第22話:魔王ネフィリアⅡ
クオンたちが空へ去ってから、一年が過ぎた。
かつて死者のように静まり返っていた街には、朝から槌の音が響いている。
崩れた石壁には新しい石材が積まれ、焼け落ちた家々の屋根には不揃いながらも木板が並ぶ。塞がれていた水路も通り、中央広場の噴水からは細い水が絶え間なく流れていた。
「西区の三棟は、今日中に屋根まで仕上げろ。雨期が来る前に、全員が屋内で眠れるようにする」
「はっ!」
「南の井戸は?」
「昨日、泥の除去が終わりました。水質にも問題ありません」
「ならば周囲を石で固めろ。子供が落ちない高さの囲いも必要だ」
「承知しました、魔王様!」
広場に置いた作業台で報告書へ目を通しながら、私は次々と指示を出した。
復興に取りかかって一年。
失ったものに比べれば、取り戻せたものはまだ少ない。それでも、雨風をしのぐ家が増え、夜になれば窓から灯りが漏れるようになった。
細い路地を駆け回る子供たちの声を聞くたび、この街はようやく廃墟ではなくなりつつあるのだと思える。
何より大きく変わったのは、街の外に広がる畑だった。
「魔王様! こちらへ来てください!」
弾んだ声に呼ばれ、南門の外へ向かう。
以前は灰色の土と枯れ草しかなかった土地が、今は一面の緑に覆われていた。穂を垂らし始めた小麦が風に揺れ、その隣では丸々とした芋の葉が幾重にも重なっている。豆の蔓は組んだ支柱より高く伸び、白い花を咲かせていた。
土の香りに、青い葉の匂いが混ざる。
この土地で生まれ育った私にとって、それは奇跡に近い光景だった。
「今年は収穫できます。それも、我々が前に育てていたものより、ずっと多く!」
畑を任せた老魔族が、土のついた手で小麦の穂を差し出した。
粒は大きく、指で触れれば硬く詰まっている。痩せた土地へ蒔いたとは思えないほど、立派に育っていた。
「クオン殿から頂いた種は、本当にすごいものですな。冷風にも病にも負けず、ほとんど枯れませんでした」
「ああ。食料の箱に、種類ごとに分けた種まで入れてくれていたからな」
「これだけ実れば、今年の冬は誰も飢えずに済みます」
老人の声が震えた。
近くで作業していた者たちも手を止め、実った畑を見つめている。泣いている者さえいた。
冬を迎えるたびに誰の食事を減らすか悩んできた私たちには、穂の重みそのものが未来の重さだった。
「クオン殿に、感謝しなければなりませんね」
「うん! クオン様は魔王様を助けてくれた英雄だって、母さんが言ってた!」
畑の端にいた角の小さな子供が、元気よく手を挙げた。
「英雄か……本人が聞けば否定するだろうな」
「では、感謝の像を建ててはいかがでしょう?」
「やめておけ。像など作ったと知られれば、二度と地上へ降りてこなくなるぞ」
「それほどですか?」
「剣より会話の方が怖いと真顔で言う男だ」
周囲の者たちが困惑した顔を見合わせた。
私も初めて聞いたときは同じ顔をしたから、気持ちは分かる。エンシェントドラゴンを従えるほど強いくせに、空に引きこもっているのだ。まったく理解できない。
だが、感謝している気持ちは私も同じだった。
あの日もらった食料がなければ、冬を越せずに死んだ者が大勢いたはずだ。
種がなければ、今年も乏しい収穫物を前に、同じ絶望を味わっていただろう。
「像は作らなくていい。代わりに、この畑を必ず守れ。いつか再会できたとき、もらった種がこれほど育ったと見せてやろう」
「はい!」
力強い返事が、青空の下へ響いた。
街は少しずつ戻っていく。
石を積み、道を直し、畑を耕す。一日ごとの変化は小さくても、昨日より今日、今日より明日と、生きるための場所になっていた。
その穏やかな日々が続くと、心のどこかで思い始めていた。
だからこそ、その報告はあまりに唐突だった。
「ま、魔王様!」
昼を過ぎた頃、周辺警戒へ出ていた部隊が南門から駆け込んできた。
先頭の兵士は肩で息をし、額から流れる汗を拭う余裕もない。彼の顔を見た瞬間、胸の奥に冷たいものが走った。
「何があった」
「れ、連合軍です! やつら、東の旧街道を、こちらへ向かって進軍しています!」
広場から、槌の音が消えた。
「……数は?」
「少なく見積もっても数千。複数の王国旗を確認しました。騎兵、重装歩兵、魔法師団も同行しています」
「偵察隊ではないのか?」
「違います。完全な戦闘隊形です。進路も、この街へ真っ直ぐ向いております」
周囲に緊張が走った。
道具を握る手が止まり、魔族たちの顔から血の気が引いていく。戦争を生き延びた者たちの脳裏には、炎に包まれた村や、聖剣を掲げる勇者の姿が蘇っているのだろう。
私の胸にも、古傷が疼くような恐怖が戻ってきた。
一年かけて、ようやくここまで立て直した。
人間たちは、それさえ許さないというのか。
「魔王様、迎撃の準備を!」
「待て。まず民の避難が先だ」
私は震えそうになる指を握り込み、声を張り上げた。
「戦う力のない者は、北側の地下水路を通って山中の避難所へ移動させろ。老人と子供を最優先にしろ。歩けない者には荷車を使え」
「食料はどうしますか?」
「運べる量だけ持ち出す。特に種は全て回収しろ。家や道具は失っても作り直せる。だが、命と次の収穫を失えば終わりだ」
「はっ!」
「戦える者は東門へ集まれ。ただし、勝手に攻撃するな。相手の目的を確認するまでは弓も魔法も使うな」
命令が伝わると、街中が慌ただしく動き始めた。
母親が子供の手を引き、若者たちが老人を背負う。荷車には食料と薬、それにクオンからもらった作物の種が積み込まれた。泣き出す子供へ、大人たちは大丈夫だと笑いかけていたが、その声も表情も硬い。
「魔王様も避難してください」
隊長の言葉に、私は首を振った。
「民を置いて逃げる王がどこにいる」
「しかし、また勇者がいれば――」
「一度敗れた身だ。自分の力は分かっている。だからこそ、無意味な突撃はしない。だが、話をする者は必要だろう」
交渉を拒まれた末に始まった戦争だった。
それでも、今度こそ話が通じる可能性を捨てたくなかった。私が求めているのは復讐ではない。この畑で、民が明日も生きられることだけだ。
避難が進み、東門の外へ守備隊が並ぶ。
それから数時間後。
傾き始めた太陽の下、地平線に巨大な土煙が立ち上った。
やがて無数の王国旗が姿を現し、その下で鎧と槍が鈍い光を放つ。騎馬の蹄と兵士たちの足音が一つの低い轟きとなり、大地を揺らしながら近づいてくる。
数千の連合軍が、ようやく蘇り始めた私たちの街を目指して進んでいた。




