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異譚蒐集録 縁迎えの村  作者: 鶴喜


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8/9

8、花婿

 安倍が智史に頼んだのはそのままでいることだった。智史は何もする必要がなく、ただ流れに身を任せていれば良いのだと。

 この日安倍は午前中から何やらやることがあるからと外に出て、緋織は緋織で祭りの準備があるからと早くから家を空けており、女嶺家には文字通り智史一人が残っていた。


 智史は今までの調査を纏めたり読み返したりして、十八時を待った。安倍には恐らく女嶺家には戻らないだろうと言われており、智史は一人で広場まで向かう必要がある。一人で行うフィールドワークなぞ今まで幾らでも経験があるというのに、理解の及ばぬことに巻き込まれているからか妙に心細い。

 誰もいない家の中を一人で歩くと、一歩踏み出す度に木の軋むのがよく聞こえた。由緒ありそうな日本風の大きな屋敷だが、その分所々に傷みや劣化が生じている。一体いつからあるのだろうと、己の見た夢を反芻しながら考えた。

 台所はやや時代遅れな装いではあるものの、この家の中では比較的新しかった。綺麗に使われているのだろうといった風で、ここに滞在している間よく見た後ろ姿がシンクに立つのを思い出す。

 今まで染めたことが無いのだろう、傷みのない艶やかな黒い髪。紅色の櫛で上手に纏めた先に覗く白い項。身に着けている着物は暗い色のものが多く、決して派手な装いではないのにそれが映えている。

 得体の知れない美しい女。それが微笑みを携えてこちらへ振り向くのを想像し、そしてそれが蔵で見た、見知らぬ男に寄り添う写真の女と重なる。

 女嶺緋織——そう名乗る女が一体何者なのか、智史は知らない。


 ——不意に、背筋を冷たい何かが通り過ぎた。

 廊下の奥から、視線を浴びているような感覚。耳を澄ませば、板間の軋みの音が聞こえた気がした。きぃ、と小さく、人間のような重みの何かが乗った音。

 ぞっとして振り返ったが、誰もいない。

 当たり前だ。今この家には自分一人しかいないのだから。

 思わず張りつめていた息をそっと吐きだす。その瞬間、視界の端を何かが横切った気がして反射的に顔を向ける。そこには小さな蜘蛛が一匹、柱に留まっているだけだった。

 智史は改めて深く息を吐いた。安倍の言う通り、余計なことは考えず<そのまま>でいるべきなのだ。


 腕時計を見る。針はもうすぐ十八時を指そうとしていた。



 ***



 広場に到着した智史を迎えたのは、美しく微笑む緋織だった。


「お待ちしてたのよ」


 そう言って、袖を引いて智史を広場の中央へ連れて行く。既にそこへは村人たちが集まって座っており、その視線を一身に浴びているのが、中央のステージに並ぶ年若い村娘たちだった。

 緋織に促されるまま列の一番前に座ると、緋織がその横へ腰を下ろした。安倍は何処にいるかとその場で首を回したが、見つからない。すぐに笛や太鼓の音がし始めたので、智史は合流を諦め、舞を見ることにした。

 

 音楽に乗ってまず現れたのは二人の娘だった。二人は手を取り合い、美しい舞を繰り広げる。そこへ他の娘たちがやってきて、一列に並んだ。音楽は荒々しくなり、それに合わせ舞も激しくなる。村を襲う災害を表しているのだ。

 やがて娘たちは頭を垂れ、両手で盃を作ると頭上に掲げる。そこへひらひら衣装を靡かせた別の娘が登場し、一人を選んで手を取ると共に立ち上がらせた。二人は共に舞い始め、選ばれなかった他の者たちは踊りながら舞台から去っていく。

