第六章 願い、祈って 5
──今までそんな大事なこと黙っていやがって。
瑠璃の複製体が自死する前に記憶と感情を移譲された?
その際に周りの幻光蟲を巻き込んで群体になっていた?
一緒にいるうちに自我が発現して、今はリルであることに固執するようになっている?
なんだ。なんだそれは。
苛立ちと共に振るった刃は、せり上がった泥の壁に遮られる。
「その泥しまえよ、クソったれ!」
斬り伏せても流体故に手ごたえがなく、斬ったそばから復元されてしまう。一瞬見えた長谷川は、かなり焦った顔をしていた。
焦るのはこちらの方だ。完全に気配を殺していたというのに、何故察知された。
「〝お前は壁だ!〟」
大鎌に強く念じて、もう一度泥を裂く。泥は上下に二分割され、柄で固まった泥を吹き飛ばす。どうやら生物以外の認知も捻じ曲げられるようだ。
「長谷川さんよ! リルを返してもらおうか!」
大鎌を床に突き刺し、リルを押し付ける長谷川との間に割り込む。
「貴様どこから──ッ」
「どこからはこっちの台詞だ! よくさっきの反応したな!?」
力づくで引き剥がし、リルを抱き留める。
相変わらず、小さな体だ。
「返せ! それがなければ理子が帰ってこないんだ!」
「帰ってくるわけねぇだろうが! 死んだ人間は帰ってこねぇんだよ!」
「ならばそこにいる彼女はなんだ⁉ 君の姉君なのだろう、死んだ姉が何故存在しているというのかね!」
「そいつが本物だからに決まってんだろうが!」
知っている。分かっている。
全てを理解したうえで、リルは本物の姉である。
そう、認識した。
姉だが、姉ではない。
「……正気かね?」
幻光蟲を本物だ、などと。確かに気が狂ったと思われて仕方ない。
だが事実なのだ。
「元の瑠璃ねえちゃんは俺が産まれる前に死んでた。俺が瑠璃ねえちゃんだと思ってたやつは、瑠璃ねえちゃんを騙った幻光蟲だった」
──だって、御剣瑠璃と名付けられた人間を、俺は知らない。
正確に言えば、翔矢の両親を始めとした、ごく少数の人間の中にしか生きていなかった。
正しく瑠璃と言える人間は、赤子の姿で止まっている。
「その模倣品は、十六年間、姉ちゃんとして生き続けた。幻光蟲としての命を全うして、自死を選ぶまで、確かに〝御剣瑠璃〟として生きてた──なぁ、物心もつかない幼少期に死んだ人間を模した幻光蟲が、他の子どもと同じように順調に感情を、記憶を積み重ねて生きてきたとしたら、俺はそれを嘘だとは思えない。コピーだとは考えられない。俺にとって、十六まで生きた幻光蟲が瑠璃姉ちゃんで、俺の、本当の姉ちゃんだ」
世界から否定される記憶であろうが、蟲の親玉に必要ないと斬り捨てられようが。
ただ一人、翔矢だけが、必要としている。
「でも、姉ちゃんは元々六歳で死んでた。だからみんな姉ちゃんを忘れた、元から存在してなかったとしてな。でも俺は嫌だった。嫌なんだよ、そうだろ長谷川さんよ」
長谷川は苦虫を噛み潰した顔をして、翔矢の独白を聞いていた。
「大事な人の事を忘れて、何食わぬ顔をして生きていたくないだろ」
果たして、自分もお前と同じ大切なものを失った者だと立場を明かしたとして、この男が止まるだろうか。
泥のような思考にはまり、諦めという泥の形を具現化させてなお、何らかの感情を持って動くこの男を。
「俺が瑠璃姉ちゃんの事を覚えておくためには、姉ちゃんの感情と記憶を持ってるリルがいるんだ。俺が俺で居るために、コイツをあんたの娘にさせるわけにはいかねぇんだよ」
腕の中で『翔ちゃん』と小さく声がした。
「あんたは何がしてぇんだよ、自分の娘を蘇らせて」
ぼんやりとだが、気づいていた。
恐らく。恐らく、娘にもう一度会いたいという願いでも、手段はあったのにそれを取れなかった不甲斐なさでもない。助けられなかった苦痛でも、ここで死ぬはずではなかったという後悔でもない。
贖罪だ。
己が殺してしまった自負の念から来る、償いなのだ。
殺してしまったことの償いならば、その逆に命を与えればいい。
だがその命題は、新たに生を授けた瞬間に達成される。
それで、終わり。
リルを犠牲に、娘の模造品を作って、それで。
──罪滅ぼしのつもりか、そんなの。
「死んだ事実は覆らねぇぞ」
泥は静かに床を覆っていた。ブーツの踵を浮かせると、ぐちゃりと粘着質な音と共に抵抗がくる。
泥と言っても質は様々。微細な粒子に多量の水分が混ざっていて、見た目は液体なのに力をかけた瞬間に固形化して固くなる。水で溶かした片栗粉のようだ。。
