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第六章 願い、祈って 3

 数日後、翔矢は幹久の愛車に乗り、出社に同行していた。


「本っっっっ当に大丈夫なんだよね翔矢君の隠ぺい力というか認識捻じ曲げる力って」


 幹久は相変わらず乗り気ではなさそうだ。翔矢の能力を疑っているらしいが、無理もない。


 実際見せられてもいないものを、ヒトは信じれないものだ。


「俺が斬ったもの、血でないっすよね? あれも体を斬ったと同時に、斬られてないって概念を一緒に刷り込んでるんすよ。物質的には斬れてるけど、世界とか概念とか、そういうぼんやりした、こう……ふわふわっとしたものには、斬れてないぞー何も起こってないぞーって認識させるっていうか」


 翔矢はうまく説明ができないのか、助手席でろくろを回す素振りを見せた。


 身なりは認識阻害を発動させるための黒い外套。篭鐘は膝の上に置いて、到着するまでは暇な時間。企業内に侵入してしまえば警戒しながら動かなければならないため、今のうちに心を落ち着かせておきたい。


「あれねぇ……鮮度が良すぎるってびっくりされるくらいなんだよね」

「いいじゃないっすか。細胞も死んでないし」

「血液の処理がさ、意外と……臓器は問題ないんだけど、抜いた後の体がね」


 車を運転している幹久の顔色が若干悪くなる。流血で大変だった事案でも思い出しているのだろうか。


 それからしばらく会話はなく、翔矢はぼんやりと今回の作戦を思い返す。


『いろいろと探っては見たんだけど……それっぽいのが一つあってね。東棟の一階に、どこに繋がってるか分からない扉があるんだ。どうにも倉庫っぽいし、表札にも第四倉庫って書いてあるんだけど。うちの東館ってさぁ、倉庫って二つしかないんだよね。第三はどこにいった? って話になるわけ』


 確証こそないが、その倉庫が怪しいのではないか。幹久がこそこそバレないように調べた結果は、それしか帰ってこなかった。


 彼も翔矢の身内だと知らず情報を流した負い目があるのか、結局は全面的に協力することを認めてくれた。


 〝不法侵入者が何してようが、僕は連れてきてないから〟


 何かあったら、その言い分でごり押すつもりらしい。


『入り口からも階段からも近いから人通りは多いんだけど、監視カメラが多くてさ。しかも死角がないように何個も、あの第四倉庫に向けて仕掛けてあるの。なんか妙だよねぇ。入るのに社員認証必須っぽいし』


 その倉庫が隠し扉の可能性もある。後ろめたい研究をしているなら、警備は厳重にするはずだ。


「……そういや幹久さん」

「なんだい翔矢くん」

「幹久さんとこの会社が幻光蟲つかってあれやこれやしてるの、会社のホームページになかったっすよね」

「そりゃあ、人間じゃないし。人間のコピーだとはいえ、人体実験みたいなもんだしねぇ」


 事前に調べたホームページには、幻光蟲の()の字もなかった。


 当然と言えば当然である。幻光蟲から抜いた臓器の売買をしているが大っぴらにはしておらず、表向きは医療品開発を行っている会社。主な製品は血液製剤や薬品が主だ。国内でも数割のシェアを持つ薬品会社だからこそ、クリーンでなければならない。


 医薬品は人間の治療に用いられるが、使い方を誤れば毒になる。少しでも不審な点があれば、製品の品質を疑われかねない。


「……もしかして、幻光蟲で治験とかやってたりしねぇっすか」

「まさか。とてもじゃないができないよ。論文に書けないし」

「そうじゃなくて。あんまり知られてない成分の研究とかに」


 ──例えば、細胞分裂の促進剤とか。脳に作用する成分とか。


 裏ルートで臓器売買を行っているのだ。その是非が問われていないのは、提供者が人間でないから──これに尽きる。


「……俺、他人を困らせてる幻光蟲が、他人を救うことになるならって、思うんす」


 膝の上の篭鐘に両手を添え、翔矢は言った。


「感情食われ続ければ大なり小なり被害がでるって分かってるから、まだ体を複製するくらいしかできてない幻光蟲も襲うっすけど……それが誰かのためになるからであって。そりゃあ俺は普通に襲えるし斬れちゃうし腕折ったりとかも平気でできるっすけど、それでもこう、幻光蟲で死人を複製しようだとかは思ってなかったわけで。考えもしなかったわけで」

「大義が、あるかどうか……かな?」

「自分が辛いから生きられないからって、死者の模倣品を進んで作ろうってのは、狂ってるっすよ。俺だって姉ちゃんが死んだのは悲しかったし、姉ちゃんと一緒に過ごした時間が綺麗さっぱりなくなったらって考えたら怖くて、それでコイツが応じてくれたわけで」


 膝の上に抱えた篭鐘は、小刻みに揺れる内部の鏡が光を反射していた。


「……死んだ奴が生き返りでもしたら、そいつは本当に死んだ奴なんすかね」


 自我は?


