第20話:初の地上Ⅲ
「……分かった。俺たちは帰るよ」
俺がそう答えると、ネフィリアは警戒を解かないまま、小さく頷いた。
乾いた風が広場を通り抜け、砂と灰を巻き上げる。倒れた魔族たちの向こうには、崩れた家々がどこまでも続いていた。窓のない建物。水の枯れた井戸。踏み荒らされ、硬くひび割れた畑。
ここに観光して楽しめるものがないという彼女の言葉は正しい。
それでも、背を向ける前に一つだけ聞いておきたかった。
「ネフィリア。どうして人間と戦争をしたんだ?」
彼女の肩がわずかに強張った。
「今さらそれを聞いてどうする?」
「どうもしない。ただ、空から見ていた限りじゃ、人間側は魔族が攻めてきたと言い、魔族側は人間に追い詰められたと言っていた。結局、何が始まりだったのか分からなかったからな」
「私たちを裁くつもりか?」
「そんな面倒なことするかよ。頼まれても断る。事情を知りたいだけだ」
「ご主人様は、ただ気になっているだけです。裁定などいたしません」
エルノアが補足すると、ネフィリアは胡乱げに俺を見つめた。
「エンシェントドラゴンを従えていながら?」
「従えたというより、勝手に住み着いて主と呼び始めたんだよ」
「クオン様、それでは我らが迷惑な居候のようではありませんか」
「最初に島を寄越せと言ったのはヴァルグたちだからな?」
俺たちのやり取りを見て毒気が抜けたらしい。ネフィリアは倒れた兵士たちへ視線を落とし、静かに口を開いた。
「……この魔族領では、昔から作物が育ちにくい」
その声には、王としての威圧感ではなく、長い疲労が滲んでいた。
「土は痩せ、雨も少ない。北方から吹く冷い風が、ようやく芽吹いた作物を一晩で枯らす年もある。豊作と呼べる年など、私が生まれてから数えるほどしかなかった」
「それで、豊かな土地を求めたのか」
「ああ。民が飢えずに済む土地が欲しかった。子供が冬を越せるかどうかを、蓄えた芋の数で決める国にはしたくなかった」
ネフィリアの細い指が、強く握り込まれる。
「初めから奪おうとしたわけではない。食料の取引、国境付近の未開地の貸与、共同での開墾も提案した。代わりに魔石や鉱石を提供するとも伝えた」
聞く限り、人間たちには悪い条件には見えない。むしろ、好条件だろう。
「だが、人間の国々は交渉の席にすらまともにつかなかった」
「は? 好条件だろ。どうしてだ?」
「それは私たちが魔族だからだ。角を持つ者は邪悪であり、言葉を交わすこと自体が神への背信だと決めつけられた」
使者は城門から追い返され、交易路は閉ざされた。
飢えから国境を越えた魔族は、魔物と同じように討伐されたという。
「それでも耐えるべきだったのかもしれない。だが、民が次々に死んでいくのを見て、私は軍を動かした。戦争を始めた責任が私にないとは言わない」
ネフィリアは顔を上げた。
赤金色の瞳に後悔はあっても、自分だけを哀れむ色はない。全てを失いかけてもなお、死んだ民と生き残った民の責任を背負おうとしていた。
種族だけを理由に話すことさえ拒んだ末に十年の戦争が起きたのなら、さすがにネフィリアたちへ同情せずにはいられなかった。
「……腹が減って戦争を始めて、戦争のせいでもっと食べるものがなくなったのか」
「皮肉なものだろう?」
「笑えないな」
俺は広場の中央へ歩き、片手を前へ伸ばした。
意識を空間魔法で作った亜空間に手を突っ込む。二十二年にわたってアルカディアの農場が生み出した収穫物の一部が、時間の止まった空間に保存されていた。
ここに保管されているのは、保管庫に取りに行くのが面倒な時用に入れておいたものだ。
他にもちょっとした素材や武器などが保管されている。
あとで俺専用の保管庫を作り、そこにアクセスできるようにしておこう。
「ご主人様。何をなさるおつもりですか?」
「少し分けていこうと思ってな」
空間に裂け目が開き、大きな麻袋が落ちてきた。
一つ、二つではない。小麦、豆、芋を詰めた袋が次々と石畳へ積み上がり、その隣には干し肉や塩漬けの魚、保存用の果物を収めた木箱が並んでいく。最後に薬草と調味料の小箱を置くと、広場の一角が小さな倉庫のようになった。
魔族たちは、揃って口を開けていた。
「こ、これは……全部、食料なのか?」
「見れば分かるだろ?」
「これほど大量の食料を、どこから……」
「うちで作ったものだ。ゴーレムたちが働きすぎて、備蓄が減るより増える方が早いんだよ」
「現在も一日当たり三・二トンの余剰が発生しております。これだけ放出しても影響はございません」
「数字を出すと、急に農場経営の問題みたいに聞こえるな。後で消費方法も模索しないとだな」
実際、保存庫を増設しようと話していたところだ。
捨てるより、必要としている者に食べてもらった方がいい。
ネフィリアは小麦の袋へ恐る恐る触れ、布越しに穀粒の感触を確かめた。その瞳が、信じられないものを見るように揺れる。
「まさか、私たちへ渡すつもりなのか?」
「ああ。要らないのか?」
「まさか! 私たちは人間と戦い、先ほどはお前たちにも武器を向けた。それでもか?」
「俺たちの敵じゃないことは分かった。それに、話を聞いた限りじゃ、人間たちより魔族の方に好感が持てる」
「ご主人様の場合、比較対象への評価が極端に低い点は考慮すべきかと」
「余計な補足をするな、エルノア」
ネフィリアは一瞬呆けたあと、桃色の髪を揺らして深く頭を下げた。
「……感謝する。この恩は、決して忘れない」
「返さなくていいぞ。恩返しの相談で大勢に押しかけられると困るし、これは自己満足だからな」
「お前はどこまでも人を避けるのだな」
「それだけは二十二年間、一貫してる」
俺は魔族たちを土の拘束から解放し、ネフィリアへ向き直った。
「復興、頑張れよ。食べ物があれば、少なくとも明日を迎える心配は減るだろ」
「ああ。これで多くの民が救われる。本当に、感謝する……」
街の外へ出ると、ヴァルグが俺たちから距離を取った。
次の瞬間、その身体を銀灰色の光が包む。
地面が震え、長い首と巨大な翼が光の中から現れた。
全長三十メートルを超えるエンシェントドラゴンが翼を広げると、周囲の廃墟すべてが影に沈む。
「ほ、本当にエンシェントドラゴン……」
ネフィリアたちが青ざめた顔で見上げていた。
隊長など、治療したばかりの身体で再び尻餅をついている。
『疑うとはな』
「普通は、名乗られただけで信じられないと思うが?」
俺とエルノアがヴァルグの背へ乗ると、ネフィリアの声が飛んできた。
「待て! まだ、お前の名を聞いていない!」
振り返れば、彼女は強い風に桃色の髪を乱されながら、真っ直ぐ俺を見上げていた。
「クオンだ。空に浮かぶアルカディアで暮らしている、ただの引きこもりだよ」
「ただの引きこもりが気まぐれで魔族を助けたりしませんよ」
「なあ、最後くらい格好をつけさせてくれないか? 今良いところだったのに……なんか締まらねぇな」
ヴァルグの翼が大きく羽ばたく。
食料の山と、それを囲む魔族たちが見る間に遠ざかっていく。
「クオン! この恩は必ず返す!」
風の中から届いたネフィリアの声に、俺は聞こえなかったふりをして空へ逃げることにした。