 緋縁様が捧げられたのだ、と思った。

 二人は暫く揃って踊っていたが程なくして一人になり、そこへまた別の娘が現れる。最初に踊っていたうちの一人だ。

 二人は冒頭のように美しく踊った。やがて相手が倒れ、娘は一人になる。

 そこから、娘は暫く一人で舞っていた。音楽に合わせて、ひらりひらりと衣装が舞う。

 智史はそれを見ながら、時折他へ視線をやって安倍を探した。思えばあの男と出会ってから、ここまで長時間一人でいるのは初めてだった。

 やがて娘の元へ別の相手が現れた。二人はひとしきり共に踊るが、娘が途中で憤るような激しい舞を見せ、相手を追い払ってしまう。

 娘は美しく舞いながら、時折やって来る舞の相手を追い払うことを繰り返した。そして暫く一人の舞台が続いた後、こちら側へ向かって寂し気に手を伸ばすとそっと目を閉じた。

 望んだ男を待ち続けているのだ。

 ずっと。


 音楽が止み、見ていた村人たちが歓声を上げて拍手する。智史もそれに倣い舞台に向けて拍手を送る。

 隣で一緒に舞を見ていた緋織がこちらを向き、唇の端を吊り上げた。その黒い瞳が智史を映した瞬間、周りの音が遠ざかる。


「この後は私も踊るのよ。ちゃんと見ててくださいましね」


 智史が何かを言う前に、反対隣に座っていた年老いた村人に肩を組まれた。途端に周囲に音が戻ってくる。


「兄ちゃん、都会の学者なんだってなァ? 遠いところからよう来たわ。ホラ、飲め飲め」


 いつの間にか料理と酒が出されていたようで、智史は無理矢理盃を持たされると、どぼどぼ酒を注がれた。零れそうなのを「おっとっと……!」と慌てて迎えながらちらりと緋織を見るが、彼女の視線はもう他のところへ向かっていた。


 そこから暫くは飲めや歌えやの騒ぎだった。畑で話を聞いた若い男も声を掛けてくれ、智史は男衆の中に混じって食事をした。比較的若い連中が興味を持つのは専ら都会の生活についてで、智史は「コンビニってのは一晩中開いとるってのは本当か?」だとか、「都会の女の人ってのはみんな海外で服買っとるってのは本当か?」だとか、そういった質問が矢継ぎ早に飛んで来るのを一つ一つ丁寧に答えてあげた。


「芸能人がうじゃうじゃおるんか?」

「いや……実は見かけることはあんまり無いかな……」

「ビルが高くて空が見えんってのは本当か?」

「確かにビルは多いけど、空は普通に見えるかなあ……」

「電車ってどんだけ速いんだ?」

「電車? いや電車はそこまで……あ、新幹線のこと……?」


「あ、緋織さまだ!」


 その名が耳に入り智史は顔を上げた。

 広場中央の舞台で、薄い羽衣で顔を覆った緋織がしずしずと歩いてくる。

 笛と太鼓がまた鳴り始め、緋織は羽衣を使いながら優雅に舞い始めた。


「いつ見てもキレーだなあ……」


 小さな子どもがそう呟く。確かに言う通り、舞を踊る緋織は美しかった。村人たちは皆手を止め、舞台の上でくるくる回る緋織を見つめている。

 智史もまた、酒の入った徳利を手に持ったまま、ぼんやりと緋織を眺めていた。緋織が舞う度にひらひら揺れる羽衣が、安倍の見せた式神の蝶を思い出させる。

 ひらひら、ひらひら。

 そうやって漂って、そして。

 薄い羽衣の向こう側と、目が合った。


 緋織はゆっくり舞台を降り、座って飲み食いする村人たちの間を縫って踊る。緋織に見惚れる村人たち一人ひとりと目を合わせ、微笑みながら優雅に、美しく。

 そうして、ゆっくりゆっくりこちらへ向かってくる——掠め取られて身動きの取れない、智史の元へ。

 美しい白魚のような手が智史の手から徳利を奪い、代わりに彼女の手を握らせた。そのまま小さくくん、と引っ張るので、智史はそれにつられて立ち上がる。周りが囃し立てる中、緋織は智史の手を取り舞台へ戻っていく。時折どこかから残念がるような声が聞こえるので見回すと、こちらへ向けて拍手を送る村人たちの中、若い男が何人か、羨ましそうに手を振っていた。