 記憶は?


 魂は?


 一体どこから現れて、どこに消える?


「哲学的だねぇ」


 翔矢の呟きに、幹久は興味無さそうに応じた。


「普通の人間はね、そんなことどうでもいいのさ」

「どうでもいい?」

「自分だけが良ければそれでいい、なんて奴ばかりさ、この世はね。誰もが欲で生きてる。もちろん僕も」

「……幹久さんは、何が欲しいんすか」


 世の中はクソしかいない。その考えだけは一致するようだが、細部は違うだろう。


「えー? お金じゃ買えないもの、かな」

「なんすかそれ」


 真面目に聞いたが、茶化した答えが返ってきた。苦笑いした幹久は、ハンドルを握ったまま車外を見つめ続けている。


「ふふー、内緒」


 車は企業の土地に辿り着き、幹久が少しだけ身を硬直させた。翔矢も黒いフードを目深にかぶって、呼吸を深く、押さえつけていく。


 出入口には守衛がいる。助手席に乗った翔矢に目もくれず、二人が乗った車は駐車場に向かうことができた。


「ほんとにバレなかった……入った後は責任取れないからね」

「分かってますよ」

「はー……、うわー、ほんと何事もありませんように……」


 製造工場と研究施設が併設された、灘市でも屈指の敷地面積を誇る会社だ。この広さをしらみつぶしに調べようと思うと一日では足りない。


 予め、幹久の現場が東館でないことは聞いている。敷地内の地図は貰って頭の中に叩き込んでおいたので、道は分かる。


「あぁ、一つ言っとくよ。ここ、鏡は殆どないから。窓も最小限だよ」


 できれば裏世界を使って移動したいところだが、あまり期待しない方がいいらしい。


 幸い、東館は駐車場から近い位置にある。接近することは可能だから、どうやって入り込もうか。


「じゃ、僕は普通に仕事に行くから──検討を祈るよ」


 幹久が大きく運転席側のドアを開け、続いて助手席から這い出るように翔矢も外に出る。


 周りの認知を欺けるとはいえ、熱源感知や赤外線など人間の意識を介さない媒体には引っかかるとみていい。自動ドアなどもってのほかだ。幸い、鍵の類は斬ってしまえば無効化はできるので──上から行こう。


 東館は敷地の東端にある。東側には、作業用の道路もない。見たところタンク式の貯水槽があるので、整備するための出入口が屋上付近にあるはずだ。


 息を殺し、出社する従業員たちの群れを横目に、翔矢は見つからずに東館へとたどり着いた。出入口には、自動ドアの奥に複数のカードリーダーがあるのが見えた。リーダーに従業員用のカードをかざして、やっと扉が開くらしい。正面から行くのは流石に無謀だ。


 配管や雨どいのくぼみを利用して壁をよじ登る。クライミングなどしたことがないのでなんども足や指を滑らせかけたが、なんとか屋上へ。既に息が上がっていたが、深呼吸を繰り返して落ち着けてから、見つけた出入口に近づいた。


 ドアノブを捻るがやはり鍵がかかっている。翔矢は篭鐘を取り出していつもの大鎌に変化させるが、しばらく考え込んでから得物を小突いた。


 ──ナイフくらいに小っちゃくなれないのかお前。


 室内で大ぶりな得物は振り回しにくい。小回りが利いたほうが、間合いが必要でない場合なら不意打ちに使える。数回叩くと、柄も刀身も縮んで大型のサバイバルナイフほどになった。切っ先は両刃、刀身の半分程度から片刃になり、峰には深い歯がついたソードブレイカーだ。