一度落ちれば抜け出せない。そんな状態を表しているように思えた。
「諦めるとでも、思うのかね? 娘は無駄死にさせ、妻は思想に狂った挙句正気に戻って身を投げた──あの子も彼女も私も、こうまでされる理由はあったのか?」
「知らねぇよ、自分で考えろ」
「考えた結果がこれだろう!」
「じゃあ若い頃かぶるはずだった苦労が今来ただけじゃねぇのか」
「ふざけるなッ!」
正直、長谷川がいい所のお坊ちゃんとして生きていて、何不自由なく育った人間である、という偏見は抜けないが。
──そっか、これが初めての挫折かもしれねぇのかこの人。
リルの身の安全さえ確保できれば、長谷川の望みなどどうでもいい。今は双方が必要としているから対立しているだけだ。その過去に関しては、同情して余りあるのだが。
足元は粘着質な泥にとられて移動しにくい。リルだけ外に出すにしても、廊下の両サイドを固めていた異形が溢れだしたらと思うと危険で無理だ。
「私はッ! 私は、理子の最期が、最期の言葉が『ごめんね』だったなどと到底認められない! あの子が何をした、病に倒れたことも治らなかったことも、何も悪くないのに! 何故謝る必要があった!?」
「──長谷川様、違います」
違います。と重ねてリルが言った。庇うように彼女を抱いていた翔矢だが、腕を押しのけるようにリルが力を込めたのに気づいて手を解く。
「それは、謝罪ではありません。貴方と奥様を残して先に死んでしまうことを、申し訳なく思ったわけではないのです」
リルがゆっくりと、泥を固めないようにゆっくりと一歩歩を進めた。
彼女はぼろぼろのウールコートを着たままだった。余った袖を捲り、手をポケットに突っこんで取り出したのは、ピンクの包み紙だった。
リルが翔矢と出会ってからもらった、大切にしていたものだ。
「幻光蟲風情に何が分かる!」
「分かります。かつて、先日、そして今。私は同胞から、翔ちゃんから、そしてここに眠る理子様の遺体から、同じ思いを感じています」
リルはしっかりと、泥の下にある床を踏みしめた。ガラス筒に眠る遺体に視線をやり、続けて長谷川を真っ直ぐ見つめた。
「祈りです、長谷川様。その綿あめのように甘い、軽やかで、どこにでも飛んで行ってしまいそうな甘い香りは、人の願いなのです」
リルは、幻光蟲であるが故に感情に敏感だ。ヒト以上に感受性が高く、一度理解すれば感情に秘められた細かな意志も判別可能だろう。
こと、複数の幻光蟲を従え、リルとして自我が芽生えたが故に、主から切り離されてしまったリルならば。まだ心は発生していないかもしれないが、理解するだけの知識は持っている。
「惜しかったのです。これ以上、貴方の娘として生きられなくなることが、悔しかった。手放したくなかった、けれど病には抗えなかった。己にはどうしようもない理不尽に抗う時、ヒトが最期に残すのは、愛なのです」
「愛だと? 知った口を」
「知った口です。私ならば遺体に残された感情を読み取れるだろうと、期待したのは貴方ではないですか」
「全て食う気がないのなら勝手に覗くな!」
「いいえ、これは理子様の望みです。ヒトの記憶は肉体に宿り、心は魂に宿る。確かに、この遺体に両方残っています──最後の力で振り絞った言葉が『ごめんね』だったことを、悔いてらっしゃいました。こう判断できるのは、私がリルであるからです。理子様の記憶をインストールしていれば、結果は違いました」
案外、人間は自分自身の事を正しく見られないものだ。偏った視線は自分にも適応されるし、困ったことに自発的に気づくのは難しい。
吐き出した言葉、滲み出た感情に籠った本当の思い、奥底に眠った種火の如く小さな心など、自我に潰されて正しくつかむことはできまい。他人が分析するからこそ、ヒトの思いと言うものは表すことができる。
沸き起こった感情に、何故、どうしてと、疑う人間はいない。
だが、疑わなければ理解することは叶わない。
「意外に、ヒトは自分の事を知らないのです。同胞が真似た己と、向き合うことを拒否する程度には」
リルが長谷川を諭す間に、翔矢は頭をフル回転させる。
「もう一回言うけど、あんたの目的はどうでもいい。俺はあんたを恨んでも憎んでもいねぇ、勝手にしろって感じだ。ただリルを使い潰されるのが容認できねぇだけでな。ここの設備にかんしても何もしてねぇ、情報を警察や週刊誌に流すつもりもねぇ、見聞きしたことは墓までもってってやる」
交渉の余地がある。翔矢はそう考えた。
