされたか、この下衆が! 人類へ仇なす裏切り者め! 貴様のような臆病者がいるから、穢れた害虫どもがつけ上がるのだ!」
男の両脇で拘束されていた将校らしき者たちも、唾を飛ばして喚き始めた。
「隊長殿のおっしゃる通りだ!」
「そこの魔王もろとも首を刎ねろ!」
「貴様の家族も同じ裏切り者に違いない! 一族すべて、晒し首にして――」
家族。
その言葉を聞いても、昔の家族の顔は浮かばなかった。
代わりに脳裏へ現れたのは、アルカディアで俺の帰りを待つ者たちだった。紅茶を淹れるエルノア。鍛錬をせがむリザ。静かに本を読むレイ。膝の上へ乗りたがるミモザ。働くホムンクルスたちと、穏やかに暮らす竜たち。
もし、この男たちがアルカディアへ来たら。
角がある。ただそれだけの理由で、俺の大切な者たちを化け物と呼び、殺そうとするのだろう。
そう考えた瞬間、男を見る俺の目から、最後に残っていた熱が消えた。
「まだ分からんのか! 今すぐ我らを解放し、その魔王を――」
「もう喋るな。反吐が出る」
右手を軽く払った。
それだけだった。
詠唱も、魔法名も必要ない。圧縮された風が薄い三日月の刃となり、音もなく広場を走る。
男と、その両脇で喚いていた将校たちの首筋に透明な線が浮かび、次の瞬間、頭が胴から離れた。
噴き上がった血が夕暮れの光を受けて赤黒く散り、身体は糸を切られた人形のように崩れ落ちる。拘束を失った長剣が石畳へぶつかり、甲高い音を響かせた。
派手な兜を被った男の首が地面へ落ち、鈍い音を立てて二度、三度と転がった。
歪んだ怒りの表情を残したまま、それは俺の足元で止まった。
誰も声を発しなかった。
人間の兵士も、生き残った魔族も、ネフィリアたちも。ただ、燃え続ける家屋の爆ぜる音だけが、異様に大きく響いていた。
「ありがとう。お前らのお陰で、もっと人間が嫌いになったな」
転がる首へ向けて呟く。
これが、俺が初めて人を殺した瞬間だった。
もっと手が震えると思っていた。吐き気がして、膝から力が抜け、自分のしたことに耐えられなくなるのだと思っていた。
けれど、何もなかった。何も感じなかった。
魔物を倒したときと同じだった。邪魔な枝を切り落としたときと変わらない。胸は痛まず、指先も震えず、目を逸らしたいとさえ思わない。
目の前の男たちは拘束されていた。今すぐ殺さなければ、誰かが死ぬ状況ではなかった。黙らせるだけなら、ほかにいくらでも方法はあった。
それでも俺は、腹が立ったから殺した。
「ご主人様……」
背後から呼びかけるエルノアの声にも、振り返ることができなかった。
人間が嫌いだと言い続けてきた。
けれど、この瞬間――俺が何より軽蔑したのは、何も感じなかった自分自身だった。