「あの……これは?」


 智史が小さく尋ねると、羽衣の奥で緋織が小さく「花婿選びの舞ですよ」と答える。


「せっかくこんな辺鄙なところに遊びに来てくだすったンだもの。全て経験していかれてくださいな」


 そうして舞台へ上がると緋織は智史へ羽衣をくるりと巻き付け、観客へお辞儀した。村人たちからの拍手に見送られ袖へはけると、緋織が羽衣を回収しながら言う。


「九時になったら、お迎えにあがりますから。それまでご自由になさってね」


 緋織は智史の左胸——心臓の上へぴとりと手のひらをつけて、すぐに離した。智史へ微笑みかけると、後ろに控えていた数人の女性たちと共に広場を去っていく。


「あ、ちょっと、緋織さん……!」


 緋織を呼び止めようと投げかけた声は、彼女に届く前に、騒ぎ立てる村人たちの中に消えていった。


「学者先生、花婿に選ばれるなんてついてるなあ!」


 酒を飲んでいた村人のうち一人が舞台から降りた智史を見つけてそう言うと、がっしり肩を組む。周りも皆祝福するように、智史を見ては手を叩いたり、酒を呷ったりしていた。


「花婿に選ばれるとどうなるんです?」


 智史が尋ねると、その村人は笑って答えた。


「禊つって、まずは川に浸かる。その後は神社で夜が明けるまで過ごすらしいんだが、そこで緋縁様にお祈りすると願いが叶うって話だ」

「願いが?」

「ああ。だがそれは眉唾だよ」


 盃の酒を飲み干すと新たに注いで、男が続けた。


「ここは小せえ村だろう。外へ出ていきたいっつー若いモンが多いのよ。緋織様はそん中から一人選んで、神社で挨拶すんのさ。この村での最後の夜だって。夜が明けると同時に、花婿は村から出ていく。昔は親が反対する家が多かったからなア。女嶺家が村から抜け出すのを手伝ってやってたのさ。今は意固地になる親も少ねえからそんなことしなくてもいいんだが……マ、風習ってのはそんなもんだ」


 男の横顔はどこか寂しげだった。年齢は四十といったところだろうか。畑仕事で日に焼けた顔は、遠くの方を見つめている。


「何か……あったんですか?」


 思わず尋ねた。男は智史に向き直ると豪快に笑って、その後静かに口を開く。


「年の離れた兄がいたんだ。遊びでも何でも付き合ってくれるから、俺はいっつも兄ちゃんについて回ってた。……ある年の縁迎えの儀で、兄ちゃんが花婿に選ばれた。そこで誰にも告げずに都会へ出て、それっきりさ。兄が村の外へ出たがってたのを、両親がずっと許さなかったんだ。だから兄は緋織様にお願いして、花婿に選んでもらった。俺は兄が外へ出たいって思ってたのを知らなかった。後から、家に来た緋織様に聞いて知ったんだ」


 その時、男の元へ小さな男児が駆け寄る。「父ちゃん!」とその足に擦り寄るのを撫でながら、男は智史へ笑いかけた。


「俺はこうしてここで所帯持って暮らしてるが、息子が外出たいっつーなら、出してやるつもりだ。都会へ出てそれっきりなのは嫌だからな……」


 男は子どもを連れて智史から離れて行く。少し離れたところに立つ女性の元へ近づくと、男児が「母ちゃん!」と駆け寄る。男は最後に智史に振り返ると、笑って手を振った。


「アンタも朝方出てくんだろ? 最後まで楽しんでってくれ!」


 智史は微笑んで手を振り返したが、男の姿が見えなくなると同時に、笑うのを止めて手を下ろした。相変わらずおめでとうと祝ってくれる村人たちを躱しながら舞台へ上がり、広場を見渡す。


「……いない」


 舞台から降り、人混みを避け、広場の端の方まで駆ける。暗闇に紛れて着流しの男が佇んでいるのを期待したが、いない。

 安倍が、どこにも。

 やがて智史は立ち止まり、汚れるのも構わず地面に座ると胸ポケットから手帳とペンを取り出した。浮かんでは消えていく疑問をどうにか解消したくて、震える手でそこへ書き殴る。


 何故、儀式を経て村を出た兄は一度も家族へ連絡を寄越さないのか?

 何故、兄を慕っていた弟は兄を探そうとしない?

 何故、花婿に選ばれた者は村の誰にも会わず、そのまま外へ出ていく?

 何故、男は僕が朝方には村を発つと思い込んでいる?


 ——最後の問いに答えるのは簡単だ。

 今まで花婿に選ばれた者は皆、村へは戻ってこなかったから。

 安倍が警察から依頼されたという内容——同胞の行方不明者。

 そもそも自分が女嶺村の情報を得た時、どんな噂が囁かれていたっけ?

