第23話:魔王ネフィリアⅡ
地平線を覆っていた土煙は、やがて数千の兵士の姿へ変わった。
連合軍は街の東側へ広く展開し、逃げ道を塞ぐように左右へ陣を伸ばしていく。無数の槍が夕陽を弾き、王国ごとに異なる旗が乾いた風の中ではためいていた。
復興したばかりの街と連合軍の間に立つのは、私を含めても百人に満たない魔族だけだ。
勝てるはずがない。
それでも背後には、避難を終えていない同胞がいる。
「全員、私の命令があるまで動くな」
「しかし、魔王様……!」
「先に攻撃すれば、話し合う可能性さえ失う。武器を下ろせとは言わない。ただ耐えろ」
守備隊の列に緊張が走る。誰もが剣や槍を強く握りながら、それでも私の命令に従ってくれた。
やがて連合軍の中央が割れ、一騎の馬が進み出てきた。
馬上にいるのは、赤と金で飾られた鎧を着た大柄な男だった。磨き上げられた胸当てに傷はなく、腰には宝石を散りばめた長剣を下げている。後方に並ぶ兵士たちが埃まみれなのに対し、男だけは戦場へ式典にでも来たような姿をしていた。
男は私たちと、その背後にある街を見比べる。
修復した石壁。新しい屋根。水の戻った噴水。そして、南側に広がる青々とした畑。
その顔が、露骨な不快感に歪んだ。
「おいおい、何だこれは。焼け残った害虫どもが、もう巣を作り直してやがるのか?」
守備隊のあちこちから、低い唸り声が漏れた。
私は片手を上げ、皆を制する。
「私はこの街を治める者だ。連合軍の指揮官と見受ける。まず、ここへ来た目的を聞かせてもらいたい」
「目的だと?」
男は鼻で笑い、唾でも吐くような口調で答えた。
「戦争で狩り損ねた魔族の残党が、この辺りに集まっていると聞いてな。わざわざ掃除に来てやったんだよ」
「戦争はとうに終わった。私たちは人間の国へ攻め入っていない。ここで暮らしているだけだ」
「魔族が生きているだけで、次の戦争の種になるだろうが」
「老人や子供まで殺すというのか?」
「角の生えた化け物に年齢なんざ関係あるかよ」
男は笑った。
その後ろで、同じように笑う者もいた。だが、視線を伏せた兵士もいる。全員がこの男と同じ考えではないのだろう。
それでも命令へ逆らう者はいない。
「全隊に命じる! 街も畑も一つ残らず焼き払え! 残党どもはその場で処分しろ。首を持ち帰れば、角一本につき報奨金を出すぞ!」
連合軍から野太い歓声が上がった。
話し合いなど、最初から存在していなかった。
「待て」
私は守備隊の前へ一歩進み、外套の頭巾を外した。夕陽を受けて桃色の髪が揺れ、二本の白い角が露わになる。
馬上の男が、私の顔を見た途端に目を見開いた。
「貴様、その顔……まさか、魔王ネフィリアか⁉」
「そうだとも」
「馬鹿な! 魔王は勇者様が討ち取ったはずだ!」
「残念だったな。私は生きている」
連合軍に動揺が広がった。
兵士たちが互いに顔を見合わせ、馬が不安そうに嘶く。指揮官の男も一瞬だけ怯えを浮かべたが、すぐに別の感情がそれを塗り潰した。
欲だ。
「は、はは……これは運がいい。残党狩りどころか、魔王の首まで手に入るとはな!」
「今なら軍を退けば追わない。これ以上、無意味に血を流す必要はない」
「黙れ。ここで完全に殺してやる。魔王を討った名誉は、今度こそ俺のものだ!」
男が剣を抜き、前方へ振り下ろす。
「攻撃開始!」
幾百もの弓弦が、同時に鳴った。
「防御結界!」
私が叫ぶと、守備隊の魔法使いたちが重ねた障壁を展開する。空を黒く覆った矢が半透明の壁へ突き刺さり、雨のような音を立てた。
直後、連合軍の魔法師団から炎と雷が放たれる。
閃光。爆音。揺れる大地。
障壁へ亀裂が走り、二度目の斉射で砕け散った。
「魔王様、後方へ!」
「私が退けば、誰がここを守る!」
私は両腕を広げ、残る魔力を解き放った。
空に巨大な紫色の魔法陣が浮かび、その中心から無数の光弾が降り注ぐ。突撃してきた騎兵を馬ごと吹き飛ばし、密集した歩兵の隊列を引き裂く。続けて地面を隆起させ、街へ迫る兵士たちの足を止めた。
数百人が一度に戦闘不能となり、連合軍の前線が大きく崩れる。
「押し返せ!」
魔族たちも声を上げ、敵陣へ魔法と矢を放った。
だが、数が違いすぎた。
倒しても、その後ろから新たな兵士が押し寄せる。左右へ回り込んだ騎兵が守備隊を分断し、聖属性を帯びた魔法が魔族の障壁を貫いた。
「ぐっ……!」
胸の奥に、焼けた鉄を押し込まれたような痛みが走る。
勇者の聖剣に刻まれた傷は、三年が過ぎても完全には癒えていない。魔力を大量に使ったことで古傷が開き、衣服へ血が滲んでいく。
「魔王様、傷が!」
「構うな! 東門だけは破らせるな!」
痛みを噛み殺し、再び魔法を放つ。
炎の壁が進軍を阻み、雷が兵士たちの武器を弾き飛ばす。それでも一度魔法を使うたびに視界が暗くなり、呼吸が浅くなっていった。
耳元で剣戟が響く。
振り返れば、先ほどまで隣にいた魔族が胸を貫かれ、膝から崩れ落ちていた。別の場所では、老兵が若者を庇って矢を受ける。
「やめろ……もう、誰も死ぬな!」
叫んでも、戦場は止まらない。
血の匂い。焼けた土。倒れた同胞たち。
守るために始めた戦争で、何度も見た光景だった。
また私は、同じものを失うのか。
「魔王様! お逃げください!」
「民を置いて、逃げられるものか!」
残った魔力を絞り出そうとした瞬間、膝から力が抜けた。
石混じりの地面へ手をつく。視界が揺れ、魔法陣が霧のように消えていった。
「ようやくくたばり損ないがおとなしくなったか」
嘲る声とともに、連合軍の指揮官が歩み寄ってくる。
鎧には返り血が飛び散り、口元には歪んだ笑みが浮かんでいた。男は宝石飾りの長剣を両手で握り、私の首を狙って大きく振り上げる。
「その首を王都へ飾ってやる。光栄に思え!」
身体が動かない。
避けられない。
振り下ろされる刃が夕陽を反射し、冷たい光を放った。
次の瞬間、その凶刃が空中で止まった。
「なっ……何だ!? 身体が動かん!」
男の腕も、足も、影に縫いつけられたように微動だにしない。周囲の兵士たちまで、見えない重圧に押さえ込まれ、一斉に地面へ膝をついた。
戦場を覆っていた音が、不自然なほど静まる。
「……やっぱり、人間って苦手だな。人の話を聞かないし、すぐに物を壊そうとする」
聞き覚えのある声だった。
こんな状況には、あまりにも場違いなほど気の抜けた声。
私は痛む身体を無理やり起こし、声のした方へ振り返った。
「なんで、ここに……」
そこに現れたのは、いるはずのない空の島の主――クオンだった。