 ──よし。行こう。


 ナイフを順手に持ち、扉と壁の隙間に差し込む。鍵を滑らかに両断し、ゆっくりとドアを開く。


 扉の向こうには誰もいない。階下に続く階段があるのみだ。極力音を立てずにドアを閉じ、元の形に戻してから指でなぞって、数回叩く。


 もう一度ドアノブを捻れば、鍵がかかった状態に逆戻り。〝翔矢が斬ったと思っている間だけ斬れている〟力だと分かってしまえば、応用範囲は多岐にわたる。


 ──しかし便利だなお前。


 現実を見たくない。どうにかなかったことをあったことにしたい。そう望んだのは、翔矢自身だ。


 外套の裾を分離して、ブーツも覆って消音性を強化。そのまま階段を降りると、幹久が怪しいとみた第四倉庫は直ぐだった。観察は階段の踊り場から。


 ──倉庫にしては利便性が高い場所にあるな。


 入り口からも近く、隣にはエレベーターがある。倉庫の前は広く、物資の持ち寄りには不自由しないだろう。


 ただ、幹久が詳細を知らないというのであれば、少なからず幻光蟲から抜いた臓器を保管する場所ではない。


 ──監視カメラをどうにかしたいが、どうにかできるか……?


 踊り場からギリギリ倉庫前を見ている状況では手出しができない。方法があるとすれば、一気に監視カメラを落とすか、視野を塞ぐことができれば。


 ──煙幕かけるか、それで映らなくなるはずだ。


 外套の端を伸ばし、壁から天井に這わせる。ある程度の大きさになったら分裂し、天井から数十センチを黒いもやで覆う。


 これで監視カメラは潰せた。素早く第四倉庫と表示がされた扉の前に立ち、サバイバルナイフで鍵を潰す。


 他の部屋の入口は引き戸のようだが、ここだけ自動ドアだったらしい。片開きのドアを無理矢理こじ開けて、第四倉庫の中に滑り込む。


 灯りも何もついていない、真っ暗な部屋だった。そして倉庫というには、あまりに狭い。置けるモノも少なければ、棚だってない。足元を非常灯が照らし、先に階段が続いているだけだ。


 あからさまにおかしな空間だ。篭鐘をナイフにしたまま、翔矢は階段を降りた。


 地下に近づくにつれて灯りが強くなっていく。地下一階層についた時には、真っ白な廊下が広がっていた。廊下こそ灯りがついているが、ドアに付いたすりガラスから見えるのは暗い部屋だ。消灯されているらしい。


 人の気配はない。いるとしても、広すぎて翔矢が感知できないのか。ここから先の空間は未知なので、リルが居そうな部屋をしらみつぶしに探すしかない。


 息を殺して歩き、翔矢は半開きになっていた部屋を見つけて入ってみることにした。


 ──無人か。調べるにはちょうどいいが。


 灯りをつけないまま、暗い部屋を進んでデスクに近寄る。


 ひとまず近場の調査をしよう。デスクの引き出しを漁り、鍵はサバイバルナイフで壊して書類を探す。タブレットは見つかったが、これを弄るには時間がかかりすぎるだろう。翔矢のサバイバルナイフでは電子ロックは解除できない。紙媒体が欲しい所だ。


 デスクの周りにはなかったので、次は棚へ。扉を施錠していた南京錠を破壊し、中にあったファイル群を取り出す。よく分からない数字の数々が記載されているが、内容の読み取りまでは至らない。


 小難しい言葉が沢山並んでいるが、どうやら造血幹細胞に関わる資料のようだ。


 そういえば、長谷川の娘は白血病で死んでいた。ドナーがおらず移植ができなかった末の死去だったのなら、他の臓器と同様に幻光蟲をドナーにできればと考えるのは自然だ。


 それか、有用な血液の持ち主であれば。幻光蟲に体を複製させて、量をとることも可能かもしれない。どちらにせよ、人間と幻光蟲を併用した商売か、実験をしているようだ。


 ──なら他の場所か。


 気を取り直して、地下倉庫を進む。仕方ないので虱潰しに部屋を調べてみたが、空になった檻がほとんど。幻光蟲の使用履歴もなく、ここでは幻光蟲の臓器を使った移植作業や取引は行われていない様子だ。