 そう、数年に一度、森に迷い込んだ者が謎の——


「センセ。学者先生」


 背後から細い糸のような声で呼ばれ、思考が霧散した。はっとして立ち上がり振り返ると、緋織が立っている。藤の咲く着物に身を包む姿は、相変わらず美しい。この世の者とは、思えないほどに。


 腕につけた時計を見た。

 ——九時だ。


 智史は緋織と共に舞台へ戻った。村人たちはまだどんちゃん騒ぎの真っただ中で、二人が舞台へ上がると拍手をして出迎える。

 緋織がこちらを向いて正座し、ゆっくり頭を下げた。よく分からないままに、智史も頭を下げる、視線が下がり、自分の両手が見える。

 智史が頭を下げてすぐ、赤い盃が運ばれた。

 とく、とく、とく。酒が注がれると盃に波紋が広がり、そこへ自分の顔が映る。波打つ度に歪む自分の顔は、それを見るだけでは焦りも不安も、何一つ分からない。


 頭を上げた緋織が自分の盃をこちらへ寄越したので、智史もそれを真似した。水面に映る自分の顔が遠ざかり、今度は反対側から近づく。緋織は口元に笑みを浮かべると再び智史に頭を下げ、盃を飲み干した。白い喉が嚥下する様を見て、智史もまた、盃へ口をつける。鼻を抜ける酒の風味は存外悪くない。

 盃を飲み干し頭を下げると、舞台脇から数人の村人が近づき智史を立ち上がらせた。どこかへ導こうとするので、どこへ行くのだろうとやや不安になり周りを見る。相変わらず舞台下の村人たちは明るい顔でこちらを囃し立て、立ち上がった緋織はこちらを見て微笑むだけでついて来る様子はない。広場を去る直前、最後にもう一度と振り返ったが、やはりそこには、智史の期待するあの着流し姿はなかった。


「こちらへ……」


 寂れた集落は、かろうじて電波を届ける電柱はあるものの、暗闇を照らしてくれるような電灯はない。前を行く老女が揺らす提灯だけが唯一の光源だった。彼女の足元を照らすほどしかない微かな灯りが、偶にこちらを振り向いて智史の足下を照らしてくれる。ふ、と息を吐く瞬間にでも引き摺られそうな暗闇の中、その光だけが智史を現実に引き戻してくれる命綱だった。

 どこへ行くのですかと、智史は前を行く背中へ声を掛けようとした。けれど段々と広場の喧騒が遠のき、虫ひとつ鳴かないこの沈黙の中、左右の分かれ道を右へ進む時に振り返ってから一度もこちらを見ないその背中へ、何かを尋ねるのは憚られた。

 ざり、ざり、ざり……ざり。

 ひと際大きな音を立てて、老女が止まる。提灯が振り返り、智史の顔を照らした。


「あちらへ」


 そう言って老女が提灯を動かした。微かな灯りでは、何があるのか分からない。暫く沈黙していると、さあさあと、水の流れる音がする。


「——川?」


 智史の呟きに老女は答えなかった。誘導するように川べりへ下りていき、こちらを振り返る。「さあ」と一言投げ掛けるので、智史は仕方なく、ゆっくりとそちらへ近づいた。

 側へ行くと、老女は智史に白い布を手渡した。何とはなしにそれを広げてみて——そしてそれが行衣であると分かれば、これから何を行うのかは明白だった。


「今お召しの服はお預かりします」


 老女がそう言って両手を差し出す。智史は慌てて服を脱ぐと、その手へ乗せた。受け取った老女は深く頭を下げる。智史は暫くそれをぼうっと眺めていたが、我に返って行衣を着た。一緒に渡された草履を履き、老女を見る。

 老女は頭を深く下げたまま、ずっとそこへ立っていた。


 智史はゆっくり川の中へ足を浸けた。皮膚をなぞっていくその流れは緩やかで、溺れることがなさそうなのに少しほっとする。

 暗がりなので、智史は殊更ゆっくりと川へ入った。足首からふくらはぎ、膝、太ももへと、進むたびに深さが増していく。ゆったりとした川の流れはそれでも智史を上流から下流へと流そうとし、それに逆らって立っていると、こうして自分だけが川へ逆らっているのが悪いことのように思えた。

