閑話 おかえりは何名さま?
この便りがアルカ村へ届くのは、二人が竜の谷を離れた後、もう少し先のことである。
アルカ村の午後。
アーヴェル家の台所には、煮込みの匂いと、窓から入る少し冷たい風があった。
机の上には豆の籠と、湯気の立つ茶が二つ。それから、街道を通る商人が届けてくれた手紙が一通。
二人が村を出てから、一年以上が過ぎていた。
本人たちからの便りは、これが初めてだった。
「……レオンの字だわ」
母は便箋の端を持ったまま言った。
向かいから身を寄せたセレスティアの母も、末尾へ指を添える。
「こっちは、セラね」
二人とも無事であること。
ちゃんと食べていること。
今も、一緒に旅を続けていること。
旅の商人から、銀髪の勇者と連れの少年の噂は聞いていた。
けれど、本人たちの字を読むのは違った。
レオンの母は、最初の行へ戻ってもう一度読んだ。
セラの母も、手を離さなかった。
セラが消えたあの夜の、何も置かれていない娘の机。騎士たちの足音。いつまでも戻ってこない息子。
何度も思い返した光景が、今は目の前の二人分の字に遮られていた。
「……まったく」
レオンの母が、長く息を吐いた。
「これを書くのに、一年もかかる?」
「紙を作るところから始めたんじゃない?」
「木を育ててたのかしら」
セラの母が吹き出した。
レオンの母も笑い、便箋を机へ置いた。
二人とも、しばらく茶を飲んだ。
「それで、帰るとは書いてないわね」
レオンの母は、手紙を裏返した。
裏にも何もなかったので、表へ戻した。
「三回読んでも増えないわよ」
セラの母が豆の筋を引く。
ぷつ、と小さな音がして、筋が途中で切れた。
「食べてますって。ほかにも書くことがあるでしょう」
「まず、それを聞こうと思ってたんじゃないの?」
「思ってたけど」
末尾には、少し細い字が添えられている。
《レオンは食べています。心配しないで。セレスティア》
「こっちにも書いてある」
「よほど食べてるのね」
二人は、また笑った。
今度は、笑いながら豆へ手を伸ばせた。
「それで、いつまで一緒にいるつもりなのかしらね」
セラの母が言った。
「帰るまでじゃない?」
「その帰る時の話をしてるの」
「何よ」
「二人で帰ってくるのかしら」
レオンの母は、茶碗を持ったまま相手を見た。
「……誰か増えるの?」
「さあ」
「さあ、じゃないでしょう。何を考えてるの」
「だって、もう一年以上よ」
豆の筋が、今度は端まできれいに取れた。
レオンの母は茶碗を置いた。
「あの子たちが?」
「あの子たちよ」
「ないない」
手を振る。
強く振ったので、手紙の端が浮いた。
「うちの子、着替えも持っていかなかったのよ。お金も。そんな先のことまで考えてるわけないでしょう」
「先を考えてないから、心配してるんじゃない」
「……それはそうね」
納得しかけて、眉を寄せた。
「でも、セラちゃんがいるでしょう。しっかりしてるもの」
「しっかりしてる子が、置き手紙もなしに家を出る?」
レオンの母は黙った。
「せめて一行。無事ですでも、出かけますでも」
「出かけます、で一年は長いわね」
「買い物じゃないんだから」
セラの母は豆を籠へ戻した。
まだ筋を取っていない方の籠だった。
「それ、こっち」
「あら」
二人とも、しばらく豆を見た。
「……駆け落ちだったのかしら」
セラの母が小さく言った。
「止めてないのに?」
「ほら。王都へ行くことになったでしょう」
「ああ」
「離れるのが嫌で、とか」
レオンの母は、壁際に掛かった息子の古い上着を見た。
「あの子がそんなこと考えるかしら」
「考えなくても追いかけたんでしょう」
「まあね」
「昔から、セラが帰ってこないと捜しに行ってたもの」
「二人とも帰ってこなくなって、結局こっちが捜すのよ」
「森で迷った時ね」
「そう。それで見つけたら、二人で木苺食べてた」
「泣きながら」
「お腹は減るのよねえ」
懐かしそうに笑い、茶を飲む。
少し冷めていた。
「うちの子、セラちゃんに一緒に来てって言われたら、ついていくでしょうね」
