第16話:初の地上へ
異世界へ来てから、早二十年が過ぎた。
そしてその年、俺たちが十年にわたって遠くから眺めてきた人間と魔族の大戦は、人間側の勝利という形で終わりを迎えた。
「魔王城が陥落しました。人間側の連合軍が城内を制圧したようですね。魔王も討伐されたかと」
花々が咲き誇るガーデンエリアで、ローザの報告を聞きながら、俺は紅茶のカップを静かに卓上へ戻した。
頭上には薄雲を透かした柔らかな陽光が降り注ぎ、色とりどりの花弁が涼しい風に揺れている。白い円卓を囲むのはエルノアやローザたちホムンクルス、それに人の姿となったヴァルグレイオンたちだ。ミモザは焼き菓子を両手で持ち、戦争の話より中に入った木の実の方が気になるらしい。
地上では、長い戦いが終わったばかりだ。
けれど、勝利を祝うには、あまりにも多くのものが失われていた。
「人間側の死者も甚大です。記録上、三つの王国が滅亡。魔族側も主要都市の半数以上を失い、残存勢力は北方へ退却しております。魔王を守護していた者たちも、行方がわからなくなっています」
「勝った方も無事じゃない、か」
「十年も争えば当然。どちらも引き際を知らなかっただけ」
レイが涼しい顔で紅茶を飲む。その隣でリザは腕を組み、面白くなさそうに鼻を鳴らした。
「戦うなら、もっと短く派手に決着をつければいいんです。十年もかけるなんて、鍛錬が足りません!」
「全員がお前みたいな戦闘基準で生きてるわけじゃないからな?」
まあ、これがリザの性格だ。
「主様が出れば、一日で終わったのでは?」
ヴァルグレイオンのおかげで、俺はこの世界でも最強に近いということがわかった。
他にも、エルノアやリザ、レイもこの世界ではエンシェントドラゴンを下せる圧倒的強者とのこと。
エンシェントドラゴン一匹いれば国を簡単に滅ぼせる。
つまり、俺が本気で戦えば、戦争は一日もかからずに終わらせられるということ。
「その後が面倒すぎるだろ」
どちらに味方するのか。負けた側をどうするのか。荒れた土地を誰が治めるのか。考えただけでも、知らない人間たちが大勢で俺を取り囲み、好き勝手に要求を突きつけてくる光景が浮かぶ。
戦争より、その後の会議の方が面倒臭い。
「そもそも、俺たちには事情が分からない。遠くから見ただけで、どちらが正しいなんて決められない」
「はい。アルカディアへの直接的な危害も確認されなかったため、引き続き不干渉が最善であったと判断いたします」
エルノアが俺のカップへ紅茶を注ぐ。琥珀色の水面から立つ穏やかな香りと、地上に残された焼け野原の光景は、どうにも結びつかなかった。
俺たちは戦争を傍観した。
手を出せば救えた命もあったのかもしれない。それでも、一度介入すれば最後まで責任を負わなければならない。中途半端な正義感で国同士の争いに首を突っ込むほど、俺は自分を立派な人間だと思っていなかった。
「これで、少しは静かになるといいな」
俺の呟きに答えるように、風が花の香りを運んでいった。
それから、さらに二年ほどが過ぎた。
焼けた町には少しずつ人が戻り、放置されていた畑にも新しい作物が植えられ始めた。
魔族との小競り合いは残っているようだったが、大軍同士が正面からぶつかることはなくなった。
アルカディアは変わらず世界の空を漂い、俺も変わらず畑を見て、鍛錬をして、皆と食卓を囲んで暮らしていた。
不満などない。むしろ快適すぎるくらいだ。
ある日の午後のこと。
ガーデンエリアの端から、雲の切れ間に覗く緑の大地を眺めていた俺は、胸の内に浮かんだ言葉をそのまま口にしてしまった。
「……地上に、降りてみたいな」
背後で、かちゃり、と食器の触れ合う音が止まった。
「ご主人様。今、なんと仰いましたか?」
「聞こえてただろ」
「確認が必要なほど意外なお言葉でしたので」
振り返ると、エルノアがティーポットを手にしたまま俺を見つめていた。
表情はいつも通り穏やかだが、金色の瞳には明らかな動揺が宿っている。
「ただ見てみたいだけだ。二十二年もこの世界にいるのに、俺は地上の土を踏んだことすらないからな」
「お気持ちは理解いたします。しかし、ご主人様はアルカディアから離れた場合、領域内で受けている恩恵を失います。現在より戦闘能力が低下することは避けられません」
アルカディアから離れると、距離に応じて俺の全体の能力が低下していく。
それでも、上空にアルカディアがあれば、ほぼほぼ低下しない。
「低下するといっても、ワイバーンに負けたりはしない」
「想定外という言葉は、想定の外から参ります」
「正論で殴るのをやめない?」
俺が言葉に詰まっていると、少し離れた卓で茶を飲んでいたヴァルグレイオンが立ち上がった。長身の彼は胸へ手を当て、厳かな仕草で頭を下げる。
「それでしたら、私が同行しましょう。クオン様に危害を加えられる者など、地上にそう多くはおりません。仮に現れたとしても、我が排除いたします」
「地上まで乗せてもらえるのか?」
「もちろんです。クオン様はすでに我らエンシェントドラゴンの主です」
「主って、まあ助かるよ、ヴァルグ」
「では、私も同行いたします」
間髪を容れず、エルノアが告げた。
「ヴァルグレイオンの実力を疑うわけではございませんが、ご主人様の身の回りのお世話、現地情報の記録、食事の管理、衣類の管理、体調の確認には私が必要です」
「一泊するとも言ってないんだけど」
「必要です」
「……はい」
この目をしたエルノアを説得するのは、ドラゴンと戦うより難しい。
こうして俺は、エルノアとヴァルグを伴い、初めて地上へ降りることになった。
翌朝、城の制御室で俺はアルカディアの巡航を停止させた。
空の流れに合わせて世界中を漂い続けていた島が、深い駆動音とともにゆっくり速度を落とし、やがて広大な森林の上空で静止する。
「ローザ。俺たちが戻るまで、アルカディアをこの座標に留めてくれ。隠蔽で姿を隠すことも忘れずに」
「承知しました。周辺の監視と防衛はお任せください」
「あるじさま……おみやげ、ほしい……です」
「分かった。みんなにお土産を買ってくる」
見送りに集まった皆に背を向け、俺たちは島の外縁に設けた発着場へ向かった。
そして、ヴァルグが本来の姿へ戻る。
銀灰色の鱗に覆われた巨体が朝日を反射し、広げられた両翼が発着場いっぱいに影を落とした。低く伏せた背には、エルノアが服飾工房と鍛冶工房へ命じて一晩で作らせた騎乗具が固定されている。
『我に鞍が必要とは思えませんが』
「ご主人様の安全のためです」
『……承知した』
エンシェントドラゴンの長であるヴァルグでも、エルノアには勝てないらしい。
俺とエルノアが背へ乗り、身体を固定したのを確かめると、ヴァルグはゆっくり身を起こした。
『それでは参ります。しっかりとお掴まりください』
「ああ。頼む」
巨大な翼が一度、力強く羽ばたく。
足元からアルカディアの大地が離れ、花畑も城も、見送る皆の姿も急速に小さくなっていく。防御結界を抜けた瞬間、冷たい風が頬を打ち、雲の白さが視界いっぱいに広がった。
二十二年間、一度も足を踏み出さなかった空の外側へ。
俺たちは地上へ降りるため、雲海の底へ向かって飛び立った。




