第19話:初の地上Ⅱ
桃色の髪を揺らしながら現れた少女は、俺たちではなく、まず地面に倒れた魔族たちへ目を向けた。
その表情は静かだったが、金色に近い赤い瞳の奥で、鋭い光が揺れる。
「皆から離れろ」
直後、少女の身体から濃密な魔力が立ち上った。
広場を吹き抜けていた風が止まり、足元に散らばる砂塵が円を描いて浮かび上がる。小柄な身体から放たれているとは思えない圧力だったが、敵意より先に感じたのは、倒れた仲間を守ろうとする必死さだった。
「離れるのは構わないけど、全員生きている。殺してはいない」
「それを確かめるのは私だ」
少女は俺の言葉を信じず、警戒したまま最も近くに倒れていた魔族のそばへ膝をついた。
細い指を首筋へ当て、次に胸元へ手をかざす。淡い紫色の光が魔族の全身を撫でるように広がった。
「……気を失っているだけか」
張り詰めていた声が、ほんのわずかに緩んだ。
少女は一人ずつ呼吸と怪我を確認していく。土の帯に捕らえられている者も、武器を潰されて呆然としている者も、命に別状がないと分かると、その肩から少しずつ力が抜けていった。
「魔王、様……申し訳、ございません」
布袋へ突っ込んだ隊長が、呻きながら顔を上げる。
「無理に喋るな。骨にひびが入っているな」
「ひびは入れたのか、ご主人様」
「手加減はしたんだ。あの勢いで斬りかかられて、無傷で止めるのは難しいだろ」
「私は気絶させるにとどめています。怪我はさせていません」
……はい。もっと手加減というのを学びます。
少女がこちらを振り返った。
二本の白い角の片方には、深く削られたような傷がある。
身につけている黒い衣服も、元は上質だったのだろうが、裾は裂け、何度も縫い直されていた。それでも背筋は真っ直ぐに伸び、少女の周囲だけには王者めいた気配が残っている。
「人間。ここへ何をしに来た?」
「さっきも説明したけど、観光だ」
「それで納得する者がいると思うのか? ここは魔族領だ」
正論だな。
少女は立ち上がり、俺とエルノア、ヴァルグを順に見つめる。その瞳にはまだ警戒が宿っていたが、倒れた仲間を傷つけないよう、魔力を慎重に抑えているのが分かった。
「私の名はネフィリア。魔族を統べる魔王だ」
「本当に魔王だったのか……」
「何だ、その反応は」
「いや、もっとこう、筋骨隆々で、黒い鎧を着た怖い男を想像してた」
「偏見が過ぎます、ご主人様」
「私が少女の姿では不満か?」
「不満じゃない。初対面の相手が怖そうじゃなくて助かってる」
「我が兵を一瞬で蹴散らした者が、何を恐れている?」
「会話」
ネフィリアが初めて言葉を失った。
剣や魔法なら、飛んでくる方向が分かる。防ぐか避けるなどすればいい。だが会話は、どんな返事を求められているのか分からないうえ、失敗すれば後から何年も思い出して苦しむことになる。俺にとっては、下手な攻撃魔法より厄介だった。
しばし黙ったあと、ネフィリアは理解を諦めたように首を振る。
「もう一度問う。魔王である私を倒すために来たのか?」
「違う。本当に観光だ。人間の国は人が多そうだったから、比較的人の少ない魔族領を選んだ。俺は人間が苦手なんだよ」
「お前自身が人間だろう」
「その通りだな。この通り、俺は人間だ。でも、人間だって人が嫌いな者だっている」
ネフィリアは、俺の表情から何かを読み取ろうとするように見つめ続けた。
やがて視線を横へずらし、ヴァルグのところで止める。
「だが、そこの男は人間でも魔族でもないな」
「分かるのか?」
「人の姿をしていても、内にある魔力の質までは隠せていない。あまりにも古く、重い。まるで大地そのものが立っているようだ」
ヴァルグは感心したように眉を上げると、胸へ片手を当てて一礼した。
「小娘にしてはよい眼を持っている。私はヴァルグレイオン。エンシェントドラゴンの一族を率いる者だ」
「エンシェント、ドラゴン……?」
ネフィリアの顔から、初めて王者の余裕が消えた。
赤金色の瞳が大きく見開かれ、傷ついた白い角の周囲へ魔力が集まる。攻撃のためではない。目の前の存在を確かめようとしているのだろう。
「……馬鹿な。エンシェントドラゴンは、国の興亡になど関心を持たぬはず。なぜ最強の種が人間に従っている?」
「クオン様は我らの主。我らが忠誠を捧げるに値する御方だ」
「主……?」
今度はネフィリアの視線が俺へ戻ってきた。
驚きと疑念が半分ずつ混ざった目を向けられ、非常に居心地が悪いんだけど。
「なんだよ? 言っとくが、こいつらが住むことになって俺を主とか言っているだけだ」
「そのような存在、聞いたこともない」
「そりゃあ、空に引きこもって暮らしてるからなぁ……」
「空だと?」
「ああ。空に浮かぶアルカディアという島だ。そこで仲間と静かに暮らしてる。地上へ降りたのは今日が初めてだ」
ネフィリアの目が、さらに見開かれた。
「まさか……遥か上空を移動し、世界中で目撃されているという浮遊島のことか? エンシェントドラゴンが住み着いたとも噂されていたが……」
「たぶん、それだな。てか、噂になっていたのかよ……」
「まさか、噂ではなかったのか……世他話ばかりだと……」
今度インビジブルでも掛けておこうかな? 後で考えておこう。
ネフィリアはしばらく俺たちを見つめたあと、静かに瞼を閉じた。周囲を満たしていた魔力が、潮のように引いていく。
「……どうやら敵意がないのは事実か。皆も武器を下ろせ」
「魔王様、しかし!」
「命令だ。我らに、この者たちと戦う力はない」
動ける魔族たちが戸惑いながらも武器を下ろした。
「俺の話を信じてくれたのか?」
「違う。純粋に勝てないからだ」
ネフィリアは、清々しいほど迷いなく言い切った。
「私は勇者と戦った。その勇者でさえ、お前たち三人の誰にも及ばぬ。エンシェントドラゴンを従える相手に敵意を向け続けるなど、勇敢ではなく無謀というものだ」
「正直で助かるよ。俺も戦いたくはない」
「それに、お前たちが私を殺すつもりなら、すでに終わっている」
「分かってもらえて何よりだ」
出来るかしないかは別問題だ。
ようやく話が通じたことに安堵したが、ネフィリアの表情は晴れなかった。
彼女は荒れ果てた広場を見回す。倒れた兵士、崩れた家々、乾いた噴水。かつて魔王と呼ばれた少女が今守っているものは、あまりにも傷つき、少なかった。
「敵でないのなら、ここから去ってくれ」
「どうしてだ?」
「見て分かるだろう。ここには荒廃していて、お前たちが観光して楽しめるようなものなど何もない」
ネフィリアの声に、疲れが滲んだ。
「食料も薬も足りず、今日を越えた者が明日も生きられる保証さえない。私たちはただ、生き残るだけで精いっぱいなのだ。これが敗者たちの末路」