 この流れに身を任せるのが一番なのだ。逆らわず、ただそっと。


「頭まで」


 老女の声が響いた。思わず振り返る。老女は頭を下げたままで、こちらを見ていない。


「頭まで浸かって、十秒。身体の穢れを落とすのです」


 智史はそれに逆らうつもりはなかった。冷たい水の中へ、そっとしゃがみ込んで入っていく。

 腰、胸、そして首元へ。山から流れる清廉な水が迫ってくる。

 身体が全て川に飲み込まれると、水の音が鼓膜を塞いだ。ごぽごぽと、川上から川下へ流れていくその去り際に、智史の身体を優しく包んでいく。


 一、二、三、四、五。

 足元を小さな何かが触れた。魚だろうか。


 六、七、八、九……十。

 足に力を入れて立ち上がる。水の抵抗を感じたのは一瞬で、すぐに身体が水面から出た。空気に触れ、酸素が入ってくる。


 老女が漸く顔を上げたのは、智史が川から上がってきてからだった。頭までびしょ濡れの智史を見て再度軽く頭を下げると、「こちらへ」とまた提灯を持って行く。


 ゆらゆら、ゆらゆら。

 揺れる提灯だけを見つめていると、自分と暗闇との境目が分からなくなってくる。本当に今自分は自分の形をしているのだろうか? 意識だけがふわふわ浮いて、他は全て溶けて無くなってやしないだろうか?


 分かれ道に差し掛かり、提灯がこちらを向く。僅かに身体が照らされ、自分の指先がまだ指の形をしていることに酷く安心した。

 老女はまた右の分かれ道を選んだ。微かな灯りにも関わらずその歩みは淀みなく、少しでも離れればそのまま置いていかれてしまいそうなのが、少しだけ恐怖を煽る。

 左右は草木に覆われ、続く道は一本だけだった。草履が砂利を踏みしめる音が続き、ふと風も虫も、その他の何の音も聞こえないことに気が付く。砂利を踏みしめるのと、息を吸って吐く音。今この場で音を立てているのは、きっと自分と老女の二人だけだ。


 老女が立ち止まり顔を上げる。つられるように見上げると、数メートル先に明々とした提灯がずらりと並ぶのが見えた。無骨な石で出来た階段を一段一段照らしており、真っ暗な闇の中、そこだけが煌々と光っている。点々と続く灯りの頂上にあるのは、神社の鳥居だ。


「こちらを」


 そう言って、老女が持っていた提灯をこちらへ渡した。戸惑いながら受け取ると、老女は道の端へ寄り、頭を下げる。

 ここからは一人で行けと、そう言っているのだ。

 智史は階段の上に建つ鳥居を見上げた。入口までは提灯が照らしているが、鳥居の向こう側は、こちらからでは灯りのようなものは見えない。

 振り返ると老女は頭を下げたまま、智史が階段を上るのを待っている。智史は再び鳥居を見上げた。

 逃げるなら今だと、どこかぼんやりしたままで思う。

 このまま振り返り、老女すらも置き去りにして来た道を引き返せば、村へ戻れるだろう。女嶺家から荷物を持って村を出れば、日常に戻れる。この村のことも、女嶺緋織のことも、伝承も、安倍のことも、全てを無かったことにして。


 何も、分からないままで。


 智史はふと、安倍の言葉を思い出す。<こちら側>へ足を踏み入れたのだと、そう言ったあの目を。

 そうだ。自分はもう足を踏み入れてしまった。ぬくぬくと暮らしていた安全圏から不用心にも抜け出して、<そちら側>へ。


 一度触れてしまえばもう。

 知らないままでいることなんて、出来ない。


 鳥居へと導く提灯の灯りを、智史はひとつずつ追っていった。老女に渡された提灯を持つ手のひらに汗が滲み、その都度行衣の袖口で拭った。石段を上るごとに息が上がり、呼吸の音が大きくなっていく。

 休憩がてら、上がってきた階段を振り返った。道しるべになっていた提灯は、智史が過ぎ去ったそこから役割を終え、ひとりでに消えていく。もう数段下も見えないほどの暗闇が、丁度背後まで迫っている。

 階段の下も、老女の姿も、もう見えない。

 智史は向き直り、ひたすらに上を目指した。


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