第21話:魔王ネフィリアⅠ
私はただ、魔族の民が飢えずに暮らせる国を作りたかった。
魔族領の大地は、遥か昔から痩せていた。春に種を蒔いても芽吹くのは半分ほどで、運よく育った作物も、北から吹く冷風に一晩で枯らされる。冬が近づけば、どの村でも残った食料を数え、老人たちは子供へ自分の分を差し出した。
先代が亡くなり、魔王を引き継いだ私の前には、毎年同じ報告が積み上がった。
『今年も収穫が足りません』
『北部の村で、餓死者が出ました』
『薬を作るための薬草も残っておりません』
報告書に記された数字の一つ一つに、名前があり、家族がいた。
だから、豊かな大地を求めた。
最初から人間の土地を奪うつもりだったわけではない。食料の取引を望み、こちらからは魔石や鉱石を差し出すと伝えた。国境の未開地を共同で耕す案も出した。
けれど、人間たちは私たちを交渉相手とすら見なさなかった。
『魔族は邪悪な存在だ』
『魔王の言葉など信じられるものか』
使者は追い返され、交易路は閉ざされ、飢えに耐えかねて国境を越えた民は魔物として討たれた。
それでも耐えるべきだったのかもしれない。
だが、痩せ細った子供を抱きしめて泣く母親を目の前にして、私は耐えろとは言えなかった。
だから私は軍を動かした。
魔族の未来を救うために始めた戦争は、やがて私の想像を遥かに超えて激化した。
砦を一つ落とせば二つの国が援軍を送り、こちらが兵を増やせば、人間側もさらに多くの兵士を集めた。
十年もの間、同胞の血が流れ続けた。
昨日まで言葉を交わしていた者が、翌日には冷たい骸となった。村は焼かれ、畑は踏み荒らされ、守りたかったはずの民まで飢えていった。
そして私は――勇者に敗れた。
魔王城の玉座の間で振り下ろされた聖剣により、私は致命傷を負った。
最後まで残った部下たちが命を懸けて退路を開かなければ、私も城とともに死んでいただろう。
敗北から二年。
私は生き残った民とともに姿を隠し、廃墟となった街を拠点に復興を続けていた。
復興とは名ばかりだ。
瓦礫を退け、雨風をしのげる部屋を作り、その日に食べるものを探す。人間の追跡を恐れ、焚き火の煙さえ上げられない。魔王と名乗りながら、明日まで民を生かすことすらできない自分が、ひどく惨めだった。
そんなある日、見知らぬ三人組が街へ現れた。
報告を受けて広場へ駆けつけたときには、すべてが終わっていた。
「皆から離れろ」
倒れた仲間を前に、私は全身の魔力を解放した。
彼らは敗残兵とはいえ、かつて魔王軍の中核を担った者たちだ。傷も装備も万全ではないが、並の人間の騎士団なら十倍の数を相手にできる。
その十数人が、誰一人として反撃もできずに無力化されていた。
黒髪の人間が魔法で拘束し、銀髪のメイドは急所を正確に打って意識だけを奪い、長身の男は鋼鉄の武器を素手で潰したらしい。
「全員生きている。殺してはいない」
黒髪の男はそう言ったが、すぐには信じられなかった。
けれど、一人ずつ確かめてみれば、その言葉に嘘はない。重傷者どころか、隊長の骨にひびが入っている以外、まともな怪我さえ負っていなかった。
つまり、殺せなかったのではない。
殺さないまま全員を制圧できるほど、力の差があったのだ。
「人間。ここへ何をしに来た?」
「観光だ」
耳を疑った。
魔族領の廃墟へ観光に来る人間など、聞いたことがない。
「同じ嘘を二度口にしても、真実にはならない」
「俺も、説得力がないとは思ってる」
本人までそう思っているなら、なぜ押し通そうとするのだ。
私を倒しに来たのかと尋ねても、男は頑なに否定した。人間の国へ行かなかった理由は、人間が苦手だからだという。
「お前自身が人間だろう」
「人間だからって、人が好きとは限らないんだよ」
剣を向けられても平然としていた男が、会話について触れた途端に心底嫌そうな顔をする。ますます意味が分からない。
だが、三人のうち一人、額から二本の角を伸ばした長身の男だけは、明らかに魔族ではなかった。
その男から感じる魔力は、古く、重い。魔族とも魔物とも異なるそれを指摘すると、男は悠然と胸へ手を当てた。
「私はヴァルグレイオン。エンシェントドラゴンの一族を率いる者だ」
「エンシェントドラゴン……?」
一国を滅ぼせる最強の竜種が、人の姿で立っている。
しかも彼は、黒髪の男を主と呼び、敬っていた。
「俺は空に浮かぶアルカディアで暮らしてる。地上へ降りたのは今日が初めてだ」
「まさか、世界中を移動しているという、あの浮遊島か……?」
数年前から各国で囁かれていた噂。
遥か上空を漂い、周囲にはエンシェントドラゴンが飛ぶという正体不明の島。
それが実在し、その主が目の前にいる。
私は勇者と直接戦ったからこそ分かった。クオンと呼ばれた男も、銀髪のメイドも、ヴァルグレイオンも、あの勇者を遥かに上回っている。
三人が敵なら、警戒に意味はない。殺し合いになった瞬間、私たちは死ぬ。
「……皆、武器を下ろせ」
「魔王様!」
「命令だ。敵意を向け続ける方が無謀だ」
彼らに敵意がないことも、私を殺すつもりなら既に終わっていることも分かっていた。
帰ってほしいと告げると、クオンは驚くほどあっさり頷いた。
「分かった。俺たちは帰るよ」
その素直さに安堵した直後、彼は戦争の理由を尋ねてきた。
私は迷った末、これまでのことを話した。痩せた土地、拒絶された交渉、飢える民、そして私が軍を動かした責任まで。
同情されたいわけではなかった。
だが、黙って聞いていたクオンは、空間魔法の中から大量の食料を取り出した。
小麦、豆、芋、干し肉、魚、果物。石畳へ次々と積み上がる食料を前に、私は自分の目を疑った。
「本当に、私たちへ渡すつもりなのか?」
「ああ。俺たちの敵じゃないし、話を聞いた限りじゃ、人間より魔族の方に好感が持てる」
人間が嫌いで空に引きこもり、地上へ降りた初日に魔王軍へ食料を渡す。
最後まで理解できない男だった。
やがてヴァルグレイオンは本来の巨竜へ戻り、クオンとエルノアを背に乗せて飛び立った。
「クオン! この恩は必ず返す!」
私の声が聞こえたはずなのに、彼は露骨に顔を逸らした。
恩返しに来られることさえ嫌なのか。これでは、魔王だった私の方が常識人に思えてくる。
銀灰色の巨体が雲の向こうへ消える。
私は食料の山と、命を奪われずに済んだ仲間たちを見回し、ようやく深く息を吐いた。
「……敵でなくて、本当によかった。これだけあれば冬を越せる」




