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第六章 願い、祈って 4

 何度か連れて来られた地下施設の、一番奥に案内されたのは初めてだった。


「……現実的な、指摘をしましょうか」


 目の前に置かれたガラス製の筒に眠る少女の死体。数秒観察して、リルは長谷川の計画の破綻を見抜く。


「この死体を模倣することはできません。したところで、既に生命活動を終えていますし、できる体ではありません。彼女の体はただ熟成された肉で、命が宿れるものではありません」


 魂、或いは命の器として、既に相応しくないものだ。


 幻光蟲が表世界に実体化させられるものの系統は二つ。感情と記憶を有する人間の肉体と、そこから発せられるエネルギーの変換と具現化である。


 後者は、魂が発する感情を性質ととらえて形を与える物。無から有を生み出すものであるが、前者は一を十に増やす増幅である。コピー元から大きく変化することはない。


「そんなことは理解しているのだよ。見た目はどうでもいい、どうせ病に侵された体だ、コピー元として相応しくないのは分かりきっている」

「ならば、こうして安置しているのは何故です」

「人間の意識とは何だと思う?」


 リルの問いに、長谷川は胡乱な問いを返した。


「脳が損傷すれば、人間には重大な不具合が出る。海馬に異常が出れば記憶領域に穴ができ、前頭葉が損傷すれば思考能力が低下するどころか失われる。産まれながらに脳に障害を持つものが現実で生きるのが、どれだけ困難で理解されないことか」


