⑳ 重圧
日曜昼過ぎのカンファレンスルームでは、研修医らが自主的にそれぞれの仕事に取り組んでいた。ユウキや間宮以外の3人の親は医師であり、この医局の出身である。したがって、ここでの古い伝統・掟については叩き込まれている。当医局のスローガンは「患者にはりつけ」。いい言葉だが、これがどういうことを意味するかを、彼らは身をもって少しずつ学んでいくことになる。
田宮はしかし、そんなスローガンに従うことが嫌だった。ただ、卒業して親父の開業を継ぐというコースには安定感を感じてはいた。贅沢なことではある。しかし、それではまるでそのために自分が産み落とされた、そんな気がしてならないのだ・・・。ならば、自分の力で生きるということはもう大学合格の時点で終わっている。多くの医者のように。
「失礼します」コンコン、と同時に芦原が入ってきた。
「あ!ナイスガイ芦原先生!」立ち上がったのは、野中だった。
「家庭教師が来たよーん」
好青年の風貌からは考えられない茶目っ気だ。薄いサングラスを下にずらす。まるでポパイなどの雑誌の表紙だ。
「アッシ先生、やめてくださいよ。僕、生徒じゃないし」
「いんや~、君の父さんに申し訳が立たないからさ」今でいう、ミッチーみたいなノリの先生と言えば想像しやすいだろう。
「じゃ、行きましょうか!」
「そうだね・・空いてる部屋は・・」
「ムンテラ用の部屋がありますので!」
「ああ、処置室のとこね。看護婦さん、口説いちゃおかな~むふふ!」
なんて仲の良い2人だ・・・野中のはしゃいだ表情なんて、めったに見れるものではない。
「じゃ、借りるよ!」芦原はバイバイして、野中と去った。
「なにあれ・・」グッチは閉口した。なお、さきほど芦原がしつこく目線を送っていたが、彼女は適度にあしらっていた。
「遊び人だな」田宮も、陰ではそう呼ばれてはいるが。
「培養も出したし、座薬の指示もこれでよし・・・と!」
「高齢の患者さんに、座薬っていいのかい?」
「大丈夫。使用前にドクターに是非を問うこと、ってしてる。機械的な指示はするなって、パパから言われてるの」
「パパときたかい!」
バタン、というドアの音で、川口と田宮の会話は一瞬にして吹き飛んだ。なぜか2人とも、殺気のようなものを感じた。
「・・・・・おう。冷房入れんとんか。豪勢やなあ」
ズン、ズンと巨体が入ってきた。新品の白衣で、腹の黒いシャツがはみ出している。
「研修医か、そうやな」
2人は視線をそらした。
「ひっさしぶりやなあ。何も変わっとらん」
死んだような目。日焼けしすぎた黒っぽい顔。
「何をしよんねや。なあ。お嬢ちゃん」
「え?わたし・・・」
「お前しか、おらんやないかい?」
グッチは立ち上がった。
「か、川口と言います!1年目です!よろしくお願いします!」大きく、おじぎ。
「お前、巨乳やな。肩こらんか?」
「えっ?」
「彼氏に、もんでもらっとんか。わはは!」
内容はともかく、緊張が解けたように思えた。田宮は名札がないか覗き込んだ。
「自分は田宮です。よろしくお願いします。あの、先生。お名前は」
「おれ?あ、そうだな。自己紹介せえっちゅんか。俺の名前は、杉山や」
「うわっ!」
田宮から出た言葉は、あまりにもの意外性だった。いつ戻ってくるかわからない、それも当分先だろうといわれていた先生。ユウキの本来の指導医が、やっと戻ってきたわけだ。そ、そうだ。俺の指導医ではない。ではこの医者は無害だ。高見の見物させてもらうには、いい機会かもしれない。だったら、最初の関係は良好にしときたい。さっきの野中・芦原組のような関係までは要らないが。
「うわって、なんや君。しっつれいやなー!」
「す、すみません」
ドカッと、大きなソファに45度体を沈めた。
「おれ、そんなに怖ないで。みんな、さぞかし俺のことを悪口言っとったんやろなー!イメージングできるで」
「はは・・」田宮は合わせるのに必死。グッチはさっきの言葉が気になるのか、よそを向いている。
「いやな。ここの指導医やってくれって教授が俺に頼みよんねん。最近若いのがたるんどるから、どやここで一発、かましたれってな。はは、カマ、カマまでかましていいですかって、おれ酒の席で言うてもうたねん!わはは!」
この<わはは>の瞬間、開きかけたドアがまた閉じた。2人は、無人島の救援に失敗したような気持だった。
「ま、俺の最大の関心ごとは宮川の存在や。あいつ腹立つ。年下のくせに・・・」
「宮川先生・・・」
「は?あいつ、お前のオーベンか?」
「い、いえ。の、野中先生という研修医のオーベンです」
「野中。ああ、野中循環器科の。ハゲ坊主の野中の息子か。ちっ・・・」
「み、宮川先生は、いい、いい先生ですよ・・・」
田宮が目をそらして言ったとたん、杉山の眼光が光った。
「言うたな・・・ま、ええわ。俺に対してそう言うたのは、お前が初めてや」
おかしい。会話の流れが。大人ならここで、<なんちゃって>の潤滑油くらい欲しい。でも、この大人はなんだ。50くらいいってそうなのに、若者にスキを与えない。いやでも、そう見せかけて最後にほろっとさせてくれる先生なのかも。
すると、川口は
「うっ!」と口を押さえこんだ。極度の緊張からだ。やや過換気ぎみだが、胸をトントンでやがておさまる。
「おいおい。俺の子できたんか?そこまでイメトレせんでええで?」
「は、はい・・す、すみません」
「チッ」
2人は、何かこの息苦しい雰囲気に耐えられないでいた。このドクター、ひょっとして今後自分たちを渦巻く未知の世界へと、いざなう者なのか・・・!
間宮は、ユウキは・・・彼らは<増援>を待った。