 そうこうしているうちに階段が行き止まりになった。一番下層まできてしまったらしい。


 最下層は、廊下に灯りすら灯っていなかった。非常灯が小さく足元を照らしているだけだが、ここは今までの階層と雰囲気が違う。


 扉は厳重に閉ざされ、その向こうから物音がする。


 叫び声がほとんどだ。時折泣き声や、金切り声が混ざるくらい。明らかに異質だ。


 ──ここが当たりかもなぁ。


 いっそう用心して、翔矢は各部屋を扉の前から伺った。


 壁がひっきりなしに叩かれている。翔矢が近づけば近づくだけ、壁越しに唸る声が大きくなっていく。衝撃音も強くなっていて、壁の向こうの生物が翔矢に気付いている事は伺えた。


 長くいると、気が狂いそうだ。


 いつ壁を破壊されるかも分からない。左右から聞こえる音が心臓の鼓動をかき消していく。足音を消し、翔矢は最奥に辿り着いた。


 倉庫入り口と同じカードロックだ。ソードブレイカーをドアの隙間にねじ込み、スライドさせて鍵を切断する。てこの原理で扉を開き、翔矢は室内へ身を滑り込ませた。


 灯りは付いていない。ソードブレイカーをいったん篭鐘に戻し、中に吊り下げられた鏡にほのかな光を灯してやっと、周囲の状況が見えてくる。


「……リル?」


 名前を呼ぶが、返事がない。地下倉庫内の部屋は全て回った。そもそも不在だったのなら、とんだ骨折り損だ。


 ただ、何かしらの実験をしているのは事実。調べるだけ調べて、リルの所在に繋がる情報を探そう。


 室内はこれまで訪れた中で一番大きいが、大小様々な鏡が置かれているだけだ。


 唯一鏡以外だったのが、部屋の奥に設置された筒を横倒しにした機器だった。これだけ布が被せられているのだ。


「……なんだ、こ──⁉」


 恐る恐る布を捲った翔矢だったが、隠されていたモノを視認した瞬間に布を被せ直した。


 今、見てはいけないものを見てしまった気がする。


「いや、は……? まて、どっかに……あった」


 慌てて近場を探し、機器の横に置かれていたファイルを開く。


『長谷川理子』


 何度も読みこまれたのか、端が破れ、皺が多い紙に印刷されていた名前だった。


 ファイルと布を被せた機器を何度も見返し、深く息を吸う。意を決して布を剥がすと、露になったのは人体だった。


 横倒しになった筒状のガラスの中に、人間が沈んでいる。


 生命維持装置の類は取り付けられていないから、死体だろう。それにしては保存状態がすこぶるいい。筋肉はおろか臓器も腐らず残っているだろう。


 姉が──姉を模した幻光蟲が死んだ時と同じ年代の少女が、液体の中に安置されていた。


「……ホルマリンで、漬けてんのか……?」


 思わず声が出る。


 世界のどこかで、廃病院で死亡した胎児のホルマリン漬けが発見されたのを小耳にはさんだことがある。詳しくないが、生物の長期保存ならホルマリン、という情報を頭が引っ張り出していた。


 瓶に似た物に液体と生き物を詰めるなんて、そんな王道な事を。よりにもよって人間で?


 否。それよりも、突っ込むべき部分は。


 長谷川。長谷川という苗字だ。企業の御曹司であるという長谷川智樹と、苗字が一致する。


 まさかこの少女、病死したという彼の娘か?


 死んだ人間を火葬に出してやらないなんて、そんなのあり得ていいのか。


 ましてや、こんな地下深くで、ご丁寧に安置するなどと。


「ありえ、ねぇ、だろ」


 死体と言う死体を見るのは、これが初めてだった。


 幻光蟲も人間も、四肢を切り落としてはいたが、あくまで物理的には生きていたままだ。よって殺したわけではないし、自分が作る死体と言えば、手足の欠損したものがほとんど。ほぼ出血死する怪我で、人間の形から逸脱しているからこそ死体だという認識ができていたけれど。