「……だから、私に、諦めろと?」
「んなこと言ってねぇだろ、リルは渡せねぇってだけだ。またほかに似たような幻光蟲の個体が出てくるかも知んねぇだろ、それを使う分には何も言わねぇって」
正直、長谷川のことは同情すれどどうでもいい。やり過ぎているだけで根が悪ではないし──リルを取り戻すついでに失敗作の処分も任せてきたのは苛つくが、できれば穏便に事を済ませたい。
翔矢とて命を殺せるだけで、殺しが好きなわけではない。犠牲は少ない方がいいし、戦いなど無いに越したことはないのだ。
「君がその通りにする保証がない」
「やけに疑うな、ほんとだよ。俺はあんたに興味はねぇ。あんたの会社にとっても俺は取引相手のお得意様だろ? 黙ってりゃ良い事尽くめだ、違うか?」
「だがこの少女を使うようなら」
「俺は姉ちゃんの事忘れたくねぇから殺すよ、邪魔だし。でも積極的に殺したいわけじゃない。そうなったら不本意だよ。俺にはあんたを絶対に殺さなきゃいけない理由がない。意外とめんどくさいんだよ、死体の処理ってさ」
問う。しばらく考え込んだ長谷川が静かに篭鐘を鳴らした。
とぽん、と水が波打つ音がして、床の泥から水分が抜けていく。床に敷き詰められた砂に足が沈むが、砂浜のような感覚で動きにくいだけだ。
「……代わりの幻光蟲を見つけるのに、君を使わせろ。それで、彼女は諦めてやる」
「いいっすよ。リルが無事なら」
翔矢は即答した。抱えておく秘密が増えてしまったが、まぁ、いいか。
「……私も流石に、命は惜しい」
篭鐘を使えるとはいえ、武器化はできないようだし、戦いは不得手なようだ。泥を壁にされて斬り捨てられたのをみれば、ほぼ瞬間的に殺されるのが目に見えていただろう。
「生きたまま、バラバラにされたくもないしな」
悪趣味な、と長谷川は吐き捨てて、娘の遺体が眠るガラス筒に近寄った。
──悪趣味はどっちだよ。
突っこんだら交渉が決裂しそうな気がしたので、黙っておく。
「……死人を前に、命は惜しいと言うのは、嘲りになるか」
──それを言うなら遺体をホルマリン漬けするほうがどうかしてるぞ。
「いや、あんた……」
やはりこの男、行動原理が自分にある。普通、遺体を埋葬せずとっておく発想は常人なら持ち得ない。どこか頭のネジが外れている事は間違いないだろう。
そもそも、やろうとしている事は幻光蟲を使用した復元作業だ。
記憶は肉体に宿る。別の体に、幻光蟲を介して記憶と感情を移植したところで──それは、当人だと言えるだろうか。
必ずどこかが破綻する。だが、止める義理もなかった。
「……なんでもない」
長谷川はガラス筒に布をかけ直し、名残惜しそうに見つめていた。眼差しは娘をいとおしむ父のそれで、身の毛がよだつようなうすら寒さを感じる。
「……ところであんた、外のアレ、どうすんだ? ってかアレなんだよ」
「あぁ、あれか。失敗作だよ」
「それは知ってんだよ。幻光蟲だろ、何したんだ」
「既に体まで複製できた、人間に近い幻光蟲に記憶を移植するとどうなるか確かめていた。ぶっつけ本番で、彼女を壊すわけにはいかなかったからな」
「めどがついたのか、その個体は?」
「いいや、全て失敗した。やはり幻光蟲側の受容量が足りなかったからな」
──この人、意外とライブ感で生きてないか?
娘への愛情も、ねじ曲がった倫理観も、手段を問わない無法さも、全てひっくるめて長谷川という男なのだろう。
「……ま、いいや」
「口約束だが、反故にした場合は即座に彼女を取り戻しに来ると考えたまえよ」
「分かってるよ」
複雑怪奇だが、だからこそ幻光蟲と契約できたのかもしれない。
「……翔ちゃん」
長谷川と喋っている間、リルはずっと隠されたガラス筒を見つめていた。
「どうした? さっさとずらかろ──」
「あれは、なんですか?」
あれって、遺体だが。そう思ってリルを見下ろすと、彼女の瞳孔が収縮を繰り返しているのが見えた。
何かに反応しているが、人間である翔矢には分からない。訝しんで長谷川に視線をやるも、彼もまた首をかしげるばかりだった。
「なんだ、理子がどうかしたのかね。アレとは失敬な──」
「っ、いけません長谷川様! 離れてください!」
布を再び剝ごうとした長谷川を、リルが鋭い声で呼び止めた。
めき、とひびが入った音がする。かけた布があっという間に湿っていく。
「なん──」
「おい下がれおっさん!」
おかしい、と声に出す間もなく、遺体を詰めていたガラスの筒が崩壊し、ホルマリン溶液がそこら中に噴き出した。




