幕間:スパイマスターの勧誘
【川島健吾】
明治に飛ばされてから、早くも10年が経った。
その間、俺たちは未来の悲劇を避けるべく、いろいろと取り組んできた。
おかげで国内は好景気に沸き、国力も着実に高まっている。
しかしそれはハード面に偏っており、ソフト面はまだまだだ。
特に過酷な国際関係を生き抜くための、諜報力が育っていない。
一応、俺なりに商会を立ち上げて、金を稼ぎながら諜報組織の構築を目指してきた。
おかげで資金には目処がついてきたものの、諜報組織はまだまだだ。
そこで俺は、思いきって先達を頼ることにした。
「初めまして。川島健吾と申します」
「明石元二郎だ。今日はどんな話が聞けるか、期待しているよ」
「おや、明石くんは川島くんを知っておったんかの?」
「ええ、面白いことをする青年がいると、噂で聞きまして」
「ほうか、それなら話が早そうじゃ」
都内のある料亭で、俺は明石中将と会談をもった。
仲介役として、大山元帥にも同席してもらっている。
「さすがは明石中将。耳が良いですね」
「フフ、まあ、体に染み付いた癖みたいなものさ」
「なるほど」
それから酒を酌み交わしつつ世間話をしていると、やがて中将から問われた。
「それで川島くん、君は何をしようとしているのかね?」
「……端的に言えば、我が国の諜報能力を高めたいと思っています」
「ほう、どこかと戦争になるのかな?」
「いえ、現状はそれほど切羽詰まってはいません。しかしロシアに匹敵する脅威が、いずれ現れる可能性はあります」
「フフ、そうだな。その時になって慌てるよりは、よほどいい」
「ええ、日露戦争前に、川上大将がやられていたような事は、今後も必要でしょう」
「おう、よく分かっとるな」
俺の返しに、中将は上機嫌で応じる。
そこで俺は切り札のノートパソコンを卓上に出した。
「何かね? これは」
「これはパソコンと言いまして、今からする話を補足するものです」
「ほう、それは楽しみだな」
いまだ余裕の中将に、俺は素性を明かしはじめた。
最初は笑って聞いていた彼も、次第に余裕を失っていく。
そして30年後に300万人の国民が犠牲になるくだりで、喘ぎ声を上げた。
「ウウッ、それは、それは本当に起こるのか?」
「はい、多少は変わるかもしれませんが、手をこまねいていれば、確実に起きるでしょう」
そう言っても、中将は首をかしげる。
「しかしアメリカとは満州の利権を分け合い、協力できている。よほどまずい対応をしなければ、共生できるのではないか?」
「フッ、私を試しているのですか? 先の大戦でアメリカは、世界を主導するような立場になりました。その欲望は、尽きるところを知らないでしょう。それだけではありません。ソ連や中国の都合によって、敵対関係が作られる可能性もあるのです」
すると中将は、感心したような表情で応じる。
「ほほう、冷徹に国際関係を見ているようだね。私もそれには賛成だ。しかしなぜ今、私にそれを言う?」
「いずれ来たる世界大戦に向けて、日本の諜報体制を建て直したいのです。ご協力いただけませんか?」
それを聞いた中将は、おもむろに煙草に火を付け、紫煙を深く吸い込んでから顔を向けた。
「実に興味深い話だね。私も昨今の軍の風潮には、懸念を抱いていたんだ」
「それは明石中将や福島大将のような方を、冷遇するような空気でしょうか?」
「ハハハ、本当によく知っているな。私や福島大将のことを、スパイや密偵と言って、蔑む連中がいるんだ」
「そのようですね。実に嘆かわしいことです」
「まったくだ」
そう言って中将が苦笑いする。
実は明石中将は昨年、参謀本部次長に就任していた。
それは参謀本部の実務を取りしきる重職であり、彼は十分に職責を果たしている。
しかし先に言ったように、スパイ活動や謀略に関わった人間を、蔑む連中がいる。
そんな奴らの圧力で、中将を参謀本部から追い出そうとする動きがあるのだ。
史実でもこの年、師団長として外に出されている。
「その風潮を放置すると、日本軍はやがて装備だけは立派で、まともな戦略を持たない劣悪な組織に堕しますよ。少なくとも、私の知る歴史ではそうなってしまいました」
「……それは否定できんな。だからといって、どうすればよい?」
「たとえアメリカを敵に回しても、容易には負けない体制を作るのです。川上大将が築いたような諜報体制を、新たに構築しましょう」
「川上大将の、ね」
今は亡き川上操六大将は、ロシアとの緊張が高まる中で、壮大な諜報体制を築いた。
それは大陸各国の情報を集め、いざという時は後方撹乱や妨害工作をも実現するものだった。
その手足となって働いたのが、目の前の中将だ。
残念ながら川上大将は20世紀になる前に急逝してしまったが、幸いにも児玉源太郎大将がその流れを引き継いだ。
児玉大将は日露開戦に際して、明確な戦略を描いていたという。
それは
・長期戦では勝ち目がないので先手必勝、短期決戦を挑む
6対4ぐらいの勝ちを得たら、早期講和に持ち込む
・ロシアの心臓部たるヨーロッパ方面で内部撹乱、反乱を起こして両面作戦を展開する
・シベリア鉄道を破壊するため、馬賊を糾合したゲリラ(満州義軍)を組織し、鉄道を攻撃する
・日英同盟によって英国から対露情報を収集して役立てる
といったものだ。
これがあったからこそ、世界中から無謀と思われた日露戦争で、かろうじて勝ちを拾うことができた。
しかし凡愚な連中は、その陰にあった苦労や努力を忘れ、諜報体制を弱体化させつつあった。
そんな思いを語っていると、やがて中将がうなずいた。
「よかろう。君のその情熱に懸けて、やってみようじゃないか。最後の奉公になりそうだな」
「ありがとうございます。閣下のご奉公、決して無駄にはさせません」
「うむ、よろしく頼む」
こうして俺は、稀代のスパイマスターを味方につけた。