 動悸が酷い。内臓が硬直して動きが止まる。痙攣するように震えた筋肉が、腹から何かを押し出していく。


「──ッ、げ、あ……っ……ぉ、え──」


 慌てて壁際まで走り、膝をついて吐いた。


 体も心も魂も、目の前にある状況を拒否していた。


 時間が止まったかのように、少女の遺体は眠り続けている。


 死んでいると思えないほど、体が綺麗だ。意味が分からない。


 気持ちが悪い。気が狂っている。


 理解できないし、しようとも思わない。


 けれど、長谷川が成し遂げたいことを思い出して。


 この状況が、納得できてしまった。


 だからこそ、尚更受け入れられない。


『まるで人間みたいに自我が発達してただろ、あの子。でも幻光蟲だ。なら……あの子を素体にして、死人の体を模倣させて、記憶の抽出や挿入ができれば……』


 幹久の言葉を思い出す。推測でしかなかったが、まさかの大当たりか。


 オリジナルが此処にある。


 魂はともかく、脳に焼き付いた記憶を読み取り復元することは可能だろう。


 感情は記憶から生成し直すしかないだろうが。


 馬鹿な。本当に、死んだ娘を生き返らせるつもりか。


 本物でもない、嘘だらけの模倣品を、本物に仕立て上げるつもりか?


 そんなことで、大切な人間を失った悲しみが、癒えると思っているのか?


 胃の中身は空っぽで、酸っぱい胃液を吐き出すばかり。吐き気が収まってきたので、汚れた口元を乱暴に拭いながら、ソードブレイカーを大鎌に変化させる。


 大鎌を支えにして、しっかりを床を石突で支えながら、翔矢は再び強化ガラス製の筒に近寄った。


 書類の通り、長谷川理子なのか、調べる必要があった。


 頻繁にやってくる嘔気は固く目を瞑ってやり過ごし、喉を引きつらせながらホルマリンに沈む死体を検分する。


 確か、長谷川の娘は癌転移による多臓器不全で死んだはずだ。目に見える腫瘍があるかわからないが、死亡してすぐに漬け込まれたなら、腫瘍もそのまま残っているはず。


 顔を歪めて、翔矢はガラスの筒に近寄る。死体の首付近と脇の下に、僅かな膨らみが見えた。場所的に言えばリンパ節か、扁桃腺のあたりだ。更に胸部は細胞が侵蝕してきたのか、皮膚の色が変色している。


 ファイルをもう一度開いて、転移箇所を確認する。他の部位にも複数転移していたようだが、場所は合致する。間違いはないようだが。


 さて、これからどうするか。リルを捜しても手掛かりがなかったのだ。


 翔矢自身は長谷川の目的などどうでもよかった。


 生きた人間を飼っていたのは流石に目に余るが、それ以外はヒトならざる幻光蟲の飼育と実験である。


 最終的に娘の代替品を作り出そうが、それが倫理的に褒められたものでなかろうが、自分に実害がなければ興味がない。


 翔矢には、血を出さずに肉を斬ることはできても、燃やすことはできない。この死体を火葬してやることも、弔ってやることもできない。ホルマリンの中で状態が安定している以上、下手に手を出して腐敗したほうが、彼女に申し訳ない気がした。


 手を出すべきではない。ここで見たものは、全て黙っておくべきだ。


 そう決めて、翔矢は立ち上がる。不法侵入しても空振りだったのは残念極まりないが、ならば次は──長谷川の自宅でも調べるか。そう思って部屋の入口に顔を向けた瞬間、端から過ぎ去った死体がこちらを見ている気がして振り向いた。


 顔の向きを変えず、眼球だけがぐるりと回って、篭鐘の灯りに照らされる翔矢を見つめていた気がする。


 ──今、こっち見てなかったか?


 二度見してじっくり観察する覚悟ができた頃には、先ほどまでの死体に戻っていた。


 気のせいだろう。深呼吸して気を取り直した瞬間、向かおうとしていた出入口のロックが外れる音がした。


 慌ててガラス筒の後ろと壁の間に滑り込み、大鎌ごと黒い外套を被せて身を隠す。


 誰か来た。息を潜めて二つの足音に耳を澄ました。


「さて、そろそろ決めてもらえないか」


 長谷川の声だった。あともう一つの足音は、彼の革靴よりも柔らかいスニーカーの音。


「……そうですね」


 リルだった。脱走を恐れて常に自分の側においていたらしい。今すぐに飛び出したい衝動にかられながら、翔矢は必死に気配を殺す。


 首を刈るにも距離が遠い。位置関係もわからないのでリルに当たる可能性がある。


 それに、今のところ気づかれていないのなら。この会話で、リルの真意を知れるかもしれない。


 二人の間で何があったのか。彼女は瑠璃の死後、どこに行って、どこから再び現れ、何故翔矢の前に姿を現したのか。


 娘の死体が眠るこの最奥で、長谷川はリルを使って何をしようとしているのか。



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