第17話:人間よりも魔族領
厚く重なった雲を、ヴァルグの巨体が突き抜けた。
白一色だった視界が不意に開き、目の前へ光が押し寄せる。
「うわ……」
思わず、子供のような声が漏れた。
遥か下方に、果ての見えない大地が広がっていた。
深い緑に覆われた森林。その間を縫うように銀色の川が流れ、陽光を受けて細かな光を散らしている。遠くには青みがかった山脈が幾重にも連なり、その手前の平原には、積み木ほどに小さく見える城壁都市があった。
風に押し流される雲の影が、草原をゆっくりと渡っていく。
アルカディアから地上を眺めたことなら何度もある。遠見の魔法でも、街や森を鮮明に映してきた。それなのに、今こうして自分の目で見る景色は、まるで別の世界だった。
映像では分からなかった奥行きがある。吹き上がってくる湿った風の匂いがある。山も川も街も、ただの情報ではなく、確かにそこへ存在していた。
「綺麗だな……」
「はい。私も、これほどとは想像しておりませんでした」
すぐ後ろに座るエルノアの声からも、普段の冷静さがわずかに抜け落ちていた。
振り返れば、彼女は金色の瞳を見開いて大地を眺めている。
それだけで、この景色が特別なものなのだと思えた。
『クオン様。まずは、どちらへ向かいましょうか』
翼を広げて滑空するヴァルグの問いに、俺は遠くの街へ目を向けた。
戦争が終わって二年。人間側の領土では復興が進み、街道には荷馬車や旅人の姿が戻っている。遠目にも、城門へ続く道には小さな人影がいくつも見えた。
あそこへ降りれば、この世界の人間の暮らしを、生活を知ることができるだろう。
同時に、大勢の知らない人間と接触する可能性も高い。
「……魔族領へ行こう」
「人間の街ではないのですか?」
「前も言ったが、人間は苦手なんだ。せっかく地上まで来たのに、人混みへ突っ込んで疲れたくないし、面倒な輩に絡まれたくもない」
「魔族も意思疎通可能な種族であり、交流の必要は生じるかと存じますが」
「分かってる。でも、人間の街よりは人が少なそうだろ?」
「消去法で滅びかけた土地を選ぶ方は、初めて拝見いたしましたよ」
「俺も自分が少数派なのは知ってるよ」
エルノアの呆れを背中に感じながら、俺はヴァルグへ魔族領の方角を頼んだ。
彼は大きく翼を傾け、北へ進路を変える。
すると、大気が低く唸り、雲がその巨体を避けるように裂けていった。
『一つ、よろしいでしょうか。この姿のまま地上へ近づけば、目撃した者は恐慌に陥るかと存じます』
「ああ。エンシェントドラゴンだもんな」
『以前、山間の村の上を通過した際には、住民が鐘を鳴らしながら一斉に逃げ出しました』
「それを先に言ってくれ。初めての外出で討伐隊を組まれたくない」
俺は鞍から片手を離し、魔力を広げた。
空気へ溶け込むような感覚を思い描き、ヴァルグの巨体を包めるほど術式を拡張する。
「――インビジブル」
淡い光が俺たちを覆い、すぐに透明へ変わった。
自分の手は見えているのに、周囲からは姿も影も認識できなくなる不可視化の魔法だ。
レイに教わった当初は俺一人分で精一杯だったが、今ならエンシェントドラゴン一体を丸ごと隠せ、匂いや気配まで隠すことができる。
『見事な魔法です』
「ヴァルグ、声まで隠れてはいないから静かにな」
『……承知いたしました』
褒めてもらった直後に口を塞ぐことになり、少し申し訳なくなった。
それからしばらく北へ飛ぶと、眼下の景色は少しずつ色を失っていった。
豊かだった森は焼け焦げた黒い木々へ変わり、平原には埋めきれないほどの陥没と亀裂が残っている。崩れた砦、半ばまで土砂に埋まった街道、屋根を失った村。
二年という時間を経ても、大戦の傷痕は生々しかった。
俺たちは魔族領にある街の外れへ降り立った。
ヴァルグが翼を畳んで地面へ伏せ、俺とエルノアが背から下りる。彼が人の姿へ戻ったところで《インビジブル》を解除すると、冷たく乾いた風が外套の裾を揺らした。
「……静かだな」
街を囲っていた石壁は何かに抉られ、大きく崩れている。
開いた穴を抜けて中へ入ると、左右には黒ずんだ建物が並んでいた。
窓枠は砕け、扉は外れ、道には瓦礫と枯れ草が積もっている。人の話し声も、生活の音もない。聞こえるのは、隙間を抜ける風の低い音と、俺たちの足音だけだった。
かつて露店だったらしい場所には、錆びた金属の器が転がっている。
朽ちかけた看板の下には、小さな焦げた靴が片方だけ残されていた。
胸の奥に、重いものが沈む。
「戦争って、本当に生産性がないよな。大勢で時間も食料も命も使って、最後に残るのがこれか」
「勝者も多くを失っております。得られた領土の復旧だけでも、長い年月を要するでしょう」
「壊すのは一日でも、元に戻すのは何十年か……割に合わないな」
歩きながら、エルノアは崩れた建物や街路を注意深く見回していた。
瓦礫を見るというより、そこにあった暮らしを組み立て直すような眼差しだった。
「戦禍に見舞われる前は、相応に栄えた街だったと思われます。石造建築は二階から三階建てが中心。道路脇には排水路があり、一定間隔で魔石で灯を設置した痕跡もございます。地下には上下水道、あるいは魔力を各区画へ送る設備が存在する可能性があります」
見た目は、中世後期くらいか?
エルノアが壁に残された円形の金属板へ触れる。微かな魔力を流すと、壊れていたはずの板に青白い紋様が一瞬だけ浮かんだ。
「魔法を生活基盤へ取り入れていたのでしょう。照明、給水、暖房、運搬。残存設備を調査すれば、より詳しい文明水準を把握できます」
「異世界だから中世だと決めつけるのは早いわけだな」
人付き合いは嫌いだが、この世界の文明には興味がある。
そう思いながら通りの奥へ進んだ、そのときだった。
「お待ちください」
エルノアが足を止め、鋭く顔を上げる。
同時に、俺は瓦礫の向こうで揺れる微かな気配を感知した。
一つではなく、複数。息を殺すように小さく抑えられているが、確かに誰かがいる。
「廃墟となった街じゃなかったみたいだな」
「様子を確認いたしますか?」
知らない相手と会うのは、今でも気が重い。
けれど、ここまで来て見なかったことにするほど薄情にもなれず、俺は小さく息を吐いた。
「……行こう。あの気配の方へ」
俺たちは足音を抑え、崩れた街のさらに奥へ向かった。