「言わなくても来そうだけど」
「そうなのよ」
レオンの母はため息をついた。
「帰ってきたら、まず叱らないと」
「ええ」
「一年も便りを寄こさない」
「待つ方の身にもなってほしいわね」
「やっと書いたと思ったら、帰る日がない」
「それも」
「大事なことを後から言う」
そこで、二人の手が止まった。
「……後からね」
「玄関で言うのは、やめてほしいわ」
「ただいま、お母さん。ところでこの子、って?」
「ところで、じゃないわよ」
レオンの母が、何も持っていない腕を胸の前で丸めた。
セラの母はそこを見て、口元を押さえた。
「そんな小さかったら、あの山道を?」
「だから、先に知らせてほしいのよ。迎えにも行けるでしょう」
「荷車じゃ揺れるわ」
「毛布を敷けば」
「下に藁も入れないと」
レオンの母は立ち上がり、食器棚の隣にある木箱を引き出した。
「何してるの」
「確か、この下に」
布を二枚よけ、小さな生成りの服を取り出す。
袖は、手のひらより短かった。
セラの母が瞬きをした。
「取ってあったの?」
「捨てる理由がないもの」
広げると、襟元に薄い染みがあった。
何度洗っても落ちなかった染みだ。
「レオン、よく吐いたのよ」
「覚えてる。抱かせてもらった日に、私の服にも」
「あら、そうだった?」
「あなた、忘れてたの?」
「こっちは毎日だったから」
セラの母は笑って、小さな袖へ指を入れた。
「こんなに小さかったのね」
「足はよく動いたわ。寝てるのに蹴るの」
「今も寝相は悪そうね」
「そこは似ないでほしいわ」
「誰に?」
レオンの母は顔を上げた。
二人は見つめ合った。
「……まだ何も決まってないわよ」
「あなたが出してきたんでしょう」
「虫がついてないか確かめただけ」
「今?」
「今、思い出したの」
セラの母は、こらえきれずに笑った。
レオンの母も笑い、服を畳もうとして、もう一度広げた。
「一度洗った方がいいわね」
「虫の確認は?」
「終わった」
セラの母は茶を飲み干した。
「うちにもあるのよ」
「何が」
「セラの。もう少し厚手のやつ」
「冬ならそっちね」
「ただ、うちは二階が寒いから」
「こっちの奥の部屋なら、かまどの裏でしょう。暖かいわ」
「でも昼間はうちの方が日が入るのよ」
声が止まった。
今度は、セラの母からため息をついた。
「まず、あの子たちが帰ってきてからでしょう」
「本当にね」
鍋の蓋が、ことことと鳴った。
レオンの母が立ち、火を弱める。
セラの母は残った豆へ手を伸ばした。
窓の外を、畑帰りの男が荷車を引いて通っていく。
村の午後は、いつもどおりだった。
「帰ってきたら、何を食べさせようかしら」
かまどの前から、レオンの母が言った。
「レオンなら何でも食べるでしょう」
「食べるけど、好きなものくらい出してやりたいじゃない」
「豆と肉の煮込み」
「今、それを作ってるのよ」
「じゃあ、帰ってこなくても食べられるわね」
「そういうことじゃなくて」
セラの母が笑った。
「セラは、あの焼いたパンが好きなの。中に林檎を入れた」
「知ってるわよ。うちで焼くと、レオンより先に来るもの」
「匂いで分かるのかしら」
「うちの子が呼びに行くの」
豆をつまむ指が止まった。
「ああ。そう」
セラの母は、それから一本、ゆっくりと筋を取った。
「じゃあ、それも焼いてやって」
「ええ」
レオンの母は椅子へ戻り、手紙を丁寧に折り畳んだ。
封筒へ入れ、棚の引き出しへしまう。
小さな服は、木箱へ戻さなかった。
洗濯物の籠の、一番上へ置いた。
「この話、うちの人にはまだ言わないでね」
セラの母が言った。
「どうして」
「揺り籠を作り始めるから」
「まだ早いわよ」
「でしょう?」
レオンの母は頷いた。
「寸法も分からないのに」
セラの母は豆を置き、両手で顔を覆った。
皆様ここまで読んでいただきありがとうございます。
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作者のやる気が漲ります!