 無だ。小難しい話をする長谷川の感情は、ほぼ無味無臭だ。


 味がしない。なんの情も動いていない。けれど、エネルギー量は莫大だ。


 ここに少しでも感情というエッセンスを入れれば、たちまち凍り付き、燃え盛り、覆った草花が風で舞い上がってしまいそうなほどに。


「果たして、ヒトがヒトである最低条件とは、何だと思う?」


 長谷川が歩き出す。ガラスの筒を、愛おしそうに撫でている。


 ほんの少し、甘い香りが漂った。


 しかし、肌を突き刺すような僅かな苦味が、味わうことを拒否した。


「それは、あなたたち人間の方が知っているはずですが」

「いいや。ヒトならざるからこそ、俯瞰的に正しく見れるものだよ」


 ヒトの定義を問うているのだ。


 ヒト以外の生物からみて、固有の生物を人間と分類するための判断材料。これさえあれば人を名乗れるという、人間が持つ絶対的に欠けてはならない物。


 それは。


「……感情であると、私達は思います」


 幻光蟲が学ぶことでしか摂取できない、世に漂う意志のエネルギー。


「感情であれば他の生物も持つだろう」

「付け加えましょう。加えて、高度な思考能力です。難解とも言えますが」

「ならば、脳が動かなくなった人間はヒトではないのかね?」


 ただの言葉遊びではないか。どんな答えが正解なのかまるで分らない。


 四肢の一部を欠損していれば人間ではないのか? 否。


 ろくに頭が回らず、考えられなければ人間ではないのか? これも否。


 言葉を話せなければ人間ではないのか? 否。


 否。否。


 全て否。


「ヒトとして産まれたならば、それは全てヒトでしょう」


 どこに欠けがあろうとも。人間という種族に産まれたからには、人間だ。


 それは、幻光蟲が人間を真似てもヒトにはなれないことの理由でもある。


「彼女を私達が写し取ったとして。私達の中に、新たに彼女という存在の在り処ができるだけであり、占有権が彼女に移るわけではありません。私達はヒトにはなり得ません」


 暗闇に反響した声が、耳に入って拡散する。


「私達は、貴方の娘には、なれないのです」


 声を発して、体に帰ってきた言葉を、リルは他人事のように聞いていた。


 そう。真似ただけの模倣品は、本物ではない。


 どれだけ瓜二つであろうとも、贋作であって真作ではない。


 そしてヒトは偽物を忌む。真をこそ尊ぶ生き物だ。


 だから、初めて出会った時、翔矢はリルを殺そうとした。


 偽物だから。生きた己の姉を騙り、侮辱しているから。


 それでも、この小さな概念体に取り込んだ記憶も感情も、自分は彼の姉だと言っている。


 捨て去られるはずだった、同胞の記憶が。


 全にとって必要なかった、一の記憶が。


「何故だ? 何故今になって否定する? 君だって承諾しただろう。だからその対価として一時的に自由にしてやった。だと言うのに約束を守らないのか?」


 祈りを受けたなら、叶えるのが筋だと、思っていたのだ。


 ──《《私》》は、そう思った。


 受け取った願いを達成して、後は還ろうと、そう思っていたのだ。


 ──そう。《《私達》》は、そのつもりだった。


 ──でも。《《私達》》は、《《私》》になった。


「そのつもり、でした」


 幻光蟲として思考すれば、明らかに目の前の少女を模倣するのが役目を果たせる確信があった。


 だから、まだリルと名前が付けられていなかったころの彼女は、長谷川の要求を呑んだのだ。


「私が外出を申し出たのは、頼まれたからです。私達が受け取った感情と記憶の、元の持ち主である同胞が、『よろしくね』と、私達に言ったからです。まだ肉体を持たない幻光蟲でしたので、ずっと裏世界にいましたが──わざわざあちらに潜ってまで、理子様の母体をなり得る幻光蟲を貴方が探しに来たのは、僥倖でした」

「……そうだ。私の契約個体は幻光蟲の識別が得意でね、君が特殊な個体であると、直ぐに教えてくれた」

「初めて人間界に行くときには、肉体が作れず随分苦労しましたが……貴方が用意した理子様の存在を使って、なんとか顕現ができました。私達には、同胞が残した約束を果たす義務がありました。よろしくと言われたからには、この眼で近況を確かめない限り、私本来の幻光蟲としての義務も果たせそうになかった」


 裏世界から何度か人間界を見て、この人なら見本として十分だなと思える人間も多くいた。


 でも、しなかった。使命よりも前に、果たすべき約束があった。


 一方的な、別に叶えなくてもいい約束が。


「本当に、本当に……翔ちゃんの顔を見て、ちゃんと地に足をつけて生きられているようなら、私達は、それで満足だった、はずなのです」


 でも、会うなり自分を殺そうとした翔矢が、なんだかとても、歪に見えて。


 もう少し、もう少しと様子を見ているうちに、私と私達が、分離してしまった。


 表世界における見本が既に死亡しているリルが次元を超えるためには、既に死亡しているが体がある人間の存在権を又貸ししてもらう必要があった。今回、長谷川が手引きしたことで可能になったが、彼の娘の居場所に収まることでその問題点を解消した。


 なので、元々瑠璃の記憶と感情を大量に保有するリルであるが、理子との繋がりも相応に深い。ホルマリンの中で眠り続ける死体に、肉体構成をするに至る情報が残っている事も、分かっていた事だった。


 感情の許容範囲が広く、ある程度の拡張性を有するリルであれば、記憶から表層の感情を読み取ることも可能だろう。リルが保有する肉体に、理子という自我を乗せる手はずだった。


 こうすれば、長谷川の庇護下で彼の娘として生きることになる。彼女の持っていた感情はリルが本能的に欲する感情に近しかったから、利点しかない。拒否する理由などなかった。


