声の在処
イヤホンを耳に差したとき、なぜか手が震えた。
映像じゃない。ただの音声ファイル。
それだけのはずなのに、心の奥がざわついている。
「このファイル、兄の個人フォルダにあったの。日付は去年の秋」
智子さんが、慎重に言葉を選びながら差し出してきた。
「映像はないけど、何かおかしいって……」
私の膝の上にノートPCがある。
フォルダ名は「AF_log」。
その中にひとつだけ、再生回数がゼロの音声ファイル。
log_b07_audio.wav
ファイル名の“b07”という文字に、喉がひくりと動いた。
再生ボタンを押した。
——ノイズ。
小さくザザ……と、ラジオが周波数を探しているような音。
そのあと、数秒の沈黙。
そして、
「……こっちを見てるんだよ。気づいてないふり、してるだけで」
女の声だった。
けれど——それが、私の声にそっくりだった。
耳を疑った。
録音された自分の声は、少し低く聞こえる。
でもこの声は、まさに私が普段しゃべっている声そのもの。
「だから、“もう少しだけ”黙っててほしい。……バレたら、終わりだから」
私の息が止まった。
このセリフを私は——言った記憶がない。
でも、たしかに“私の口調”だった。
間の取り方、語尾の濁らせ方、緊張を誤魔化す笑い混じりのトーン。
私の、“素”そのものだった。
「ねえ……これ、本当に……」
喉から絞り出すように言葉が漏れる。
「美咲……?」
智子さんが、心配そうに隣を覗き込んだ。
私は、もう一度再生した。
何かの間違いであってほしかった。
でも、そこにあったのはやはり私の声。
そしてもう一度、同じ台詞。
「……バレたら、終わりだから」
この音声は、私じゃない。
けれど、私の何かが——誰かの手によって再現されていた。
パソコンの画面は、音声ファイルの波形を示していた。
規則的な振幅、途中でわずかに途切れる個所。
編集の跡か、あるいは……。
「これ、加工されてる可能性ある?」
私は震える指先で画面をスクロールしながら尋ねた。
「波形上では不自然な部分は少ないけど、合成なら十分あり得る」
大輔の声が、いつになく真剣だった。
智子さんが静かに補足する。
「圭さんがこのファイルをどこから手に入れたのかは、記録にない。
でも、ファイル名の“07”って……新しい記録と関係あるよね」
Bellflower_07。
まだ再生されていない、次の観察対象ファイル。
もしこの音声がその一部だとしたら——
私は、すでに“対象”として録音されていたの?
「でもこれ、完全に私の話し方そのものなの。
過去の記録から作られたとしても……怖い」
私は唇を噛んだ。
誰かが私の言葉を編集し、組み立て、
“存在しない私”を作っている。
そのとき、大輔がふと別のウィンドウを開いた。
「ついでに見てくれ、#05の映像に妙な動きがあったんだよ」
Bellflower_05——それは旧企画室の窓辺での映像。
モノクロに近い画調で、明るさが不自然に抑えられている。
私が確認すると、映像の中盤。
光の揺れと共に、カーテンが一瞬動いた。
そして——その陰に、一瞬だけ“何かの影”が映った。
それは、背の高い人影だった。
顔は見えない。
でも、その立ち方、肩の角度、首の傾き——
「……これ、大輔くんに似てる……」
私がつぶやくと、彼はしばらく黙ってから言った。
「似てるかもしれない。でも、俺はここにいなかったはずだよ」
画面は静止していた。
誰のものとも分からない影が、淡く焼きついている。
自分の声が、自分のものではないように
彼の姿もまた、“記録のどこか”で別の存在になっているのかもしれない。
その夜、私は一人になってからイヤホンをもう一度耳に入れた。
再生ボタンは押さない。
ただ、ファイル名を見つめていた。
「log_b07_audio.wav」
この記録のどこまでが“私”で、
どこからが“誰かが作った私”なのか。
わからなくなる。
でも、ひとつだけ確かに言える。
——私の声は、誰かに聞かれていた。
記録されていた。
そして、それを使って何かが始まろうとしている。