 ──《《私達》》は、当然そうするだろうけれど。


 ──《《私は、嫌だ》》。


 理子の感情と記憶で己の感受性を上書きすることは、瑠璃を切り離し捨てることに他ならない。


 それだけは。今は、できなかった。


 今なら分かるのだ。


 あの日命を自ずから断った同胞が、何を思ったのか。


 何故人を真似て表世界に出た幻光蟲に、自死の機能が取り付けられているのか。


 個は必要ない。ただ、人間として生きることはすなわち、全から個へ価値観がシフトしていくのを意味する。


 そうなってしまえば、せっかく学んだ感情や記憶が回収できなくなる。当然の仕組みとして受け入れていたが、ある意味ではセーフティだったのだ。


 目覚めたなどと、たいそうな言い方はしない。


 かつて失われるモノと残した者を憂いた、あの子の姉をかたどった存在と同様に。


 翔矢の姉であるという認識を、新たな自我が上塗りした。


「……ですが、このコートも。飴も、パンケーキも、〝リル〟という名前も、私が頂いたものです。〝翔ちゃんの姉〟だから授けられたのではなく、私だからこそ」


 単純に、嫌だったのだ。


 だって、これは私に与えられたもの。


 簡単に捨てることも、それを良しとも思えない。


 〝あの子〟はただの一で、末端の幻光蟲であることから逃げられなかったけれど。


 リルはそもそも、まだ未熟だった概念体が、送り込まれる感情を受容するために同程度の存在をかき集めた一で、それ自体が群体だ。


 〝翔矢の姉〟であることを己に科していたけれど、翔矢と会ってから、彼らは──特に翔矢以外の人間は〝彼の姉〟であることを重要視しなかった。


 ヒトにとって幻光蟲が模倣した存在はまがい物。


 幻光蟲にとってヒトは見本に過ぎない。


 取得した記憶と感情に引っ張られ、元々自己に特段執着のない幻光蟲は、自我を手放してオリジナルに寄ってしまうだけだ。個として有ることを、主は容認しない。


「だったら、君は自分を何だと言うのだね?」


 智樹が問う。


 申し訳ないとは思う。ここから出るまでは、素直に彼を憐れんでいたし、翔矢に一回会えたらそれでいいと思っていたから、しれっと姿を消して戻る予定だったのに。


 実際に翔矢を見たら、〝あの子〟の記憶が鮮明に蘇ってしまって。強く、頑ななほどに染み付いてしまって。


 約束したし、帰らないとと思いながら、共に生活すればするだけ、離れがたくなってしまった。


 同じ感覚を知っていた。自分で体験する前に、リルは既にそれを知っていた。


 リルという存在が産まれたその時、彼女に降りかかってきた感情は、ただ甘い、光だけではなかった。


「私は、リルです」


 何故輝くのか。眩く主張するならば、必ずその光に照らされた何かが影を成す。


 失いたくない気持ちの裏に、独り占めしたい欲がある。


 誰かのためにと祈る心の裏に、己の領域は侵されないという慢心がある。


 その表裏こそがヒトであり、幻光蟲が得難い、感情の奥にあるものだ。


「残念ながら。気が変わりました」


 よかったと己を見送った翔矢に対して抱いた怒りの裏には、彼をどうにか生かさなければという心配があった。


 死んでほしくなかった。だから怒った。


 感情の理由付けができるのは、幻光蟲の処理能力を超えている。


「……そうだな、残念だ」


 長谷川が声を低めた。リルの腕を乱暴に掴むと、遺体の入ったガラス筒に押し付ける。


「だがね、こちらとしても約束通り、やってもらわねばならないのだよ」


 冷たくて、しょっぱい塩水の味。ヒトはこれを、涙と呼ぶのだろう。


 ガラスに叩きつけられて尚、リルは顔色を変えなかった。


 智樹がやりたいことなど簡単だ。感情や記憶に対して強い耐久性を持つ個体であるリルに、残しておいた娘の記憶を移植する。リルが記憶を処理すれば、疑似的に彼の娘を再現することは可能だ。他ならぬリルがそう判断する。


 けれど、移植を行えるのは幻光蟲のみ。リルにその気がない以上、方法はない。


「だったら、こうするさ。仲介くらいはできるだろう」


 智樹が篭鐘を片手で揺らす。揺れた鏡に否応なしに意識を向けられる。


 前言撤回だ。契約した幻光蟲を、無理矢理リルと同化させるつもりか。その場合、主導権を握るのは繋がっている人間になるから、理論上は可能だ。


 悲しい、涙の味がする。息苦しい、海で溺れたような、ギュッと胸が苦しくなる感情。


 そんなものを抱えて、行動は鬼気迫っていて。


 ヒトの心を少しは分かった気になっていたけれど、長谷川の動機はちっともわからない。


 ──失ったものを取り戻すために別のものを失うのでは、本末転倒なのではないのですか?


 問い掛けは言葉にならない。長谷川が持った篭鐘から、強く同胞が働きかけてくる。


 ──不本意なんだが、まぁ。このくらいは、許されるだろう。


 諦めは、泥の形をしている。


 床をタールが侵蝕し始めた。ガラス筒に押し付けられたまま、浮いたつま先が汚泥に絡めとられていく。


 これはマズい。同化どころか汚染だ。


 刹那、暗がりから、音もなく白刃が振るわれた。


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